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デモクラシーと芸術

2020年7月29日 デモクラシーと芸術

第19回 ショスタコーヴィチが試みた「内省的抵抗」

著者: 猪木武徳

※文中の曲名をクリックすると、曲の一部を試聴できます。
※ナクソス・ミュージック・ライブラリー(NML)非会員の方は冒頭30秒ですが、会員の方は、全曲を試聴できます。

経済生活と文化の伝承

  芸術活動に携わる者がパトロンを必要とするのは、自分の経済生活を支えるためだけではない。芸術の核心部分を理解し、恒常的に精神的サポートを与えてくれる「趣味のよい応援者」を求め、自分の芸術の到達点を次の世代に伝承するために庇護を求めたいと考えるのは自然であろう。「美」の追求に生涯をささげる者は、その「美」を、世代を超えて伝えるための制度的枠組みを求めるのではないか。
 西洋音楽以外の世界、例えば日本中世の能楽の世界でも、この伝承の枠組みは芸術家の重要関心事であったようだ。世阿弥が『風姿花伝』を執筆したのは、芸の継承問題が深くかかわっているという指摘がある。世阿弥を悩ませ続けたのは後継者問題であった。世阿弥には子どもがいなかったので、後継者として弟・観世四郎の子、後の音阿弥を養子に迎えた。『風姿花伝』は、単なる純粋芸術論ではなく、自分の後継者たちが、文化芸術の第一人者としての地位を保ち続けることができるために書かれたマニュアル本であるという。将軍・公家といった権力者をいかに惹きつけるかが、その執筆の主要な動機だと言うわけだ(北川米喜「運動の芸能」)。そこには、芸術における様式、形式の確立という問題だけでなく、それをいかに継承して行くのかという文化の根本問題が存在する。パトロンとして政治権力を握る者は、文化にかかわる政策・戦略を決定する立場にあるからだ。

世阿弥『風姿花伝』

 その政治権力とはいかなる主体なのか。独裁・専制を意味するのか、あるいはデモクラシーのように、国民主権(popular sovereignty)という「全体」の意思を根拠とする権力なのか。その形態・構造によって、その影響や力の発揮のされ方は異なってくる。「全体主義」という言葉は曖昧だ。その政治構造や国民への影響は時代や国によって違いがある。「独裁・専制」による全体主義は、表面的には「独裁者」に服従することを強いられているが、独裁者が人々の「こころ」の中を支配できるわけではない。しかしデモクラシーの劣化した形態として現れる「全体が全体を支配する」ような政体は、人々の行動を規制し画一化するだけでなく、人々の「こころ」の中にも入り込み、画一化してしまうことがある。デモクラシーには「多数の専制」の危険性が伏在しているのだ。
  このようにパトロンや庇護者の力と影響は多面的で複雑だ。前々回述べたシューマンの評論活動における「ダヴィッド同盟」のような同志の連携は、凡庸な多数者の横暴から音楽を守るという趣旨で構想されている。金銭的な援助だけではなく、優れた鑑識眼を持つ「応援団」としてのパトロンが必要だと言うのだ。
 また、政治からの手厚い経済的援助は、芸術活動に入ろうとする人々の行動にも影響を及ぼす可能性がある。援助が広汎に厚く行われるようになると、二つの相反する効果が生まれる。ひとつは、より多くのものが芸術活動に参入するため、その中から「光るもの」を見つけ出すことが難しくなるかもしれない。しかし逆に、より多くのものが参入できるようになると、「光るもの」が入ってくる可能性は高くなる。

性格は政治体制に影響される

 こうした論点に加えて、音楽家自身の性格や行動はどの程度、体制からの影響を受けるのかという問いがある。同じ境遇にあっても、その境遇をどう受け止めるか、その境遇をいかに克服するかは芸術家の性格に左右されるだろう。ある行動が、そもそも体制ゆえなのか、本人の性格から来るのかという問題をどの程度区別できるのか。
 リベラル・デモクラシーの政治経済体制をとっている国々(民主制と市場制度を基盤とする先進国)では、人々の「こころ」のかたちがどのようなものかはある程度推測できる。同じ体制の下で生きる人間にはさまざまな局面での類似性が現れるであろう。通常、人間の行動は内発的な力で動機づけられると考えがちだが、現実の人間は、「体制」という外的環境に適合するように行動する傾向をもつ。言い換えれば、社会的条件(体制)が、感覚、感情、意見、行動目標、尊敬される人間の類型、言葉遣いなどを決定付ける場合が多いのだ。
 問題を具体的な歴史的事例から学ぶために、既に様々な事実が明らかにされ、多くの研究が提出されている「ショスタコーヴィチとスターリン」の問題をまず振り返りたい。国家権力が芸術の内容に立ち入り、権力への協力者、宣伝者としての役割を芸術家に強要するケースだ。ロシア革命後のソビエト音楽界の重鎮と目されたショスタコーヴィチの場合は、政治体制と芸術家の性格の問題を考える上でも重要な歴史的な事例であり、「こころ」を支配されなかった芸術家の抵抗の精神を考える上で貴重な事例になる。またショスタコーヴィチ(ドミトーリ、1906~1975)とプロコーフィエフ(セルゲイ、1891~1953)の比較を意識すると、なにがしかのヒントが得られるかもしれない。両者とも、一級の芸術作品を遺したソビエトの音楽家であるが、政治権力との関係においては明らかな違いがあると考えるからだ。 

