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デモクラシーと芸術

2020年6月24日 デモクラシーと芸術

第18回 大衆を酔わせるワーグナーの「毒」

著者: 猪木武徳

※文中の曲名をクリックすると、曲の一部を試聴できます。
※ナクソス・ミュージック・ライブラリー(NML)非会員の方は冒頭30秒ですが、会員の方は、全曲を試聴できます。

ワーグナーは大衆を興奮させる、とニーチェは見た

 ワーグナーが『自叙伝(Mein Leben)』の中で、シューマンの指揮者としての力量のなさを惜しむくだりがあるが、シューマンの音楽への評価は決して低くはない。むしろ好意的な記述も見受けられる。この『自叙伝』は、1864年、ワーグナーがパトロンのバイエルン国王ルートヴィヒ二世(1845~1886)の願いによって、ハンス・フォン・ビューローの妻コジマ(リストの娘、1837~1930)に口述筆記させた半生記である。事実に関しても、人物や芸術の評価についても矛盾が見られ、事実(fact)と想像(fancy)がないまぜになっている。人間ワーグナーの心理分析には有用かもしれないが、事実を確定するための資料的価値は高くないと言われる。

リヒャルト・ワーグナー

 その点を念頭に置いてではあるが、この『自叙伝』の次のエピソードに、先に述べた二つの「セクト」間の対立の激しさを感知させるような記述が見られる。1848年の「三月革命」の後、ウィーンから新しい就職先のワイマールに向かう途上のリストは、ドレスデンで『ローエングリン』のスコアを書き上げたワーグナーを訪問している。ドレスデンに移っていたシューマンを加えて、3人はシューマン宅で演奏や音楽論を交わす機会があった。その折、マイヤーベアを評価せずメンデルスゾーンの音楽を高く評価するシューマンと、リストとの間で基本的な意見の対立が爆発し、シューマンが激昂のあまり席を蹴って寝室に退いてしまったというエピソードが記されている。
 シューマンは、ワーグナーが評価するマイヤーベアのオペラ『預言者』の批評(1850年2月2日)で、ただ✟(十字)の印のみを記している。恐らく芸術における「過剰さ」や「はったり(charlatanism)」への反発からであろう。この✟を訳者の吉田秀和氏は、「こういうものは早く死ぬことを祈るという意味であろう」と注記している。
 『トリスタンとイゾルデ』(1865年初演)や『ニュルンベルクのマイスタージンガー』(1868年初演)の成功で得意の絶頂にあったワーグナーを、1869年5月、若い哲学者ニーチェ(Friedrich Nietzsche, 1844~1900)がルツェルン郊外のトリプシェン(現在、リヒャルト・ワーグナー博物館がある)に訪ねている。前年11月にライプツィヒで会ったニーチェをワーグナーが招いたのである。24歳のニーチェは、『トリスタンとイゾルデ』のパワーに圧倒され、その恐ろしいほどの甘美さに魅せられたのである。このニーチェのワーグナー芸術への熱狂は、抑えきれないような激しさがあり、いつかは爆発するような性質のものであったのだろう。

