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デモクラシーと芸術

2020年5月27日 デモクラシーと芸術

第17回 「金銭」と「多数」から芸術を救えるか――批評家シューマンの闘い

著者: 猪木武徳

※文中の曲名をクリックすると、曲の一部を試聴できます。
※ナクソス・ミュージック・ライブラリー(NML)非会員の方は冒頭30秒ですが、会員の方は、全曲を試聴できます。

革命期のパトロン貴族たち

 ベートーヴェンも貴族制から共和制・民主制への移行期に活動した芸術家であった。しかし彼のパトロンとの関係は、モーツァルトの場合とは異なる。そこには社会風土に加えて、それぞれの音楽家の性格や金銭感覚などに帰すべき違いもあるようだ。
 ベートーヴェンは当時ケルン大司教領であったボンに生まれ、カトリックの社会的文化的風土の中で育っている。ボン時代のパトロンには、司教・選帝侯以外にも、あの和音の劇的な連打で始まる「ピアノ・ソナタ第21番 ハ長調」(ワルトシュタイン)(Op.53)を献呈したワルトシュタイン伯爵(Ferdinand Ernst von Waldstein, 1762~1823)もいた。ワルトシュタイン伯爵による主題で、ベートーヴェンは連弾用の8つの変奏曲(ピアノ連弾曲)を書いている(WoO.67)。 彼にウィーン行きを強く勧めたのもこの伯爵であった。

猪木武徳、ベートーヴェン
ベートーヴェン(1770-1827)

 ハイドンから学びたいと考えたベートーヴェンは、1792年秋にウィーンに居を移した。ウィーンに移る前の年に、モーツァルトが極貧のうちに亡くなっていることは、自分の将来の経済状態への不安を高め、安定した収入源に無関心ではいられなかったのであろう。ウィーンでの本格的な作曲活動に入った時点で、最初に彼の熱心なパトロンとなったのはプロイセン領シレジアの大土地貴族(元はチェコ系)でモーツァルトを援助したこともあるリヒノフスキー侯爵である。彼は、ザルツブルクの大司教と決裂してウィーンでフリーランスで作曲活動に入ったモーツァルトに、かなりの額のお金を貸与していた。だが、モーツァルトの生存中には返済されることはなく「踏み倒されて」いる。彼はモーツァルトの死後、裁判でその金を取り返そうとしているから、これは贈与ではなく貸与であった。したがって彼はモーツァルトのパトロンとは言い難い。
 リヒノフスキーがパトロンとして本格的に肩入れしたのはベートーヴェンであった。1806年に仲違いするまで、リヒノフスキーはベートーヴェンを援助し続けている。この大作曲家の初期と中期の傑作の多くは彼に献呈されている。ピアノ三重奏曲第1番(Op.1-1)第2番(Op.1-2)第3番(Op.1-3)ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」(Op.13)第12番「葬送」(Op.26)交響曲第2番(Op.36)などが挙げられる。作品番号1の三つのピアノ三重奏曲は、リヒノフスキー侯爵のサロンで、ハイドン、サリエリなども列席して初演され、リヒノフスキーがその楽譜の出版をバックアップした。

猪木武徳、リヒノフスキー
リヒノフスキー(1761-1814)

 しかしベートーヴェンのウィーンでの経済生活は不安定で、苦しい状態が長く続く。生活苦から逃れようとして、ついに彼は誘いのあったカッセル宮廷への移動を考え始める。ウェストファリア王ジェローム・ボナパルト(あのナポレオンの弟)が彼に「宮廷楽長(Kapellmeister)」として高額(600金ducats)の年金の支給をオファーしてきたからだ(1809年1月7日の楽譜出版社Breitkopf & Härtelへの手紙)。
 ベートーヴェンのカッセル宮廷への転職計画に驚き、それを思い止まらせたウィーン貴族が3人いた。ルドルフ大公(Rudolph von Öesterreich, 1788-1831)、ロプコヴィッツ侯爵(Franz Joseph Maximilian Lobkowitz, 1772-1816)、そしてキンスキー公(Ferdinand Kinsky, 1781-1812)である。取りまとめ役はルドルフ大公であった。彼らが拠出した年金総額は、残された契約書(1809年3月1日付)には三者合計で4,000フローリンとある。この額を現代日本の通貨価値に直すのは難しいが、5,000万円を下らないであろう(Beethoven: His Life, Work and World, Compiled and edited by H.C. Robbins Landon)。