ショスタコーヴィチの曖昧さと一貫性

 ショスタコーヴィチの代表的傑作が多く生み出された時期は、スターリンの独裁体制の時代(1924-1953)と重なっている。ショスタコーヴィチが音楽家としての活動を始めたのは、ペテルブルク音楽院の卒業制作として提出した「交響曲第1番」を作曲したのが1925年であるから、まさにスターリン体制がスタートした1年後ということになる。ショスタコーヴィチは、スターリンが1953年に亡くなるまでソビエト連邦の最高指導者として君臨した29年間、どのような想いで多くの傑作を生み出して行ったのであろうか。

ショスタコーヴィチ(1925年)

 この問いに彼が答えたとする書物が、1979年、ショスタコーヴィチが亡くなって4年後に、Testimony : The Memoirs of Dmitri Shostakovich, as related to and edited by Solomon Volkov と題して出版され話題を呼んだ。著者は米国在住の著名なソ連出身(亡命)の音楽学者ソロモン・ヴォルコフである。同書の誕生の経緯は、いくつかの謎に包まれているが、どこを読んでも迫力があり興味は尽きない。
 わたしはショスタコーヴィチの作品の決して良い聴き手ではない。「弦楽四重奏曲」を時々聴くことがあっても、例えばあの3日か4日で書き上げたという第8番(Op.110)を聴くとある種の戸惑いを覚える。この曲をショスタコーヴィチ自身がピアノで弾き直したとき泣いたという(工藤庸介)。この曲は「ファシズムと戦争の犠牲者の思い出に捧げる」とされている。その涙は、彼が共産党に入党せざるを得なかった(1960年)自分へのレクィエムとして書かれたゆえの涙なのか、この曲で戦争への思いを完璧に表現できたことに感極まったゆえの涙なのか、それは聴く者の理解を越えている。ほとんどがスローな楽章だが、allegro moltoの短い第2楽章の激しさは何を意味しているのだろうか。この曲の様式に込められた作曲者の「こころ」の中味は、聴く者の理解の彼方にある。
 彼はバッハも驚くほど自在に対位法を操った。そして聴き手をドラマティックに刺激する魔力を発する作品も遺したスケールの大きな作曲家であることは確かだ。しかし心静かに聴くと、なんとも暗くて辛くなることがある。かと思うと、明るく風刺を含んだような冗談めいた作品にも出合う。要するに本心がつかみにくいのだ。
 そこに込められたとされる政治的な意味合いを抜きにして、バーンステイン指揮のロンドン・シンフォニーによる「交響曲第5番」やハイティング指揮のアムステルダム・コンセルトヘボウによる「交響曲第10番」を聴くと心底素晴らしいと感じる。だが同時に、聴いている間中、自分のこころが極北の暗闇を彷徨していたような感覚にとらわれることがある。
 しかしショスタコーヴィチへの関心には抑えがたいものがある。工藤庸介『ショスタコーヴィチ 全作品解読』(東洋書店)を読むと、作品解説の中に彼の音楽活動の背景も記されており、関心の多くは満たされる。ショスタコーヴィチの作品とその演奏についてよく調べられており素晴らしい。中途半端な政治論や音楽評論には禁欲的だ。多くの正確な情報が提供されているから、ショスタコーヴィチの曲を聴くときには実に参考になる。著者自身がショスタコーヴィチの作品(「弦楽四重奏曲」など)を弾くバイオリニストであるため、演奏家としてのコメントも貴重だ。以下のショスタコーヴィチ作品についてのデータは、主にこの工藤氏の書物に依るものが多い。

