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デモクラシーと芸術

2020年4月22日 デモクラシーと芸術

第16回 芸術家にパトロンは必要か――バッハとモーツァルトの悩み

著者: 猪木武徳

※文中の曲名をクリックすると、曲の一部を試聴できます。
※ナクソス・ミュージック・ライブラリー(NML)非会員の方は冒頭30秒ですが、会員の方は、全曲を試聴できます。

公の援助の限界

 友人夫妻に誘われて久しぶりに長岡京室内アンサンブルの演奏会(「望郷に寄す」)に出かけた。プログラムは、林 光が映画につけた音楽(『裸の島』より「裸の島のテーマ」)、『真田風雲録』より「下剋上の歌」)、中村滋延、武満 徹の弦楽合奏作品、C.M. von ウェーバーの『クラリネット五重奏曲』(Op.34, J.182 弦楽合奏版)、そしてドヴォルザーク『弦楽四重奏曲 第12番 』ヘ長調「アメリカ」(Op.96, B.179 弦楽合奏版)という構成だった。
 美のイデアを目指すプレイヤーたちの自律的な姿勢が、結果として霊妙なハーモニーを生み出す見事なアンサンブルだった。指揮者がいなくとも、フレーズと音色とハーモニーが、「自然と一つになっていく」というのがこのアンサンブルの原点だと言う。意図的に「合わせる」ことに熱心になると「うそ臭く」なる。むしろ他のメンバーたちの音を聴き取りながら、その音の向こう側にある美しいもの(美のイデア)を求めるというわけだ。これは外からの指示で均質的な音を作りあげるというものではない。本稿で前に「リベラル・デモクラシー」との類比で論じた、多様性と自律性を重んじながらも生まれ出る秩序形成のメカニズムと似ている。
 終演後、ロビーで森悠子さん(長岡京アンサンブルの音楽監督)の本『ヴァイオリニスト 空に飛びたくて』が販売されていたので入手して早速読んだ。自伝でもあり、演奏芸術についての考え、教育哲学が分かりやすく書かれている。森さんの音楽への愛、若い芸術家に大事なことを伝えようという熱意にあふれる本だ。

森悠子『ヴァイオリニスト 空に飛びたくて』(春秋社)

 同書の中で改めて気づかされたことがいくつかある。それはこの合奏団の、「公の機関からの援助は控えている」という運営方針だ。合奏団のオーナーは、森さんと意気投合した歯科医の戸渡孝一郎氏ただひとり。彼が森さんの音楽家として、そして教育者としての抜きんでた力量に惚れ込み、自由な発想でプログラムを組んで演奏活動する場を提供しているのだ。公の機関からの援助がベースになると、毎回、ヴィヴァルディの『四季』のようなよく知られた人気作品ばかりを演奏しなければならなくなる。市民の税金を使っていると、沢山のお客さんを喜ばせるために選曲も強い制約を受けることになり、自主的な運営が難しくなってくるのだ。
 公の援助を受けないという方針は、作曲、演奏などの音楽活動に課せられるひとつの大きな制約から解放されることを意味する。芸術活動には資金が必要だ。ではその資金を誰から、どのような形で獲得していくのか。これは容易な問題ではない。歴史的に見るとバッハもモーツァルトも、ベートーヴェンもワーグナーも、パトロンをどこに求めるかという問題に悩まされ続けていた。
 国あるいは公的機関が資金をふんだんに投入したからと言って、モーツァルトやゴッホが生まれるわけではない。パトロンと一言で言ってもいろいろなタイプがあり、その時代の経済社会の構造や政治体制が関わってくる。「公」の力なのか「民」の力なのかという二分法だけで論ずると、単なる抽象論に終わってしまう。むしろ、その内実を具体的な歴史事例で見ておくことが問題の複雑さを知る上では重要と思われる。何人かの重要な音楽家を取り上げながら、彼らの経済的基盤、パトロンとの関係が芸術活動に与えた影響をまず探ってみたい。