契約をめぐるトラブルは何を示すか

 ルドルフ大公はベートーヴェンの終生の友であり、パトロンであった。ベートーヴェンより18歳若いルドルフ大公に献呈された曲はいずれも大作ばかりである。彼の作品群の中でも、「ピアノ・ソナタ」第26番変ホ長調「告別」(Op.81a)「ピアノ三重奏曲 変ロ長調」(大公)(Op.97)「ミサ・ソレムニス」ニ長調(Op.123)など後期の作品が多い。ベートーヴェン最晩年の大曲「ミサ・ソレムニス」は、ルドルフ大公がモラヴィアのオロモウツの大司教に就任したお祝いとして作曲されたが、あまりに熱を入れすぎて、就任式には間に合わず、結局その完成にさらに3年を要することになる。彼がルドルフ大公からもらっていた年金は、先に触れた契約書では1,500フローリンとある。

猪木武徳、ルドルフ大公
ルドルフ大公(1788-1831)

 ロプコヴィッツ侯爵もベートーヴェンにとって重要なパトロンであった。彼が契約書にサインしている額はルドルフ大公の約半額、700フローリンだ。ロプコヴィッツ侯爵に献呈された曲にも名作が多い。ベートーヴェン初期の6つの弦楽四重奏曲(Op,18, 1-6)、交響曲では、「第3番」(英雄)(Op.55)「第5番」(運命)(Op.67)「第6番」(田園)(Op.68)、中期の「弦楽四重奏曲第10番変ホ長調」(ハープ)(Op.74)、そして「ピアノ、バイオリン、チェロのための三重協奏曲」ハ長調(Op.56)と名曲が並ぶ。

猪木武徳、ロプコヴィッツ侯爵
ロプコヴィッツ侯爵(1772-1816)

 ボヘミア出身の名門貴族フェルディナンド・キンスキーは、ベートーヴェンへ最も多額の年金(1,800フローリン)を支給していたパトロンであった。エステルハージ公からの委嘱で作曲された「ミサ曲 ハ長調」(Op.86)は、エステルハージ公の気に入るものとはならず、出版譜はこのキンスキー公に献呈されている。
 ただ、ナポレオンのプロイセン・オーストリア侵攻で、激しいインフレが起こり、ウィーンの貴族たちの中には破産する者も現れ始めた。ロプコヴィッツ侯爵もその一人で、1812年にべートーヴェンへの年金の支払いができなくなった。キンスキーがプラハ郊外で落馬事故で死亡したこともあって、ベートーヴェンの収入は激減する。そのため、ベートーヴェンはロプコヴィッツ侯爵を「年金不払い」の廉(かど)で訴え、有利な判決を得ている(Thayer’s Life of Beethoven  Chapter 26)。

猪木武徳、キンスキー
キンスキー(1781-1812)

 これら三者と交わした契約書には、年金給与に対してベートーヴェンに課せられた義務は、3人の貴族たちの住むウィーン、あるいはオーストリア皇帝の支配地の市に居住すること、そして仕事あるいは芸術の振興の目的で一定期間当該地を離れる場合、これら三者に出発の予定を伝え、許可を得ることが必要、と明記されていた。
 ちなみにリヒノフスキー、ロプコヴィッツの二人とそれぞれ義理の兄弟の関係にあったのが、ウィーンに長く滞在したロシアの外交官アンドレイ・ラズモフスキー(1752-1836)である。彼は優れたアマチュアのバイオリニストであり、ベートーヴェンに3曲の弦楽四重奏曲を委嘱した。ちなみに筆者は、「ラズモフスキー」の名前の付されたこれら3つの弦楽四重奏曲(Op.59,1-3)は、このジャンルでの屈指の名作だと思っている。このラズモフスキーはロシア国籍の外交官であったため、一時的な注文者、あるいは「ひいき客」であって、いわゆるパトロン貴族とは言い難い。