工藤庸介『ショスタコーヴィチ 全作品解読』

ショスタコーヴィチにとっての対位法

 冒頭から政治的な解釈に振り回されないために、ショスタコーヴィチの音楽の中心的な特質が何かを私流に考えてみたい。彼の作品の中で、具体的な政治背景のない、抽象度の高い形式が内容を規定するような作品について先に触れておくのがよいと考えるからだ。
 ショスタコーヴィチは、いずれの時期においても、ソ連の政治指導者や国民にとって自国文化を代表する最高の「誇り」であった。後に述べる「ジダーノフ批判」で、スターリンとの関係が悪化した後でも、国際的な文化会議へのソビエト公式派遣団の一員として米国はじめ西側諸国に渡っている。彼はソ連の看板芸術家であることには変わりはなかった。1950年夏、ライプツィヒで開かれた「バッハ没後200年記念祭」にソ連代表団の団長として送り込まれた。その折、記念講演のあとの集会で偶然バッハを演奏する機会が生まれ、彼の演奏の見事さに聴く者は驚き興奮したというエピソードがある。
 この記念祭が終わった後、彼は多声音楽を、現代に生かす作品として、J.S.バッハの『平均律クラフィア曲集』の形式を借りて自らの多声音楽を創作することを思いつく。その結果、2年をかけて生まれたのが大作『24の前奏曲とフーガ』(Op.87)である(ファーイ)。
 バッハと同じように、平均律の12音それぞれを主音とする短調と長調の「前奏曲とフーガ」を対とする24曲で成り立っている。配列は、バッハがハ長調・イ短調に始まり、半音ずつ上昇して長調・短調を交互に並べているのに対し、ショスタコーヴィチの場合は、ハ長調・イ短調から5度の循環で並べて、ヘ長調・ニ短調で終わっている。機械的に半音ずつ上がるより、5度で上がっていくショスタコーヴィチの方が、続けて演奏する場合には音楽的なのか、どうなのだろうか。敢えてバッハとは配列を変えている。
 これはいかなる作曲家も容易になしうる技ではない。ただ、この「前奏曲とフーガ」という作品の生み出す様式美ゆえに、わたしは感動しているという面もあろう。例えば、ベートーヴェンの高弟であったカール・チェルニー(1791~1857)が作曲した「48の前奏曲とフーガ」(『古典的スタイルのピアニスト』Op.856)を聴いても、その素晴らしさにわたしは感動する。神谷郁代さんが演奏されたCDを聴いて、チェルニーをすっかり見直したほどだ。チェルニーというと、子供には「指の拷問」のような『練習曲』を思い出すからだ。すでにこの連載のはじめの方で述べたように、多声音楽(対位法)には、なにか尊いものを観照するような一種の宗教的な力があるのは確かだ。
 そうした対位法の持つ様式美を割り引いても、ショスタコーヴィチの『24の前奏曲とフーガ』全曲最後のニ短調の短い前奏曲長いフーガ(4声)には、20世紀における多声音楽の奇跡的な復活を思わせるような感動を覚えてしまう。特に、前奏曲の中に、あとに続くフーガの主題を書き込むという構造も素晴らしい。フーガ後半のオクターブの迫力も圧倒的だ。もしバッハが聴いたら驚いたに違いない。ショスタコーヴィチ自身が「交響曲」でもフーガを多用していることから、対位法に特別な想いを持っていたことは確かだ。
 この傑作を聴くと、ソナタ形式が主流である時代に(そしてソナタ形式の総括とも言える「交響曲」の中において)フーガの復活を主張している点に、彼の音楽芸術のスケールと底の深さを感じる。その深さは、最高の道徳であるべき政治に無関心ではいられないという彼の精神の深さと無関係ではあるまい。表面的な暗さと明るさの絶妙の対比の中に、祈りと怒りが表裏一体になったような宗教性が反映されているようにわたしには聴こえる。

「抵抗の精神」の強靭さと柔軟さ

 ショスタコーヴィチの音楽と政治体制の問題を考えることは、その政治体制の苛酷さを経験していない者にはある種の「無力さ」を感じる。後に触れるように、彼が、バーナード・ショウ、ロマン・ロラン、アンドレ・マルローなど、西側世界の「ヒューマニスト」たちに向けた激しい怒りを考えると、そうした「無力さ」は一段と強まる。言い方を変えれば、独裁者の恐怖による支配の苛酷さが個人の精神的自由に与える打撃を、ショウやロランは推し量るだけの想像力が足りなかったということになる。
 1917年の革命と1941年に始まる独ソ戦に重ね合わせながら彼の作品を聴くことはその曲への理解を深めるかもしれない。しかし同時に、それらの作品を歴史的な背景や文脈とは切り離して独立に、その芸術的な価値を味わうためには、聴き手の想像力が試されているとも言える。
 1926年5月、ショスタコーヴィチが「第1交響曲」を発表すると、ソ連に音楽の天才があらわれたと国内外に大きな衝撃が生まれた。しかしその後の彼の音楽活動には大きな困難が待ち受けていた。1936年1月26日、彼の二作目のオペラ『ムチェンスク郡のマクベス夫人』を観たスターリンは、この作品に露骨な嫌悪を示し、演奏途中で席を蹴って退出したのだ。二日後に『プラウダ』がこの作品を酷評するSUMBUR WMESTO MUSYKI (音楽の代わりにカオス)という見出しの匿名記事を掲載し、ショスタコーヴィチの音楽は「形式主義」であり「人民の敵」だと厳しく批判したのである。バレエ組曲『明るい小川』The Limpid Stream(Op.39a)にも同紙から鉄槌が下された。この組曲の中の「ワルツ」、「アダージョ」などのメロディは、バレエという舞踊芸術からすると当然かもしれないが、なんとも甘い。労働する人民には甘すぎるということなのだろう。