世界最初の民営オーケストラ

 宗教権力、政治権力、経済権力はときに絡まり、ときに相対立する関係にあり、その実体を純粋な形で取り出すことは難しい。西洋音楽の歴史にあらわれるパトロンは、商人層、教皇を頂点とするローマ・カトリック教会、あるいは神聖ローマ帝国の領邦国家の行政機構、王侯貴族、市民階層、社会主義独裁、資本主義経済の企業家たちと多種多様であり、パトロンという一つの範疇では論じられないほど複雑であり、援助の形態も様々だ。パトロンが芸術家に給与や年金という定額の収入で支える場合もあれば、「お得意様」として作品を注文するだけという形もあろう。芸術家が定額収入を得ている場合、その源が王侯貴族の「私」的財源なのか、教会や地方政府などの「公」的財源なのかによって、パトロンの支援の形態や芸術への影響も変ってくるであろう。
 例えば、バッハの時代の音楽を支えていたのは「プロテスタント教会」だと言っても、その教会と領邦国家の力関係がはっきりしない限り、教会が音楽芸術の庇護者であったという言葉に具体的な意味を付すことは難しい。バッハが長く(1723~1750)音楽活動を行ったライプツィヒにおける政治と教会、特に音楽関係の人事や予算の実情を知る必要がある。しかしこれは断片的情報に頼るしかない。
 神聖ローマ帝国の領邦国家の都市ライプツィヒは、ザクセン選帝侯のバックアップで推進されたプロテスタント運動の一大拠点を成していた。30年戦争を経て、18世紀に入るとライプツィヒはヨーロッパにおける通商の要となる大商業都市としての地位を築き上げていた。商業の中心地ということは、文化と芸術活動を楽しむ豊かな市民階級が生まれる素地が存在していたことを意味する。ザクセン選帝侯の芸術活動の中心地が、首都ドレスデンではなく商都ライプツィヒとなったのは経済の力であった。
 ライプツィヒの市民階級による自由な音楽活動の具体的な形としては、1781年に創設されたライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団(Gewandhausorchester Leipzig)がある。すでに1743年にGrosses Concertという一種の結社(Verein)が誕生し、私邸での演奏会が開かれ始めていた。翌年には演奏会場は「旅籠」に移されたが、聴衆のマナーが悪いというので、市長と市参事会の提案で、1781年にゲヴァントハウス(織物職人会館)に移される。このオーケストラは、王侯や貴族階級が享受してきたオーケストラ演奏を、一般市民に「開かれた」かたち、すなわち入場料を払うと身分・階級にかかわりなく楽しめるという自主自営のオーケストラの誕生を意味した。世界で一番古い民間オーケストラと言われるのはそのためである(The Cambridge Companion to Conducting)。

現在のゲヴァントハウス(FloSch / Wikipedia Commons)

 こうした民間によるオーケストラが、ドイツより工業化が進んでいたイギリスやフランスではなく、ドイツで誕生したのは18世紀のドイツ語圏の音楽活動の伝統とそのエネルギーであることは確かであろう。演奏会場が織物の見本市会場でもあった建物に移ったということは、織物業が当時の産業活動の主役としていかに力があったかを示している。
 このゲヴァントハウス管弦楽団は、メンデルスゾーンがシューベルトの最後の交響曲ハ長調(Die grosse C-dur, D944)を初演(1835年)、ブラームス自らの指揮で彼の「バイオリン協奏曲」ニ長調(Op.77)をヨアヒム(Joseph Joachim, 1831~1907)を独奏者として初演(1879年)したことなど、輝かしい歴史を持つオーケストラである。ただライプツィヒに行ってみると、今見られるのは1981年に新築されたモダンな建物で、当時の雰囲気を感じさせるようなものは残っていない。
 わたしがバッハの『マタイ受難曲』をゲヴァントハウス・オーケストラと聖トーマス教会合唱団による演奏で鑑賞したのは日本でのことだ。この大作がオペラであり、協奏曲でもあることを改めて知り、西洋音楽の最高傑作が、歌手と楽器がいかなる配置で演奏されるのかを視覚的に理解できたことも貴重な思い出である。

