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デモクラシーと芸術

2020年3月25日 デモクラシーと芸術

第15回 中間層は自律した聴き手となれるのか――グールドとアドルノの見方

著者: 猪木武徳

※文中の曲名をクリックすると、曲の一部を試聴できます。
※ナクソス・ミュージック・ライブラリー(NML)非会員の方は冒頭30秒ですが、会員の方は、全曲を試聴できます。

所得の上昇が需要増加を生み、新技術が需要を開拓した

  18世紀のヨーロッパの演奏芸術を支えていたのは教会と宮廷であった。宮廷はいかに上質のオペラ歌手やオーケストラの奏者を獲得するかに熱心であった。しかし既にみたように、モーツァルトがザルツブルクの大司教と袂を分かち、ウィーンでフリーランスの作曲者・演奏家としての生活を始めたように、教会と宮廷の芸術家庇護者としての立場は徐々に後退し、音楽家たちはより自由な「市場」に向けた音楽活動に従事するようになった。そうした需要を支えたのは所得の上昇を享受し始めた中産階級である。
 フリーランスの音楽家が登場するまでの宮廷は、音楽家にとって最も重要な雇用機会の提供者であったが、宮廷での音楽活動は、芸術家の自由な創造への衝動を十分に満たしてくれるものではなかった。例えば、J・S・バッハは、1717年にワイマール大公との雇用契約を違えた廉で、4週間ほど投獄されている(The New Bach Reader, p.80)。モーツァルトも1781年に許可なくコロレード大司教の元を離れていたので、1783年に父に会いにザルツブルクに戻ることについて、投獄される恐れありと、二の足を踏んでいる(ウィーンからザルツブルクの父への手紙、1783年7月12日)。それほどに、教会や宮廷で雇用されていた音楽家の創作活動は不自由なものであった。
 そこに登場したのが、中産階級の経済的勃興による、音楽芸術への需要の増大である。工業化の進展で、製造業者、銀行業者をはじめとする中産階級は数においても、その富と所得においても社会階層として膨張を遂げ、私邸や公共のコンサート・ホールでの演奏会が、教会や宮廷での音楽会に取って代わられるほどの活況を呈するようになる。この間の状況、特に1830年から1848年のロンドン、パリ、ウィーンなどの大都市の演奏会の状況、演奏会に通う人々の数、彼らの属する社会集団、彼らの求めた音楽の種類などの社会史的な構造については、W・ウェーバー『音楽と中産階級  演奏会の社会史』(城戸朋子訳、法政大学出版局)によって数量的に把握されている。「雇われ音楽家」から市場で活動する「フリーランスの音楽家」へのシフトがもっとも顕著であったのはオペラ部門であったと言われる。
 こうした音楽市場の歴史的変化を示す研究はいくつかあるが、ここでは音楽家の社会的特性の変化に目を向けてみたい。米国の産業組織論の研究者F・M・シェーラーは、1650年から1849年の間に生まれた646人の作曲家について興味深い研究を行っている。これら作曲家を選び出す際の基準は、Schwann Opus(Fall, 1996)にリストアップされているか、The New Grove Dictionary of Music & Musicians (Sadie,1980)に項目があるかという二つの基準によっている(Scherer,2004)。これらの作曲家を1650年から50年ごとに生年で4つの期間に区切り、141人(1650-1699)、148人(1700-1749)、168人(1749-1799)、189人(1800-1849)のグループに分け、それぞれの音楽家について、出生地、家族の背景、教育、主たる収入源、その地理的活動範囲をデータとしてまとめ、その社会的特性を検出するという作業を行っている。
 雇用形態別にこの4期の音楽家の割合を見ると、次のような点がはっきりと観察される(カッコ内の数字はいずれも17世紀後半から19世紀前半までの変化を示す数字)。

1)宮廷で雇用された音楽家の大幅な減少(46%から11%)。これは19世紀前半に宮廷そのものが存在した国が減少したわけであるから、当然といえば当然の姿であろう。
2)教会に雇われていた音楽家についても同様の(宮廷ほどではないものの)減少傾向(54%から22%)が観察される。
3)それに対して、フリーランスの作曲家(23%から62%)と演奏家(17%から37%)の割合は大幅に増加している。
4)19世紀に入るとコンサーヴァトリー(音楽院)での教育に従事する者が(約5%から40%以上に)増加している。この時期に音楽院が数多く開設されたためである。
5)私的なオーケストラで演奏していたものは(27%から52%)へと倍増している。