フリードリヒ・ニーチェ

 一度は熱烈な「ワグネリアン」であったニーチェは、ワーグナーの音楽に対して、そして彼の人格そのものについて次第に嫌悪の情を抱くようになる。その転換点は、1876年に落成したバイロイト祝祭劇場での『ニーベルングの指環』の初演を観た機会に訪れた。パトロンのルートヴィヒ二世や新生ドイツ帝国皇帝のヴィルヘル一世などに囲まれ得意満面のワーグナーに、芸術による救済を求める超俗性ではなく、市民社会の道徳価値に縛られた卑俗な人間を見て取ったのである。
 その後のニーチェのワーグナー批判の言葉(1886年?)は厳しく激しい。ニーチェは自分の若かりし頃のワーグナー評価を全否定しつつ、次のように言う。「天才に関して。たとえばリヒァルト・ヴァーグナーのもとには、なんと天賦の才が乏しいことか!その二十八歳のときに、マイエルベーアを嫉妬したほど、貧弱であった(それほど未発達、未開発ではなくて、それほど貧弱であった)音楽家 - おのれの生涯中そのことがしゃくにさわるほど、ひどく嫉妬深かった音楽家が、かつていただろうか?」
 さらに次のように言う。少し長いが、引用しておきたい。
 「もちろんこんにちでは、天分のとぼしい音楽家たちは、また金銭欲や名誉欲にかられた音楽家たちも、困った状態にあるのかもしれない。まさしく彼らにとって、音楽を作るヴァーグナーのやり方のうちには選りぬきの誘惑があるからである。つまりヴァーグナー的な手段や手くだで作曲するのは容易なことであるし、さらにまた「大衆」を興奮させようとするこんにちの芸術家たちの煽動的な要求のもとでは、いっそう報われることであるかもしれない、くわしく言えば、「一層効果的な」、「いっそう圧倒的な」、「いっそう的確な」、「いっそう感動的な」ことであり、かくて演劇賤民と素人的な熱狂家の隠しおおせない愛用語のとおりであるかもしれない。だが、芸術の問題において、「大衆」の喧騒と感激とに結局なんの意義があろう!優れた音楽はけっして「公衆」をもっていない、- それはけっして「公然たるもの」ではなく、またそうではありえず、それは最も選りぬきの者たちに属し、それはつねにただ ― 比喩でいえば ― 「私室」用にのみ現存すべきである。「大衆」は、彼らに最もよくおもねるすべを心得ている者を嗅ぎつける。大衆は大衆流儀ですべての煽動的な才子どもに感謝をささげ、自分たちにできるかぎり彼らにお返しをするのだ。」(原佑・吉沢伝三郎訳『生成の無垢(上)』)
 このニーチェの言葉に注釈は無用であろう。ワーグナーの音楽は「大衆におもねり、煽動する可能性のある音楽」だと見抜いたのである。「三月革命」の革命運動に熱心にかかわり、ドレスデン宮廷歌劇場楽長であったワーグナーは、1849年の「ドレスデン5月蜂起」に加わったロシアの革命家バクーニンと接触する機会があった。『自叙伝』のバクーニンに関する記述は興味深い。1849年の復活祭前に、ワーグナーがベート-ヴェンの「第9交響曲」のリハーサル中、バクーニンが警察の眼を逃れて秘密裡にワーグナーのもとに現れ彼を励ましたという。『自叙伝』に盛り込まれた多くのエピソードは、ワーグナーという人間の自己顕示欲の強さ、その音楽が「大衆」の存在を強く意識していたことを示している。

バイエルン国王ルートヴィヒ二世

  作曲家が自分の音楽がどのような人々に支持されることを望むのかという問題と、自分の芸術活動を誰に援助してほしいと考えるのかは別の問題である。経済的な支援者としてのパトロンを考えるとき、ワーグナーにとっての支援者、バイエルン王ルートヴィヒ二世に触れないわけにはいかない。この王のサポートなしには彼は『ニーベルングの指環』を完成できなかったであろうし、ワーグナー最後の楽劇、舞台神聖祝典劇『パルジファル』を作曲することも恐らくできなかったからだ。これらワーグナーの後期のオペラをバイロイト祝祭劇場で上演できたのも、このバイエルン王からの援助があったからこそ可能となったのである。それだけにとどまらない。『トリスタンとイゾルデ』や『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の初演もままならなかったはずだ。