領主の権力は教会のそれを上回る

  J・S・バッハの経済生活はどのようにして支えられていたのだろうか。この偉大な作曲家の生活が、すべて教会での音楽活動によって支えられていたわけではない。バッハの所得の源泉と額について、The New Bach Reader, a Life of Johann Sebastian Bach in Letters and Documents (1998 )に、バッハがライプツィヒの聖トーマス教会のカントールと音楽監督に就任する経緯を語る断片的な資料が掲載されている。それをまとめて紹介しておく。

ヨハン・セバスチャン・バッハ

  1722年6月5日に、聖トーマス教会、聖ニコラス教会、ライプツィヒ大学の聖パウロ教会の音楽監督を兼務していたクーナウ(Johann Kuhnau, 1660~1722)が62歳で亡くなった。ちなみにこのクーナウなる人物、途方もない博識家(いわゆるpolymath)で、作曲家、数学者、作家、法律家と多方面の仕事をしつつ、ライプツィヒの聖トーマス教会のカントールの職務を遂行していた。当時の音楽家が広い知識と教養を持っていたことを示す例であろう。

ヨハン・クーナウ

 ライプツィヒ市参事会は、クーナウの後任を選ばなければならない。2か月後にカントールのポストの採用試験演奏が行われ、自由市ハンブルクの音楽監督でカントールであったテレマン(Georg Philipp Telemann, 1681~1767)が合格した。しかしハンブルク側が数百ターラーの給与引き上げを申し出たため、テレマンは異動を思い止まりライプツィヒでの就職を断る。テレマンは、当時はバッハを凌ぐほどの有名な大作曲家であったため、バイロイト宮廷やロシアからも誘いがあった。結局彼はそれまでの活動の中心地であったハンブルクに留まり多くの作品を生み出し続けるのである。このエピソードは、音楽家の職業市場も給与による引き抜きや移動があったことを示している。

ゲオルク・フィリップ・テレマン

 紆余曲折の後、ライプツィヒ市は、ケーテンのカペルマイスターであったJ・S・バッハを採用する。記録によると、バッハに採用が決定するまでに、3人の音楽家がテストを受けている。すでに人気と名声の高かったテレマンに比べると、バッハはまだ中堅の作曲家とみなされていたらしく、一応採用が決まった後も(仮採用ということであったのか)バッハは厳しいオーディションを受けた模様だ。この時、バッハは二つのカンタータ、「イエス十二弟子を召寄せて(Jesus nahm zu sich die Zwölfe )」 BWV 22と「汝まことの神にしてダヴィデの子(Du wahrer Gott und Davids Sohn)」 BWV 23を演奏したとある。市議会が採用に慎重であったことから見て、カントール職が政治的にも芸術的にもいかに重要なポストであるかが推察できる。ケーテン公がバッハの辞任を認めたことによって、バッハはライプツィヒ市の聖トーマス教会のカントールに就任するのである。その際、バッハが、神学の理解の高い能力を有するという証書が試験官と聖トーマス学校の校長から発行されている。
 バッハがケーテンから赴任したのは1723年5月29日。4つのワゴンに家財道具を載せ、バッハは家族とともに聖トーマス教会附属学校の改築された宿舎に落ち着くのである。そのおよそ2週間後の6月10日、バッハは聖ニコラス教会でもカンタータ 「貧しきものは饗せられん(Die Elenden sollen essen)」 BWV75を演奏している。