 複製技術が芸術家の所得格差を拡大させている

 それでは演奏芸術が生み出す「サービス」の自由市場の拡大は、近年、その需給の構造にいかなる変化をもたらしたのだろうか。複製技術の発達が、音楽家、特に演奏家の経済状況に及ぼした影響は大きい。一部の「スーパースター」と呼ばれる演奏家が、多額の報酬を得、そのほかの芸術家は低所得に苦しむという、所得分配の歪みが強まる傾向が一般に指摘されてきた。例えば抜群の人気を誇る少数の指揮者の演奏会のチケットやCD・DVDは爆発的に売れる。「能力」の差がそれほどあるとは思えない他の指揮者の演奏会のチケットやCD・DVDの売れ行きとの間に極端な「格差」が生まれる。こうした現象を経済学で論理的に説明するのは簡単ではないが、ひとつの有効な回答を与えたのは、経済学者シャーウィン・ローゼンの論文、The Economics of Superstars, (American Economic Review1981)である。
 ローゼンが注目したのは、ごく少数の芸能・芸術の世界のアーティストが巨額の金銭を稼得しその活動分野を支配するという、現代社会で目立つ「スーパースター現象」である。一部の人たちに「生産」(演奏や上演)が集中し、アーティストの間の所得分配が目立って歪み、トップ層のみが巨大な所得を得ていることだ。この点をデータで示すのは難しいが、次の事実は観察できる(この論文が公表された40年ほど前の観察例である)。

1)米国には200人のフルタイム・コメディアンがいる。この数はボードビリアンの時代と比べると確実に少なくなった。かといってこうした軽喜劇への需要が減ったわけではない。むしろ、テレビなどで活躍する一部のコメディアンの収入の増大は顕著である。
2)クラシックの世界の市場が、現代ほど大きい時代はない。しかし「フルタイム」のソリストの数は米国では200から300人程度に過ぎない。声楽、バイオリン、ピアノ以外の分野となると、数はさらに少なくなる。その中の少数のスター演奏家が高い収入を得ている。

 クラシック音楽だけでなく、これらと類似の例は、プロスポーツをはじめとして多くの分野と職業で見られるが、1)個人の報酬とその分野の市場規模の間に密接な関係があること、2)市場規模も報酬も、ともに最も才能がある者の方に歪む傾向が強い点がはっきりしている。
 しかしそれ以上に、聴衆を惹きつけ大量の取引を生み出す、ごく一部のスーパースターが圧倒的な人気を誇り、特別の魅力を放つ“box office appeal”という「客を呼び込める捉え難い力」に十分な分析の光を当てねばならない。これこそベンヤミンが言うアウラ(Aura)として、「礼拝」の対象となりうる威力と同じなものであろう。ローゼンはこの力の性質の分析を深化させたわけではない。その重要性を指摘したのである。分析はローゼンの専門論文に委ねるとして、そこで明らかにされた主要点のみを簡単に要約しておこう。