猪木武徳、ラズモフスキー
ラズモフスキー(1752-1836)

 ベートーヴェンのパトロンたちは、大司教の座に就いたものもいたとはいえ、基本的に教会の音楽活動への参与を求めることのない、音楽を趣味とし、音楽の振興に強い関心を持つウィーンやボヘミアの土地貴族であった。そしてベートーヴェンを師としてピアノや作曲を学んでいた生徒でもあった。したがって、経済的・社会的上下関係としてはパトロンであったが、芸術という専門分野での教育に関しては師弟関係ということになる。
 フランス革命とナポレオン戦争の余波がヨーロッパ社会を覆い始めたことによって、貴族階級の没落が顕著になり、芸術家たちは新たな経済的基盤を求めざるを得なくなっていた。そのひとつの動きが、音楽院や音楽大学という一定の規模を持つ教育施設の制度化であり、教会とは独立した音楽学校での教育からの収入で、音楽家たちが後進を育てつつ生活を支えるという形態が進む。共和制への移行を早く遂げたフランスでは、革命後、18世紀末にパリ国立高等音楽院が設立されている。オーストリアでも19世紀に入ると、主要都市に音楽の高等教育機関が創設される。ウィーン国立音楽大学(1812)、グラーツ国立音楽大学(1816)、ザルツブルク・モーツァルテウム大学(1841)などである。英国王立音楽院(1822)も早い。ドイツのライプツィヒやドレスデンに音楽大学ができたのは19世紀半ばであり、アメリカで最も古いとされるニューイングランド・コンサーヴァトリ―が創立されたのは1867年であった。封建制ではなく共和制の下では、世襲貴族ではなく公的な教育施設と、いわゆる「産業貴族」がパトロンとしての機能を果たすようになるのだ。

批評家というパトロン

 音楽家にとってのパトロンの機能を考える場合、金銭面での支援者だけに限定するのではなく、批評の世界での援護者、応援者の存在にも注目すべきであろう。批評は、その音楽の本質や価値を論議する過程で、より多くの聴衆の鑑識眼を磨き、作品の魅力を啓発する力となるからだ。現代の音楽世界でも、誰がその芸術的な価値を認めたのかが(少なくとも短期的に)決定的な影響力を持つことがある。いわば「お墨付き」を与えられるという話だ。もちろん「誰」が与えたかが問題になる。
 この点を強く意識していたロベルト・シューマン(1810~1856)は「音楽は、鶯を愛の歌にさそうが、狆(ちん)にはほえつかれる。甘い葡萄はまずい酒。— この連中は材木をやたらに鋸で切り刻むものだから、せっかくの誇らしい檞(かしわ)が鋸屑になってしまう。— 彼らはアテナイ人のごとく、羊を送って宣戦する。」と言う(「ヘボ批評家」『音楽と音楽家』吉田秀和訳)。

猪木武徳、シューマン
シューマン(1810-1856)

 シューマンはこの「鶯」と「狆」を見分けることの重要さを強調した。ベートーヴェン、C.M. von ウェーバー、シューベルトらが世を去って数年という時期、ライプツィヒの法科大学にいたシューマンは、若い音楽家の一団とコーヒー・ハウスで社交的会合を重ねながら芸術的な議論を交わすことが習慣のようになっていた。
 音楽だけでなく文学にも没頭していた二十歳過ぎのシューマンが、右手中指を痛めて演奏家への道を断念、音楽評論活動に力を傾注し始めたのは自然な流れであった。ポーランド人ショパンの才能を見抜き、あの有名な「諸君、脱帽したまえ、天才だ」と述べた批評文「作品2」が、ライプツィヒの『一般音楽時報(Allgemeine Musikalische Zeitung)』に掲載され、批評家としてのシューマンは人の知るところとなる。
 彼がこの批評文で取り上げたのは、ショパンのピアノ独奏曲「ドン・ジョヴァンニ」の『お手をどうぞ(La ci darem la mano)』による変奏曲」変ロ長調 Op.2 である。ショパンの熱狂的なファンではないものでも、この曲には17、18歳の若者の作品とは思えないような、卓越した演奏技量の見せ方と気分の円熟味を感じるはずだ。モーツァルトの同じ「アリア」を素材として、ベートーヴェン、パガニーニ、リストも変奏曲や「回想曲」を書いている。リストの少し喧しい作品(Réminiscences de Don Juan)よりも、このショパンの変奏曲の方がはるかに私の好みに合う。