公務員バッハの所得を推計する

  バッハがライプツィヒ市の聖トーマス教会のカントールに採用されてからの収入状況の資料が一部残されている(先に挙げたThe New Bach Readerより)。バッハの年収のうち4期に分けた固定給として支払われていた分は、1723年から1750年まで毎年100ターラーを少し上回る程度であった。しかしこの定収入以外の所得が大きかったようだ。住宅をあてがわれ、教会で執り行われる結婚式や葬式に際しての追加的な謝礼、そして何よりも、選帝侯、市当局、ライプツィヒの富裕階級の特別基金からの定期的な支払も含めると、年収は、700ターラー程度であったと推定されている。
 当時の生活費(cost of living)から換算すると、この額がどれほどであったかを確定することは、通貨制度と金融市場に関する経済史の考察が必要になるので難しい。筆者も昔、当時のライヒス・ターラーの購買力(purchasing power)について調べようとしたことがあった。以前友人がモーツァルトの書簡の新しい英訳をしていた折に、モーツァルトの手紙にしばしば登場する、クロイツァー、グルデン、フローリン、ドゥカートなどの通貨単位についていろいろ調べたことがあった(R. Spaethling, Mozart’s Letters, Mozart’s Life)。結論は「正確なところはわからない」ということに落ち着いた。その理由は、同じ通貨が用いられていても、国ごとに、ときには地域ごとにその購買力がかなり異なるということである。バイエルン地方のターラーは大体2~3グルデン、それが北ドイツ地方でのライヒス・ターラーとなるとその半分の約1.5グルデンの価値しかない。おまけにそのグルデンもターラーも、どこで鋳造されたかによって価値が異なるのだ。例えば、12ザルツブルク・グルデンは、ウィーンの10グルデンの価値しかない。それが現代の通貨でいかほどの価値を持つかの推定は更なる難問だ。
 大まかな推計であるが、モーツァルトの時代の20グルデンは、現代の米ドルに換算すると、600ドルぐらいだろうというのが一般的なようだ。1.5グルデンが1ライヒス・ターラーと仮定すると、先に挙げたバッハの年収700ライヒス・ターラーは約1,000グルデンになる。1,000グルデンは、600×50で現代のドルで30,000ドルになり、バッハは現代の日本円で年収300万円程度ということになる。
 この額は、子沢山のバッハには決して十分なものではなかったはずだ。バッハが自分のポストへの報酬に対して満足していなかったことを示すのが、幼なじみで、すでに出世を遂げたゲオルグ・エルトマン(ダンツィヒのロシア駐在代表)にライプツィヒから送った手紙(1730年10月28日付)だ。経済状況の苦しさからバッハはエルトマンに別のポストを探してもらえないかと打ち明けているのだ(この手紙はシュバイツァーの『バッハ』にも引用されている)。自分の職務内容と処遇や報酬が聞いていたほど良くないこと、物価も高い上、定額所得以外の臨時収入が減額され続けていること、当局(市参事会)が音楽に無理解であることなどを挙げて、経済面だけでなく、仕事に関わる精神的環境が悪いことを慨嘆している。手紙のなかで現在の収入が700ターラーであると書いている。葬儀の際の臨時収入についても、「死亡者が通常より増えれば、それに応じて臨時収入が増えるのです」が、「気候が良くなると(死者の数が減り)収入が減る」とまで嘆くのだ。
 バッハのような「公務員」の音楽家の給与や人事は、教会監督会と市参事会の両者の代表が決めていたのだが、実質的な人事と予算の権限を握っていたのは市参事会のようだ。その点はドイツのプロテスタントの教会と、皇帝とカトリック教会の二つの力が中世的な「楕円構造」を成していたオーストリアや南ヨーロッパの国々とでは状況は異なっていた。

晩年のモーツァルトにパトロンはいなかった

 こうしたバッハの経済状況は、モーツァルトがザルツブルク大司教と袂を分かち、ウィーンでフリーランスの作曲家として活動を開始してからの経済的苦境とは性格が異なる(第3回参照)。バッハは低額であるが収入は確保されていた。モーツァルトは借金(少なくとも合計1,415フローリンはあったと言われる)を願い出ているフリーメイソンの同志プフベルク(Michael Puchberg, 1741~1822)やリヒノフスキー侯爵(Karl Alois von Lichnowsky, 1761~1814)のような理解者はいたものの、ウィーンで独立した後、年金収入が得られるようなパトロンはいなかった。したがって、ウィーン時代のモーツァルトはパトロン不在の「経済基盤の端境期」の不運な芸術家であった。まさに革命という貴族制崩壊の不安定な時代を生きねばならなかった音楽家と言えよう。
 モーツァルトが少年時代、父に連れられて(時には姉ナンネルも一緒に)何度も続けた旅は、王侯貴族のパトロンや得意先を探す旅であり、就職活動の旅であった。幼少期に書かれたバイオリン・ソナタやフルート・ソナタは、フランスやイギリス、あるいはオランダの王様やその子供たちに献呈されたものがほとんどである。1770年から1773年の少年期のイタリア旅行中に書かれたオペラ『ミトリダーテ、ポントの王』(KV. 87)も、オーストリア領であったロンバルディアのイタリア人貴族、フィルミアン伯爵の依頼で作曲されたものである。イタリアにも、教皇クレメンス14世も含めてパトロンはいたということもできるが、常勤的雇用契約が結ばれたわけではない。あくまで作品を散発的に注文(依頼)する「お得意さま」であった。

