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ふしぎな中国語――日本語からその謎を解く

なぜか多い“犬食い”小説

 中国はかつて「飛ぶものは飛行機以外は何でも食べ、四本足のものは机以外なんでも食べる」などと揶揄された。これはかなり失礼な言い方であるが、広東省を中心に、日本では通常食べていないものが食べられていることは確かである。ちなみに、私が北京で食べてもっともまずかったのは蝉である。

 私は犬が好きである。もちろん食用としてではない。しかし中国では、犬も食べられてしまう場合がある。四書五経のうちの『礼記』月令にも「秋には犬を食べる」とある。秋は木火土金水からなる五行のうち金に属し、犬も金に属するかららしい。

 ただ、張競『中華料理の文化史』(ちくま新書、1997年)によると、南北朝時代くらいから犬は一般的には食べられなくなったという。

 とはいえ、現代でも犬食の話はある。韓東『小陶一家の農村生活』(飯塚容訳、勉誠出版、2012年)には、文革中に都市部から農村にやってきた主人公一家が飼っている犬をまわりの人に何度も食べられてしまう話が載っている。ノーベル文学賞を取った高行健の短編「おじいさんに買った釣り竿」(『』集英社、2005年所収)にも、飼っていた犬の皮が近所に干されているという記述がある。これらの小説も日本ではほとんど読まれていないと思うが、非常にいい小説なのでぜひ読んでほしい。

 日本でも犬食いの話はある。大江健三郎が東大在学中に書いた小説「奇妙な仕事」は、野犬を捕まえて殺す話だが、このころの東大でも犬を捕まえて食うことが行われていたらしい(この小説も傑作だと思う)。動物好きで有名な作家の畑正憲(ムツゴロウさん)が、東大駒場寮でかわいがっていた犬を食われたなどという本当かどうかわからないエピソードもある。

 中国語学者として名高い橋本萬太郎(1932年、群馬生まれ)の『現代博言学』にも、子どものころ父親について猟に行き、道に迷った結果、山中で猟犬を撃って食べたというエピソードが載っている。犬は携帯用食料でもあったのだ。まさに「狡兎死して走狗烹らる」(うさぎがいなくなると猟犬も不要になり煮て食われること)である。

量詞(数える単位)のはなし

 英語などでは、数量は名詞の前に直接おかれるので、「一匹の犬」であればone dogとなる。日本語では数字の他に、犬を数える「匹」という単位が必要になる。中国語も日本語と同じで、ものを数える単位がある。中国語文法ではこれを「量詞」と呼ぶ。

一个人 (一人の人)/ 一本书 (一冊の本)/ 两瓶可乐(二本のコーラ)/

 人間を数える時には“(箇の簡体字)”を使う。“一个人”なら「一人の人」という意味を表す。量詞は様々あるが、中でもこの“(箇)”が最もよく使われる。日本でも「一か月」を「一ケ月」と書くことがあるが、これは「箇」の字の略体である。竹冠がついていることからもわかる通り、竹を数える単位であった。

 本や辞典などを数える時には“”を使う。“一本书”ならば、“一本”が「一冊」を表し、“(書)”が本を表す。コーラ、お茶など、瓶やペットボトルに入っているものは、“”で数える。なお、数字の「二」は通常は“”だが、量詞の前では、常に“”を使う。「二人の人」ならば、“两个人”である。“”の字は「両目」「両足」のように、本来はペアになっているもののことだが、漢代から混用されはじめていたという。

 日本語と似た感覚のものもあれば、微妙にずれたものもある。コップで飲むものは“一杯茶(一杯のお茶)”“一杯啤酒(一杯のビール)”と““で数える。日本語の「一杯、二杯」は、コップで飲むものだけでなく、どんぶりで食べるもの、例えば「一杯のかけそば」「一杯のごはん」のようにもいうが、こうしたものは“”ではなく “”で数える。

犬は「道」「魚」「河」と同じカテゴリー

 日本語とはだいぶ異なる量詞の使い方もある。例えば動物。馬は“”、牛は“(頭)”で数えるのは日本語と同じだが、猫や鶏などの小型動物は“(隻)”で数える。

 しかし犬はなぜか“”で数える。“”で数えるものは、他には“(道)”“(魚)”“(河)”などがあり、細長いものを数えるときに使う。

 犬がどうして道や川や魚と同じカテゴリーなのか、謎である。木村英樹『中国語はじめの一歩 』では、細長い尻尾を数えているのだ、というが、根拠が薄い。阿辻哲次『漢字の字源』では、「吊るされた肉」ではないか、という説も見たことがある。確かに中国では、皮をはいだ状態の肉が細長い状態で吊るされていたから、こちらのほうが蓋然性が高いように思う。ただ、他の動物も肉は吊るされた状態で売られているのに、犬だけが“”になっているかはよくわからない。

 南米に旅行した時、たくさんの痩せた大きな犬がいて「あれ、“”だ!」と思った。痩せていて大きめの犬は、上から見ると背骨のラインが目立って見え、体はとても薄くうつる。確かに「細長いもの」に見えた。猫は痩せていても“”には見えない。

 この解釈もこじつけといえばこじつけである。

 最近は中国も豊かになって、都市部では丸いフォルムの小型犬が増えた。こうした犬たちは、猫と同様“”で数えられている。「なるほど、言葉は変化するんだな」と思ったが、『水滸伝』でも“”で数えられている。つまりもともと“”で数えていたのに、いつの間にか“”とも数えるようになったらしい。

 そもそも“”は、他にも「命」や「好漢」を数えるのにも使う。「命」が細長いものである、というのは理解できなくもないが、「好漢」はわからない。細長いのだろうか? 言語はすべてが合理的に説明がつくわけではないようだ。

 ところで、「犬」は現代語では“”である。古典では「犬」「狗」どちらも使う。「犬」のほうは日本語の音読みでもケンと読むように、おそらくは犬の鳴き声の擬音語からきているのだろう。「狗」のほうは不明である。

 中国の動物名は、もともと擬音語から来ているものが多いらしい。「猫」のほうも、現代語ではmaoだが、鳴き声からきている蓋然性が高い(証拠はないようだが)。他にも「鶏kei」「烏a」「虎ho」「狐hua」「犬kuen」「牛ngou」など、 すべて擬音語由来だろうという(藤堂明保『漢字の話』による。なお、この本では「狗」は「小さくてかわいい犬」から「イヌ一般」になったのではないか、としている)。

 友達に騙されて、私も北京で犬を一度だけ食したことがある。あまりうまくはなかった。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
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それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
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「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

橋本陽介

1982年埼玉県生まれ。お茶の水女子大学基幹研究院助教。慶應義塾志木高等学校卒業、慶應義塾大学大学院文学研究科中国文学専攻博士課程単位取得。博士(文学)。専門は中国語を中心とした文体論、テクスト言語学。著書に、『日本語の謎を解く―最新言語学Q&A―』(新潮選書)、『中国語実況講義』(東方書店)、『「文」とは何か 愉しい日本語文法のはなし』(光文社新書)、『中国語における「流水文」の研究 「一つの文」とは何か』(東方書店)など。


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