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名ぜりふで読み解く日本史

2020年8月27日 名ぜりふで読み解く日本史

第1回 信長の器量を見抜いた「道三の眼力」

斎藤道三「山城が子共、たわけが門外に馬を繋ぐべき事、案の内にて候」(『信長公記』より)

著者: 呉座勇一

斎藤道三像 常在寺蔵(Wikimedia
Commons)

はじめに

 書店に行くと、「戦国武将に学ぶ決断力」といった書籍・雑誌企画をしばしば目にする。こういう発想は今に始まったことではなく、その淵源は江戸時代に始まる。勇将・智将の言行録が多数編まれて、人生訓が語られた。
 ただし、この種の名言・美談には真偽不明のものが多い。武田信玄の名言として知られる「人は城、人は石垣、人は堀」(『甲陽軍鑑』)にしても、伊達政宗の名言と記す史料もある。
 とはいえ、江戸時代に創作された話であっても、江戸時代の人間の価値観が反映されており、歴史研究の素材になり得る。本連載では信ぴょう性の高い名言をなるべく取り上げるが、怪しげな名言も、創作の可能性を念頭に置きつつ読み解いていきたい。

「国盗り」の意外な真相

 連載スタートの今回は美濃のまむし、斎藤道三を取り上げる。歴史好きで彼の名前を聞いたことがない人はいるまい。しかし、その実像は意外に知られていないのではないか。
 一般に道三は、油売りから美濃一国の大名となった下剋上の体現者と見られてきた。司馬遼太郎の小説『国盗り物語』(昭和38~41年連載)でも、そのように描かれている。だが昭和33年から始まった『岐阜県史』編纂事業の過程で六角承禎条書という史料が発見されたことで、この通説は覆された。
 この史料は、隠居の六角承禎(義賢)が、当主で嫡男の六角義治(義弼)と斎藤義龍(道三の長男)の娘との結婚に反対するために、義治とその側近たちに出した手紙である。承禎は名門六角氏と成り上がりの斎藤氏との婚姻に我慢ならなかったのだ。
 承禎によれば、京都から美濃に流れてきて土岐氏に仕えたのは、道三ではなく道三の父である長井新左衛門尉だった。父の死後、跡を継いだ道三は長井家の当主を殺して長井家を乗っ取った。さらに美濃守護代の斎藤一族に成り上がり、ついには主君である美濃守護の土岐頼芸を追放した。要するに親子2代の国盗りだったのである。
 なお六角承禎条書には、新左衛門尉が油売りであったという記述はない。油売りうんぬんの話が出てくるのは、道三が亡くなってから100年以上経ってからである。当然、油を銭の穴に通したという道三の妙技も後世の創作である。
 このように、道三に関する逸話のほとんどは、後世の創作である。義龍の実父が土岐頼芸であるという有名な話も歴史的事実ではない。『美濃国諸旧記』などによれば、道三は主君頼芸の愛妾である深芳野を賜ったが、深芳野は既に妊娠しており、出産した男児(義龍)は実は頼芸の子だという。
 頼芸を追放した道三は、謀反人の汚名から逃れるため、頼芸の子と信じられていた義龍に家督を譲って、美濃の人々をなだめた。ところが、道三は次第に義龍を疎んじて、義龍の弟たち(道三の実子)を寵愛するようになった。成長した義龍は出生の秘密を知り、弟たちを謀殺し、挙兵して道三を討った、というのである。
 けれども、義龍の実父が道三でなく土岐氏であるという逸話は、江戸時代初期の史料には見当たらない。筆者が把握している範囲では、その早い例は軍学者の山鹿素行が執筆した歴史書『武家事紀』である。この本は延宝元年(1673)成立で、やはり道三死後、1世紀を経ている。ちなみに「まむし」の異名も、坂口安吾が小説『信長』で創作した可能性が歴史学者の木下聡氏によって指摘されている。