スターリン

 「プラウダ批判」は、ショスタコーヴィチが遭遇した、最初の公権力からのある種の脅迫であった。時まさにスターリンの「大粛清」がピークを迎えようとしていた時期であった。彼は芸術家としての社会的生命だけでなく、肉体的生命の危機すら自覚したに違いない。
 ちなみに筆者は30年ほど前、初めて『マクベス夫人』(ドイツ語版)をハンブルク・オペラで観た。第一幕第3場のカテリーナのアリアは美しいが、レイプ・シーンにショックを受けただけでなく、暴力とグロテスクが目立つ舞台を観た後の不快感は長く尾を引いた。スターリンが、途中で席を蹴って出て行ったのは、どのシーンか分からないが、スターリンも筆者のような「ブルジョワ道徳観」をもっていたのは驚くべきことなのかもしれない。このオペラの芸術的価値を果たしてどれほどの人が直ちに見抜くことができたのであろうか。

対立を避け、沈黙し、皮肉る

 「プラウダ批判」によって、ショスタコーヴィチはスターリンとの対立を避け、皮肉るという形の内省的抵抗を試みるようになった。スターリンの「大粛清」は、1930年代になると、政治犯として処刑された者は万単位にのぼっており、1937、38年には、それぞれ30万人以上が犠牲となっている。そうした状況下で、ショスタコーヴィチが「プラウダ批判」に対して沈黙を続けたのは当然であろう。それまでの交響曲には「10月革命に捧ぐ」(第2番 Op.14)「メーデー」(第3番 Op.20)といった政治的標題がついていたのに対して、1936年5月頃に完成していたとされる「交響曲第4番」は標題を持つものではなかった。「第4番」はレニングラード・フィルによって上演が決まり、リハーサルが行われていたが、その最中に、ショスタコーヴィチはスコアを撤回し初演中止を申し出る。その後この曲は1961年の末まで演奏されることはなかった。すでに強制収容所や大粛清の実態は知られるようになっており、「プラウダ批判」が陰湿な脅迫だとショスタコーヴィチは感知していたのだ。
 「プラウダ批判」の後、1937年、ショスタコーヴィチは「交響曲第5番」(Op.47, 日本では「革命」という副題がつけられる)を発表する。最終の第4楽章冒頭と、同じ楽章の終結部のティンパニによるフォルテッシモのA・Dの連打は人を奮い立たせ、前に進ませるような力がある。初演で拍手喝采が30分以上続いたこの人気作品は、音楽の形式から見ると保守的な古典的構成を採っている。「交響曲第5番」は、「強いられた歓喜」、権力の干渉への恭順を装う姿勢を示しているとも言われる。解釈は分かれるようだ。しかし解釈が分かれるということは平板ではないということだ。具体的な写実性を欠く曖昧さ、あるいは真意を隠す技巧に、ショスタコーヴィチの芸術の見事さがあるとも言える。
 ショスタコーヴィチ自身の性格と音楽の二面性は、作品の中にそのまま表れているとも言えよう。しかし安易にこうだとも断言できない。優れた芸術作品は、平板な一意的な解釈を拒むものだ。「こうも言える、こうも解釈できる」という広さと深さを秘めている。読む者、聴く者、観る者、それぞれに自分の理解力の程度に応じて、そこから何かを汲み取る自由を与えるものだ。「曖昧さ」にこそ、偉大な芸術作品の本質が隠されているのではないか。こうした曖昧さを生み出す技巧とエネルギーを与えた力のひとつが、スターリンという存在だったと考えることもできよう。
 ショスタコーヴィチのような芸術家にとって、政治体制からの圧迫ゆえに自分の芸術の本質が表出しないということはなかったはずだ。手を抜いたり、諷刺の「ひねり」を入れつつも、ここぞというところで、彼は己の表現したいものを「抜け目なく」しっかりと作品として結実させていたのではなかろうか。

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*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

猪木武徳

いのきたけのり 1945年、滋賀県生まれ。経済学者。大阪大学名誉教授。元日本経済学会会長。京都大学経済学部卒業、マサチューセッツ工科大学大学院修了。大阪大学経済学部教授、国際日本文化研究センター所長、青山学院大学特任教授等を歴任。主な著書に、『経済思想』『自由と秩序』『戦後世界経済史』『経済学に何ができるか』『自由の思想史』など。

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