ルートヴィヒ二世

 ワーグナーと、パトロンとしてのルートヴィヒ二世との関係を考える場合、当時のバイエルン王国、プロイセン、オーストリア、そして恐らくフランスなどの政治的関係を念頭に置く必要があろう。ルートヴィヒ二世が王位に就いたのは1864年の春であった。その2年後にプロイセン王国とオーストリアを盟主とするドイツ連邦はプロイセン王国と戦争に入っている。7週間という短期決戦であった。この戦争でバイエルン王国はオーストリア側についたが、オーストリア・バイエルン王国側は敗れる。この1866年の普墺戦争によってドイツ統一はオーストリアを除いた形でプロイセン主導の下で進む。
 続いて1870年にプロイセン王国は国内の統一を求めて、フランスとの戦争(普仏戦争)に入る。この戦争ではバイエルン王国はプロシア側につき、勝利を経験し、プロイセン中心に統一されたドイツ帝国に加わることになる。二つの戦争がバイエルン王国に多額の財政負担をもたらしたことは言うまでもない。
 財政負担だけではなく、ドイツ統一によってバイエルン王国のルートヴィヒ二世は、政治的・宗教的に不確かな立場に置かれることになる。バイエルンがカトリック中心の王国であるのに対して、プロイセン王国をはじめとする諸邦はプロテスタントの領邦が多かった。この違いはあらゆる局面に現れる。例えば、表に現れたものではないものの、ルートヴィヒ二世の同性愛的な性的嗜好に関する道徳や法律は、二つの文化圏では異なっていた。ローマ・カトリック教会はそれを道徳的悪(sin)と規定はしていたが、犯罪(crime)とはみなしていなかった。しかしプロイセンの主導で統一されたドイツ帝国の刑法典(175条)では、男性間の同性愛行為は犯罪と規定、禁錮刑とされていた。そのような状況下で、バイエルンの国王が同性愛者であるということが明らかになれば、バイエルンの人々にとって大きな不名誉になることは避けられなかった。
 こうした状況に置かれた国王は、ドイツ帝国に組み込まれた後、次第に政治の場から身を引き、生来強い関心を持っていた芸術、特に音楽の世界に強く没頭するようになったと考えられる。彼の関心と崇拝の対象になったのがリヒャルト・ワーグナーであった。

 自己中心の芸術家にとってのパトロン

 『ローエングリン』に心酔していた夢想家のルートヴィヒ二世は、王位について、まず国王官房長プフィスターマイスター(Pfistermeister)に命じたのは、借金を踏み倒しながら逃亡生活を送っているワーグナーを探し出し謁見させることであった。ワーグナーはシュトゥットガルト郊外で身を潜めているところを発見される。バイエルンの王様が自分を探していることを知って喜び、ミュンヘンへと向かう。謁見してから、ホーエンシュヴァンガウの居館での1週間の滞在がどのようなものであったか、そしてこの謁見からいかにワーグナーが王に催眠術的とも思えるような心理作戦を仕掛けたのかは、関楠生『狂王伝説 ルートヴィヒ二世』に巧みに描かれている。
 やがてワーグナーは、次第にこの国王が純粋だが賢明ではなく、音楽の素養にも欠けることに幻滅する。しかし、国王が自分の音楽に心酔し、自分の芸術活動への援助を惜しまない人間であることは見抜いていた。相手を軽蔑しながら、なおかつその利用価値を計算したのであろう。こうしたワーグナーの姿を描いた諷刺画がミュンヘンのPunsch誌にしばしば掲載されている。王室の金庫の扉をノックするワーグナー、あるいはもっとあからさまに、ワーグナーが赴任した1864年に、面白い光景を描いた次のような漫画も見受けられる。バイエルンの将校が国庫から大きなコインの袋を取り出そうとしている。傍に立っているワーグナーが「おいおい(友よ)、全部引き出さないように、わたしの「未来の音楽院」の費用をカバーできるように数グルデンは残しておけよ」と語りかけている場面である(Ernest Newman, The Life of Richard Wagner, Vol.3)。