 よき音楽とそうでないものを選別する「趣味のよい専門家」(単なる専門家ではない)の存在がなぜ必要なのか。芸術の評価は、多数決によって決まるものではない。それは学問の世界における「真理」と類比的に考えることができる。学問上の真理も多数決で決まるものではない。美の評価も多数がよいと決めたものが、必ずしもよいよいうわけではない。とすると、「趣味のよい専門家」が自発的な組織を作って、そこで、よい芸術、音楽における美を論じ選別する役割を果たさなければならない。

仮想の批評空間「ダヴィッド同盟(Davidsbund)」

 音楽を俗物たちの悪趣味から護るために、シューマンは1834年、音楽批評誌『新音楽時報』(Neue Zeitschrift für Musik)を刊行し、若い優れた音楽家たちを支援するための文筆活動を始める。それはドレスデンに移るまでの約10年間続いた。この活動グループに彼は「ダヴィッド同盟」という名を与え、その音楽批評雑誌を俗物「ペリシテ人」との戦いのアリーナ(闘技場)としたのだ。旧約聖書のダヴィデが、ペリシテ人の巨人ゴリアテを倒した話(第一サムエル記 第17章)にその命名の由来があるのは言うまでもない。シューマンがベルリオーズとともに、「最初の音楽批評家」と言われるのはこうした彼の批評活動による。

猪木武徳、ベルリオーズ
ベルリオーズ(1803–1869)

 シューマンが1835年の新年に刊行された『新音楽時報』の「論説」で、「お互いに賛辞を交わし合うという慣習に支配された時代は終わりつつある」「悪い所を敢えて攻撃しないものは、良いものを半分しか護ることにはならないのだ」と活気ある率直な批評精神の重要さを説き、生気のないこと、些末なこと、型にはまったものこそ、音楽芸術の三つの大敵だと強調する。
 「ダヴィッド同盟」は実在しないさまざまなメンバーから構成されている。最も多く登場するのは、前向きで情熱的なフロレスタン(F)、思索的な夢想家のオイゼビウス(E)である。この二人は、いわば主役シューマンの内部にある分裂せる二つの人格を示していると考えられる。シューマンが1837年に作曲した『ダヴィッド同盟舞曲集』(Op.6)は、18の舞曲を9曲ずつ二部に分けた構成であるが、曲それぞれの性格によってFとEの記号が付されている。彼の音楽評論にも時にこのFとEが記されている。同志たちがペンネームで執筆していたのは、ドイツの諸邦、特にオーストリアでは検閲制度がかなり厳しく機能していたということも関係しているのだろう。伝統的にウィーンを中心として発展して来た音楽界、文学界、そして思想世界に対して、強い検閲制度が存在していたのだ。
 真の芸術のために、同志的な結束によって俗物主義と闘うというシューマンの発想には、当時彼が心酔していたE.T.A.ホフマンの文学の世界における「ゼラビオン結社」の影響があったと専門家は指摘する(Peter Ostwald)。当時の工業化と商業主義の影響、すなわち「金銭」と「多数」という二つの力の支配から芸術を救わねばならないという危機意識は、さまざまな分野の芸術家によって表明され始めたのだ。
 パトロンとなる貴族もなく、公的な援助も得ていなかったシューマンの「闘い」は容易なものではなかったのであろう。その苦労は、音楽評論の場として『新音楽時報』を立ち上げた時期に作曲された『謝肉祭』(Op.9)のフィナーレにもあらわれている。「フィリシテ人と闘うダヴィッド同盟の行進」と題された行進曲が、単純な2拍子ではなく、3拍子であることに、その闘いの「歩み」の複雑さが示されているように思える。 