道三は信長をどう評価したか

 では、道三関係の逸話で、実話と思しきものはないのか。実は1つある。有名な聖徳寺の会見である。正確な開催時期は不明だが、天文21年(1552)か22年に行われたと考えられている。信長19歳、もしくは20歳の時の出来事ということになる。
 良く知られているように、織田信長の正室は斎藤道三の娘である。信長は道三の娘婿にあたる。
 さて、道三の家臣たちが道三に「婿殿(信長)は大だわけである」と口々に言っていた。道三は「そのように人に言われている者は実際にはたわけではないのだ」と言って取り合わなかったが、あまりに家臣たちがうるさいので、実際に会ってみようと思い、信長に会見を申し入れた。
 道三が提案した会見場所は、美濃・尾張の境界領域にあり中立的立場となっていた富田(現在の愛知県一宮市冨田字大堀)の聖徳寺であった。信長も快諾し、会見が決まった。
 先に会場に到着した道三は、正装の老臣たちを寺の周囲に並べた。信長が奇妙奇天烈な格好をしているという噂は道三の耳にも入っていたので、信長を周囲から浮かせて笑いものにしようと思ったのである。
 道三は町外れの小屋に忍び込み、信長の行列をひそかにうかがった。信長は毛先を茶筅のように散らして()帷子(かたびら)を袖脱ぎにし、大刀・脇差を荒縄で巻き、腰の周りに火打ち袋やひょうたんをいくつもぶら下げ、虎皮と豹皮の四種の色に染め分けた半袴をつけていた。まさに噂通りの風体であり、道三も呆れたことだろう。
 しかし信長が率いてきた700~800人の家臣たちは、長槍500本、弓・鉄砲を500も装備していた。
 しかも寺に入った信長は屏風を引き回し、その裏で髷を直し正装に着替えた。長袴や小刀を家臣たちにも内緒で用意していたのである。信長の家臣たちは「さては日頃のたわけは芝居であったか」と仰天した。
 かくして信長と道三の対面になったが、お互いに知らぬ顔をして挨拶をしないので、見かねた信長家臣の堀田道空が、「こちらが山城殿(斎藤道三)でございます」と信長に紹介した。すると、信長はあの有名なセリフを吐く。「であるか」。信長は敷居をまたぎ、座敷で道三に挨拶した。二人は湯漬けを食し、盃を交わした。
 一杯食わされた道三は苦虫をかみつぶした表情で「またお会いしましょう」と言って別れた。道三は信長の帰りを見送ったが、道三軍の槍より信長軍の槍の方が長いことに気づき不機嫌になり、何も言わずに帰国した。
 帰途、道三側近の猪子兵介(高就)は道三の機嫌をとろうと「やはり上総介(信長)はたわけでしたな」と述べた。ところが、道三は「ならば残念なことである。わしの息子たちは、たわけの門外に馬を繋ぐことになるだろう」と答えた。これ以降、家臣たちが道三の前で信長を「たわけ」と呼ぶことはなくなった。
 言うまでもなく、信長の門外に馬を繋ぐとは、信長の家臣になるということである。斎藤家は織田家の下風に立つことになろう、と道三は嘆息したのである。現実に、道三の孫である斎藤龍興は信長に敗れて美濃を奪われた。道三の予言は見事に的中したことになる。

「英雄、英雄を知る」のか?

 この逸話はいかにもでき過ぎで、作り話めいている。しかし『信長公記』に収録されているので軽々に退けられない。
 周知のように、『信長公記』は織田信長の側近くに仕えた太田牛一の手になる信長の一代記である。信長が足利義昭を奉じて上洛の軍を起こした永禄11年(1568)から本能寺の変で命を落とす天正10年(1582)までの15年間を、1年1冊ずつまとめている。
 牛一自身が奥書で「創作はしていない」と宣言しているように、『信長公記』は実録色の強い史料で、信頼性は高い。ただ問題は、前記の逸話が「首巻」に収録されている点である。
 この「首巻」は上洛前の信長の事績をまとめたもので、『信長公記』の伝本の中には「首巻」を含まないものも複数存在する(「首巻」を伴う牛一の自筆本は確認されていない)。牛一自筆の池田本(岡山大学附属図書館池田家文庫所蔵『信長記』)の奥書には15帖(巻)にまとめたとの記述があり、首巻は後から付け加えられたと思われる。
 事実を淡々と記している本編と異なり、首巻には物語的な面白い話が多く含まれている。私たちにとってなじみ深い信長のうつけ者エピソードのほとんどは、『信長公記』首巻に収録されている。
 この相違は牛一の立場を反映していると考えられている。牛一が信長に近侍するようになったのは桶狭間の戦い前後のようなので、それ以前の信長の事績については伝聞情報に基づいて書いた可能性がある。聖徳寺の会見も、牛一が直接経験したわけではないだろう。全くの虚構とは思えないが、噂に尾ひれがついた恐れはある。
 しかし歴史研究家の和田裕弘氏は、猪子兵介は後に信長に仕えているので、牛一は兵介から聞いたのではないかと推測している。だとすれば、道三の発言は史実ということになろう。
 英雄、英雄を知る――この印象的な名ぜりふが実話であってほしいと願うのは、歴史学者として冷静さを欠いているだろうか。

※本連載は、2019年に共同通信社で配信された同タイトルの連載とは別に、著者が新たに当サイトに書き下ろしたものです。

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「考える人」編集長
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著者プロフィール

呉座勇一

ござ・ゆういち 1980年、東京都生まれ。歴史学者。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。専攻は日本中世史。現在、国際日本文化研究センター助教。『戦争の日本中世史』(新潮選書)で角川財団学芸賞受賞。主な著書に、『応仁の乱』(中公新書)、『一揆の原理』(ちくま学芸文庫)、『日本中世の領主一揆』(思文閣出版)、『陰謀の日本中世史』(角川新書)、『日本中世への招待』(朝日新書)など。

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