ワーグナーのカルトゥーン

 国王の精神的な問題を感知していたバイエルン国民は、ワーグナーがそもそもミュンヘンにやって来た目的を鋭く見抜いていたのである。ワーグナーが1864年10月にルートヴィヒ二世が用意した大きな邸宅に移り住んだとき、年俸4,000グルデン(政府顧問官レベルであったと言われる)、就任のための贈与として16,000グルデン、さらに引っ越し費用として4,000グルデンを与えられている。ルートヴィヒ二世はその見返りとして、『指環』の版権の三番目の所有者となる。
 両者の間には多量の手紙のやり取りが残されている。その多くは「おお、わが王よ!あなたは神々しい」、「愛するただひとりの友」といったような文句で飾られており、ワーグナーの目論見が見え透いており、いささか鼻白む思いがする(Millington)。
 しかし1865年の秋に至っても、ワーグナーの音楽院設立計画もルートヴィヒ二世の祝祭劇場建設計画も具体的な進展は見られなかった。宮廷内でも、そしてミュンヘン市民からもワーグナーに向けられた猜疑心は強まる一方であった。そのような状況下でも、ワーグナーは8,000グルデンの年金と、40,000グルデンの加給を国王から引き出すことに成功している。国家財政を傾かせかねないような厚遇はワーグナーの批判者を増やす一方、ワーグナーは普墺戦争の折にも政治に言葉をさしはさみ、国王を操るような挙に出始めたことは、彼の王室内の信望を損なうことになる。
 1870年7月、コジマとの同棲生活を続けていたワーグナーに、コジマとハンス・フォン・ビューローとの離婚が正式に成立したとの知らせが入る。二人は早々とルツェルンのプロテスタント教会で翌8月に結婚式を挙げ、年末の(クリスマスの日でもある)コジマの誕生日に「ジークフリート牧歌(Siegfried-Idyll)」を生演奏でコジマに捧げている。自己の欲望に忠実なワーグナーは、欲しいものをすべて手に入れたのである。

コジマ・ワーグナー

「大衆」の音楽としてのワーグナー — フルトヴェングラーの見方

 ワーグナーの性格を精神分析の立場から疾病学的診断を解説した書物がある。こうした視点からのワーグナー研究を読むと、性格に関しては、「粗野、征服欲、敏感、自己意識の高進、単純性感情肥大症、色情狂、エキセントリック、派手好み、浪費癖、虚言癖、自己陶酔、忘我欲求」などの言葉が続き、ワーグナーは強度のヒステリー性の資質の持ち主だったと診断されている(福島章『音楽と音楽家の精神分析』)。
 音楽芸術という創造の世界と、音楽を楽しむ聴衆の世界をひとつの社会現象として見る場合、音楽家という「送り手」個人の性格を問題とすべきか、「与件」としての社会体制そのものを重視するのかは簡単に答えが見つかる問題ではない。性格と体制は微妙な相互依存の関係にある。人間の性格のどのような側面が顕在化するのかには確かに体制が大きく影響する。人間は社会体制に適合的に行動するよう動機づけられやすい。第6回でも論じたように、全体主義国家では、人はみな同じように考え、同じように行動すると言われる。だがこの言葉は必ずしも正確ではない。全体主義国家では、人々の行動は画一化されるが、すべての人々の心までも独裁者が支配することはできないからだ。だからこそ、専制政治の下でも優れた文学や芸術が生まれる。一方、リベラル・デモクラシーの国家でも、「コンフォルミズム」は強い力を持って人々の考えや行動を画一化するが、リベラル・デモクラシーの下では、人々は行動だけでなく、心をも画一化されてしまう可能性がある。「大衆」とは心が画一化されたマスなのだ。
 いずれにせよ、同じ体制の下で生きる人間に、さまざまな局面での類似性が現れるのは自然であろう。人間は、通常その行動を内発的な力で動機づけられると考えられがちである。しかし実際の人間は「体制」という外的環境に適合するように考え、行動する動物でもあるのだ。言い換えれば、社会的条件が、意見、感情、感覚、行動目標、尊敬される人間のタイプ、言葉使いなどを通して人々の考えや行動を規定することもあるのだ。
 トクヴィルは、名著『アメリカのデモクラシー』で次のような見事な例を示しながらデモクラシーの下での芸術の運命を見通している。少し長くなるが引用しておこう。