才能のわずかの差は報酬では拡大される

 元来、芸術や芸能の才能は均一には分布していない。その分布には大きな歪みがあるようだ。少数の抜きんでた才能を持つものがおり、その他大勢は、平凡、凡庸な才能しか与えられていない平均人である。芸術や芸能の世界、そしてスポーツの世界も、平均人が楽しみのために練習を重ねて技能を習得しているのが普通であり、抜きんでた力を持つものは少数の「例外者」で、彼らの間での熾烈な競争が芸術や芸能に生きた力を与え、その伝統が保持されるのだ。
 所得分布に現れる歪みのもうひとつの大きな原因は、彼らの才能が「代替性を持たない」点にある。例えばオペラ歌手たちの技能は、相互に代替できないような固有の卓越性を持つ。一人のスター的存在のプリマドンナ歌手がいたとして、技能や存在感において彼女にわずかに及ばない歌手を何人集めても、このプリマドンナにとって代わることはできない。それがこのプリマドンナの出演料を高め、彼女のCDやDVDが大量に売れる原因なのだ。売れるから、大量に複製されるのは当然である。わずかに技能が低いタレントが、高いタレントへの不十分な代替物でしかないため、高いタレントへの「プレミアム」は異常に大きくなる。これがスーパースター現象発生のひとつの理由なのだ。
 スーパースター現象を生み出すもうひとつの要因として、ローゼンは、複製技術(再生可能性)を挙げる。かつて複製技術に頼ることがなく、「実演」のみが演奏芸術の形であった時代には、一人の音楽家や役者がいかに優れていても、その演奏や演技を提供できる機会は限られていた。したがってスーパースター以外でも、それぞれ需要(聴き手や観客)を見つけることができた。ところが今や、レコードやCDの登場によって音楽が複製可能になり、劇場での演技や演奏は、映画やビデオで置き換えられることが多くなった。“box office appeal” のあるスター性を備えた演奏家の優れた演奏を、廉価で楽しめるようになったのである。
 このような場合、最も優れたアーティストは供給の独占者となるわけであるから、自分の演奏(サービス)を低価格で多くの人に提供するのか、高い価格でごく少数の人にその「サービス」を売るのかを選択することができる。
 ちなみに、このスーパースターを生み出すのは、必ずしも才能の違いだけによるものではなく、消費者側の要因も大きい。消費者が他の人々の消費するものを自分も消費したいという心理が働くからだ。芸術の「消費」は、一瞬の行為ではなく、「知れば知るほど、さらに楽しむことができる」という、消費における「資本」の形成とも呼ぶべき過程が含まれる。この資本が大きければ大きいほど、それぞれの消費者が芸術家から得る喜びは大きくなるのだ。
 芸術に接する機会が増えるにつれ、友人知人とその芸術について語り合うことによって、あるいは新聞や批評誌などを読むことによって、この消費における「資本」要素は大きくなる。かくて、有名な演奏家の演奏はますます人気を呼ぶようになる。実は、この勢いは恐ろしいほどの力でもって音楽産業を左右し、スーパースターを生み出す一方、力がある多くの地味な芸術家を表舞台から追いやってしまうことがある。つまり、「popular でなければgoodでない」という人気第一主義を芸術の世界に持ち込むようになるのだ。

複製技術は芸術鑑賞を散漫にする

 ここで今一度ドイツの哲学者、T・アドルノを引きながら、前回説明したグールドの言う「メーヘレン・シンドローム」について考えてみたい。レコード、CDなどのテクノロジーは、グールドの言う「生活を芸術と化す」ような、鑑賞者の参加による芸術創造の作業を生み出しているのだろうか。グールドの論に疑義を呈したアドルノは、複製技術の登場によって聴衆の持続性や集中力は退化し、もはや音楽にじっくり耳を傾けなくなると指摘する(「音楽における物神的性格と聴衆の退化」)。テクノロジーは、最も抽象的な芸術とみなされてきた音楽をレコードという物質に具象化することによって、物神的性格を強め、その結果グールドが唱えたのとは逆に、聴衆は受け身になり、音楽に対して無批判的になる。文化商品となったレコードはその自己完結性ゆえに有機性を失い、音楽を自律的に聴くという行為を人々から奪い去るとアドルノは強調するのだ。

テオドール・アドルノ(Jeremy J. Shapiro / Wikipedia Commons)

 いまから60年以上も前のことになるが、筆者が中学生時代、レコードがそれほど思うように手に入らない時代には、自分が持っていないレコードを友人の家で聴かせて貰ったり、学校の「レコード鑑賞会」などで楽しんだものだ。外国のオペラ座の日本への引っ越し公演となると、一生に一度観られるかどうかと言うほどの時代であった。まれに行けた演奏会は、今でも部分的にではあるが記憶の中にある。アドルノの言葉を借りれば、「聴き手がまだ受け身にはなっていなかった時代」のことである。
 アドルノは言う。
 「権威づくの規範に対するかつての反対の急先鋒が、いまでは市場における成功という権威の証人におさまってしまった。瞬間と目もあやな表構えの興趣が、元来その要請が正しく聞くことの中に含まれているはずの全体の考察ということから聞き手を外らすための口実となり、こうして聴き手は彼の抵抗線のもっとも弱い虚をつかれ、唯々諾々たる買い手の立場になり下がってしまう」(三光長治・高辻知義共訳『不協和音 管理社会における音楽』p.17)
 アドルノは常に難解であるが思い当たる節はある。彼の言葉は、聴き手が、精神を集中させて音楽に向かい合うことが珍しくなった時代の姿を、簡にして要を得た形で表現していると思う。