少年時代のモーツァルト

 その後モーツァルトはザルツブルクで新しく選ばれたコロレード大司教の下で、既に述べたように、宮廷・聖堂オルガニスト、教会音楽の作曲者・演奏者としての雇用関係を結ぶ(1772~1781)。しかし教会向けの作品が少なかったのは、コロレードにとって大きな不満であった。この時期、彼は幼なじみで元ザルツブルク市長の息子ハフナー(Siegmund Haffner, 1756~1787)の求めに応じて、セレナーデ(K.250)や喜遊曲などの作曲に時間を費やしていた。
 ウィーンに移ってからのモーツァルトの経済生活の惨めさについては多くが語られている。確かに1787年にヨーゼフ2世が私的な宮廷楽師(Kammermusicus、英語ではprivate musicianと訳される)という低所得のポストをあたえたものの、彼の活動の多くは、個人的なお得意様からの不定期の注文で支えられていた。ただこの1787年という年は、芸術家モーツァルトの生涯にとって大きな変化をもたらした年でもあった。1月にはプラハへ旅立ち、『フィガロの結婚』(KV.492)を上演し好評を博したため、国立劇場の支配人(Pasquale Bondini)から次の新しいオペラ作曲を依頼されて契約も交わしている。同年秋にプラハで初演され、聴衆から熱狂的な評価を得た『ドン・ジョヴァンニ』(KV.527)である。
 こうした芸術活動においては豊穣であったものの、経済状況においてはまさに逆境のさ中にあったと言ってもよい。かつて1784年3月20日の手紙では誇らしく語っていた彼のコンサートの定期契約者(174名!)の数も増加の期待薄のまま、常勤職は得られず、英国への移住さえ考えたこともあったようだ。
 1787年5月に、病気がちであった父レオポルドが急逝する。妻のコンスタンツェの健康も芳しくない。家族状況も経済状況も思わしくない中、彼の芸術家としてのプライドを傷つけるようなことも次々と起こった。モーツァルトが、晩年、いかに教会からも宮廷からも疎んじられ、無視され続けたのかを示す悲しいエピソードをひとつ記しておこう。
 1790年2月20日に死去したヨーゼフ2世の跡を継いだのは弟の新皇帝レオポルト2世であった。戴冠式は同年10月9日にフランクフルトでマインツの大司教の司式で執り行われる。レオポルト2世は、9月末にウィーンからフランクフルトに向かう時、1,500名の随員、1,300名の歩兵、104の荷物馬車、アントニオ・サリエリを含む十数人の音楽家を同行させている。しかしモーツァルトに声はかからなかった。モーツァルトは皇帝からも教会からも完全に無視され、ウィーンのあらゆる音楽行事からも締め出されていたのだ(Spaethling)。

アントニオ・サリエリ

 こうした状況は何を示しているのか。パトロンは芸術を生み出すためのエンジン、プロモーターとなることもあるが、そのための必要条件でも十分条件でもないということだろう。事実モーツァルトは、パトロンのいないまま、ウィーンでの約10年間の歳月をかけて、われわれ音楽愛好家の宝となるような幾多の傑作を生み出し続けたのだ。

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*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

猪木武徳

いのきたけのり 1945年、滋賀県生まれ。経済学者。大阪大学名誉教授。元日本経済学会会長。京都大学経済学部卒業、マサチューセッツ工科大学大学院修了。大阪大学経済学部教授、国際日本文化研究センター所長、青山学院大学特任教授等を歴任。主な著書に、『経済思想』『自由と秩序』『戦後世界経済史』『経済学に何ができるか』『自由の思想史』など。

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