批評家の役割と「セクト」の機能

 シューマンは、自身が創刊し主宰した『新音楽時報』の編集をブレンデル(Franz Brendel、1811~1868)に譲り、1844年末にドレスデンへと向かう。しかし後継のブレンデルが、シューマン自身が評価しないリストやワーグナーを強く擁護する論陣を張り始めたことを嘆いている。のちに、プラハ出身の批評家で、ウィーン大学で美学と音楽史を講じていたハンスリック(Eduard Hanslick, 1825~1904)が、シューマンや彼の正統な後継者ブラームスを擁護する側に立ちつつ、リスト、ワーグナー、そしてブルックナーへ示した敵意は音楽史でよく語られる対立の構図である。

猪木武徳、ハンスリック
ハンスリック(1825-1904)

 ハンスリックは、音楽を聴くことにはもちろん感情が伴うが、「音楽が感情の表出である」という考えを否定する。シューマンやブラームスの音楽は、感情その他のものを音楽で表現しようとしたものではなく、五感で感じ取るものの先にある何か、その向こう側にあるものをさし示そうとしていると見るのだ。それに対してワーグナーにおいては、音そのものが直接的に感覚に訴える要素が強い。筆者の解釈では、区切りのない無限旋律、特定の人物や想念・感情を結び付けた楽句(ライトモティーフ)を用いることによって音楽に文学的な表現を混入させ、理想を置くべきところに生身の現実を置くようなことになっていないか、ということになる。この区別は、本来的に抽象度の高い芸術である音楽の本質をめぐって、厳しく対立する二つの姿勢を浮き上がらせた。音楽の世界に、何を目指すのかに関して「セクト」が生まれるのである。後に触れる20世紀の旧ソ連の「社会主義リアリズム」ともつながる問題ではないかと筆者は考えて居る。
 「セクト」自体は、物事の展開にとって必ずしも負の要素とはならない。一人の人間が主張しても達成できないことが、「セクト」を組むことで実現することがある。そのまま実現できなくても、思想や芸術の力強い発展にとっては、セクトの生み出すエネルギーが不可欠なこともある。 
 シューマンの時代の音楽批評界の動きは、同時代の社会風土、政治情勢と重ね合わせるといくつかの興味深い関係が浮かび上がる。シューマンの空想した「ダヴィッド同盟」という自発的な音楽批評の集団は、芸術における美の問題をめぐる同志的な結合による新しい思想運動を生み出した。そしてその運動は、空想上であれ現実の空間であれ、音楽にとって美とは何かを議論する場を作りあげたのである。メンバーは作曲や演奏上の技術を伝授するための集団を形成していたわけではない。作曲家、演奏家、批評家という職業上の専門家が相互に論を戦わせるための理念を持つ公共性を帯びた組織なのだ。シューマンが構想したように、専門家集団が「音楽美」を追求するための「同盟」なのだ。そしてこれら専門家集団がより良質の音楽を見分けることで、「応援者としてのパトロン」の機能を果たすことを目指したのだ。
 真率なる批評家たちは、経済的な支援を行うという意味でのパトロンではない。芸術の質を選別する応援団なのである。この集団は、王侯貴族が持っていた洗練された趣味や鑑識眼を代替するような役割を演じる可能性を担った。芸術上の創造活動に携わる者は、少数であり、その少数者が生み出したものが、すべて一人1票の投票権をもつ人々によってその内在的価値を判定されるような体制では、真の「美」を守り切ることはできないという認識がそこにはある。
 現代の批評世界は、こうした問題に十分応えているだろうか。批評家たちの言論や批判は、彼らの信じる真の「美」を擁護しているだろうか。現代の批評の言説の歯切れの悪さや、礼賛に終始する姿勢は、シューマンのような「真率なる批評精神」を衰弱させてはいないだろうか。

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*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

猪木武徳

いのきたけのり 1945年、滋賀県生まれ。経済学者。大阪大学名誉教授。元日本経済学会会長。京都大学経済学部卒業、マサチューセッツ工科大学大学院修了。大阪大学経済学部教授、国際日本文化研究センター所長、青山学院大学特任教授等を歴任。主な著書に、『経済思想』『自由と秩序』『戦後世界経済史』『経済学に何ができるか』『自由の思想史』など。

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