「ラファエロが今日のデッサン画家のように人間の身体の細かい仕組みについて深く研究したとは思えない。ラファエロはこの点についての厳密性に彼らほど重きをおいていなかった。というのも、彼は自然を超えるつもりでいたからである。人間を人間以上の何かに描こうと欲し、美そのものをさらに美しくしようと試みたのである。
 これに対して、ダヴィッドとその弟子たちはよい絵描きであると同時にすぐれた解剖学者であった。彼らは目の前にあるモデルを見事に再現したが、それを超えて何かを思い描くことは滅多になかった。彼らは正確に自然に従ったが、ラファエロはそれ以上のものを求めたのである。彼らはわれわれに人間の正確な肖像を残したが、ラファエロはその作品において神の姿を垣間見せてくれる。」(邦訳 第二巻(上)p.96)

 写実における厳密さや正確さを追求することによって、直接的に「視覚」「聴覚」という感覚に訴える芸術は、それだけ人の感情を動かしやすい。この直接感覚に訴えるという要素が、デモクラシーと親和力を持つことを、トクヴィルは強調したかったのであろう。この「直接感覚に訴える」という魔力は、ワーグナーの音楽にも当てはまるのではないか。前回挙げたハンスリックが否定した「感情の表出する」音楽である。感覚に訴える力の強さについては、19世紀のロマン派の音楽にある程度は一様に見られる傾向ではある。しかしワーグナーの音楽は「直接感覚に訴える」要素だけから成り立っているわけではない。神話を中心とした文学的想像力によって「美」の世界へと聴き手を誘い入れるのがワーグナーの「楽劇」ではなかったか。神聖なものへの人々の渇望を満たすものが含まれているのだ。
 ワーグナーの音楽をどう位置付けるのか。「ワグネリアン」になるのか否か。人々の好みは分かれる。しかもこの好みや価値の論争が100年以上経っても未だに続いているのは、デモクラシーの長所と欠陥、あるいは自由と平等、にどのような価値を見いだすのかという問いとも重なる。ワーグナーの音楽をどう評価するのかは、人間と人間社会が抱える解決のない根本的な問いかけが音楽芸術の世界に投影されていると考えられる。
 ワーグナーの音楽に秘められた「社会性」をどう考えるのか。その点で示唆的なのはフルトヴェングラーの「ワグナーの場合」(『音と言葉』所収)と題された、ニーチェとワーグナーの関係を論じた文章である。この文章の冒頭で、フルトヴェングラーは、「彼の音楽はこの種のまじめな音楽としてはかつてなかったほど大衆的です。彼はあらゆる階級、あらゆる教養段階にある人々に向って訴えます。彼は最も矜持高い知的なコンサートにも演奏されれば、同じくまた公園の野外演奏会、軍楽団の演奏会にも用いられています」(芳賀檀訳)と指摘する。

ヴィルヘルム・フルトヴェングラー

 そしてワーグナーの音楽を、同時代の偉大な音楽家、ブラームスと対比させて次のように言う。ブラームスが深い自己認識と「静かな節度」をもって、自己を作品の中に集中させ、作品の中で自己を告白させたのに対して、ワーグナーは拡散的になり、そのワーグナーの作品に感銘を覚える人々は、「己れの内心の自立性を守りえない人」であり、「ワグナーの作品に自由な人間として歩み寄ることのできぬ人、それに従属し、それに身も心も引き渡してしまったと思われる人」だと対比させるのである。ワーグナーの音楽が与える「不気味な拡大する感銘」は人の心を支配する。ワーグナーの音楽が、自律性のある独立した個人を前提とするデモクラシーという制度にとって、「大衆」を酔わせる「毒」を含むということになろう。

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*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

猪木武徳

いのきたけのり 1945年、滋賀県生まれ。経済学者。大阪大学名誉教授。元日本経済学会会長。京都大学経済学部卒業、マサチューセッツ工科大学大学院修了。大阪大学経済学部教授、国際日本文化研究センター所長、青山学院大学特任教授等を歴任。主な著書に、『経済思想』『自由と秩序』『戦後世界経済史』『経済学に何ができるか』『自由の思想史』など。

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