アドルノのエリート意識

 アドルノの立場は、グールドが描いたような、作曲家、演奏者、聞き手の三者が共同して関わる芸術の創造過程とはほとんど背馳しているように見える。しかし両者は決して相容れないわけではない。それは聴衆に何を期待するのか、聴衆のどこに危うさを見てとるのかによって、すなわち「聴衆」の性格付けによって論の性格が異なっているだけなのだ。
 それはちょうど、デモクラシーの存立にとって、分厚い中間層の存在が果たす役割に期待するか否かという議論にも通じる。ここでも見方は二つにわかれる。ひとつは分厚い中間層が、教養と良識を備えた自立した個人として、みずからの感性と知性に基づいて適切な政治判断を下すことを期待する立場である。いまひとつはA・トクヴィルのように、経済的豊かさとともに社会的に肥大した中産階級は、公的な事柄に無関心になり、権利と教育と財産に関心を集中させて、似たような欲求、慣習、趣味を持つようになると考える立場である。つまり、中産階級の人々は対象を同じ側面から見るようになり、精神はおのずと類似した観念に傾斜してゆくと考える。
 例えば、前者の立場に立つアリストテレスは『政治学』で次のように言う。
 「幸運の賜物にしてもその中間的な所有が何ものにもまして最善であるということは明らかである。何故ならその程度の所有は理性に最もたやすく従うが、過度の美しさとか、過度の強さとか過度の善き生れとか過度の富とか、或はそれらと反対に、過度の貧しさとか過度の弱さとか非常な賤しい地位とかをもつ者は、なかなか理性についていきにくいからである。」(岩波文庫、p.203)

アリストテレス

 さらに、「中間的な人々」から組織された国に最も善き政治が行われるとアリストテレスは考えた。国家という共同体も、「中間的な人々」によって構成されたものが最善であり、中間的な部分が多数で、政治をする人々が生活に充分な財産を有しているということは、この上もなき幸いなのである。或るグループは非常に多くのものを所有しているのに、他の或る人々は何一つ所有していないところでは、極端な民主制か生粋の寡頭制か或いはこの両方の極端なものを通じて僭主制かが生じてくることをアリストテレスは看破していたのである。
 「ほどほどに所有している人々」、すなわち社会の中間層が「広く、厚く」形成されているかどうかが重要なのである。教養とほどほどの富を持つものが政治に参加し、善き政治を支えて行くことが必要なのである。
 アリストテレスの「中間層」の議論は、「中間層」の安定性のみに注目する点で楽観的だという批判もありうる。確かに堅実な中間層の存在は、よき社会の必要条件ではあるが、十分条件ではない。ポピュリズムの問題が示すように、「中間層」は常に社会秩序にとってプラスの要素だけを秘めているわけではない。トクヴィルの指摘するように、多数の専制、安易なポピュリズムに流れる危険があることは十分推測のつくところだ。「中産階級」が富や経済的な利益に執着する結果、まともな政治的な関心を失い、(アドルノの言葉をもちいれば)「市場における成功という権威の証人」となって「唯々諾々たる買い手の立場」に堕する可能性が予想されるのだ。
 このように見て行くと、グールドの議論はアリストテレスの立場からのものであり、アドルノの推論はトクヴィル的だと重ねることができる。1830年の七月革命時にはルイ・フィリップを擁立して「七月王政」を樹立させ、のちの第三共和政の成立に力を発揮したA・ティエール(1797ー1877)と、政治的無関心に陥り高貴な精神を失った中産階級をトクヴィルは厳しく批判した。そのトクヴィルの中産階級批判とアドルノのそれには共通するところがある。
 アドルノの中産階級批判には、中間層の聴衆に対する優越感が潜んでいるようにも見える。彼がアルバン・ベルクの下で音楽理論を本格的に学び、作曲や編曲を行ったことから推量すると、このエリート意識は自然なものだったかもしれない。筆者がアドルノの作品で音として聴けたのは、シューマンのピアノ曲集Album füer die Jugend, Op.68 から6曲を選び出し小オーケストラ向きに編曲したものだけである(Sechs Stücke aus Op.68 von Robert Schumann, für kleines Orchester gesetzt)。これは哲学者の余技ではない。音楽に何かを賭けたものにしか生み出せない迫力を感じる。

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*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

猪木武徳

いのきたけのり 1945年、滋賀県生まれ。経済学者。大阪大学名誉教授。元日本経済学会会長。京都大学経済学部卒業、マサチューセッツ工科大学大学院修了。大阪大学経済学部教授、国際日本文化研究センター所長、青山学院大学特任教授等を歴任。主な著書に、『経済思想』『自由と秩序』『戦後世界経済史』『経済学に何ができるか』『自由の思想史』など。

連載一覧

  • 津野海太郎「最後の読書」読売文学賞受賞


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