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デモクラシーと芸術

2020年8月26日 デモクラシーと芸術

第20回 スターリンを激怒させたショスタコーヴィチ「第9事件」

著者: 猪木武徳

※文中の曲名をクリックすると、曲の一部を試聴できます。
※ナクソス・ミュージック・ライブラリー(NML)非会員の方は冒頭30秒ですが、会員の方は、全曲を試聴できます。

「大祖国戦争」への愛国的反応

 では戦争に対してショスタコーヴィチはいかに反応したのか。1941年6月22日、ヒトラー・ドイツの国防軍は、2年前に締結された「独ソ不可侵条約」を破る奇襲作戦(バルバロッサ作戦)でソ連に侵入し、ソビエト国民を驚かす。この「大祖国戦争」と呼ばれる独ソ戦(「東部戦線」、1941~1945)が始まるや否や、レニングラード音楽院の教授室に消防手として寝泊まりしていたショスタコーヴィチは、すぐさま「交響曲第7番(レニングラード)」(Op.60)の作曲に取りかかり同年末に完成させる。彼は「書かずにはいられなかった」と後日回想している。彼が受けた衝撃と興奮は、寺原伸夫氏による「第7番」のスコア解説にヴィヴィドに記述されている。
 ドイツ国防軍に包囲される中、激しい空爆で灰燼と帰しつつあるレニングラードから、ショスタコーヴィチは「ソビエトの音楽家たち、私の親愛なる友人たちよ! 私たちの祖国、私たちの生活、私たちの音楽が、重大な危機にさらされています。私たちの祖国を、私たちの生活を、私たちの音楽を守り、忠実に仕事をしましょう」とレニングラード・ラジオで訴える。彼は、国民と共にいることで、戦っている国民の姿を音楽に刻み付けたいと願ったと愛国的な感情を率直に述べている。
 1941年秋に始まったこの包囲が解かれたのはおよそ900日後の1944年1月である。このレニングラード包囲戦で最高指導者の地位にいたひとりが、後に述べるアンドレイ・ジダーノフ(1896~1948)であった。ジダーノフは戦争が終わってから、1946年に文学者に向けてロシアの現実に目を向けること、さらに1948年2月には、ショスタコーヴィチ、プロコフィエフ、ハチャトリアンたちの音楽を「形式主義」、「人民の敵」だとして厳しく糾弾する「ジダーノフ・ドクトリン」を発した人物である(ソールズベリー)。

アンドレイ・ジダーノフ

 「第7番」を何度か聴くと、この作品の微妙な性格が分かって来る。ショスタコーヴィチは、「私は戦争の印象についての自然主義的描写(飛行機のうなり、戦車の轟音、大砲の一斉射撃)を課題とはしなかった。私は一般に名付けられている戦争(描写)音楽を作曲したのではない。私は峻厳な事件の内容を伝えたいと願った」と述べている(寺原伸夫)。自然主義的描写ではなく「峻厳な事件の内容」だという言葉は、リアリズムの主張する生々しい写実ではなく、人間の感覚を通して認識されたものを、知的に昇華した精神の表出だとわたしは思う。現実に起こったのは人肉をも求めるというほどの恐ろしい飢餓であり、うずたかく積まれ、見捨てられた死体の山であった。しかしこの戦争がいずれは勝利をもたらすであろうと聴く者に感じさせるのは、フルートが奏でるドイツ軍侵入を示す(わざとらしいほど)凡庸なテーマ(invasion theme)である。このテーマの行進曲は変奏曲風に続く。
 ナチス・ドイツの侵攻に対して、後に触れるように「政治に無頓着」そうなプロコフィエフも極めて愛国的な反応を示している。しかしその反応にはいくつかの興味深い点が含まれている(「芸術家と戦争」『プロコフィエフ自伝・評論』所収)。彼は1941年夏、モスクワ郊外でバレエ音楽『シンデレラ』の作曲中に、ドイツ軍のソビエト侵入のニュースを知る。彼はその時の様子を次のように書く。「全ソビエト人は、祖国の防衛に立ちあがった。誰もが遅れることなく、自分の本分を尽くそうと願った。われわれ作曲家は、英雄的な歌曲タイプの歌や行進曲、つまり、前線で歌われるような音楽を書き始めた」。それらは「大衆歌曲」(Op.89の2曲)と行進曲「交響的行進曲」(Op.88)を指すようだ。さらに「わたしは、レフ・トルストイの偉大な小説『戦争と平和』を主題にオペラを書こうと、かなり前から考えていたが、今ふたたび考えるようになった」と作曲への意欲を強めている。プロコフィエフはドイツの侵攻に対する愛国的な反発感情を、戦闘中の兵士や国民大衆への士気高揚に直接つながるような作品を目指すのである。

セルゲイ・プロコフィエフ

 と同時に、彼は戦火の中においても、自分の美意識にこだわるのであった。彼が住んでいたモスクワ郊外にも、敵機がやって来て、照明弾を投下し村全体を照らす。時にはドイツの爆撃機が激烈な爆発音とともに撃墜される。サーチライトの白い光芒が夜空を照らす。「これらすべてが結合して、恐ろしい美の光景を生み出していた」と述べ(前掲書)、まるで音楽と美のことしか頭にないかのようだ。
 プロコフィエフの音楽が、戦場の兵士を鼓舞するためという実利性と、他方では抽象性を追求する純粋な面白さという二つの方向に分裂しているのは、彼の1918年の「亡命」、スターリンの大粛清が進行する中での1936年の「帰国」という分裂的な行動とも重なるところがある。彼が米国滞在に見切りをつけたのも、長引く大不況の中、演奏会の機会も減り自分の経済生活が厳しくなってきたという現実的な事情があったのではなかろうか。

ソ連軍の反攻とスターリングラードの勝利

 1942年11月には、補給路を切断されたドイツ軍は、ソ連軍の頑強な抵抗に遭い、冬の到来の中スターリングラードで包囲されて、1943年1月末から撤退し結局多くの兵力と兵器を失う。スターリングラードの攻防戦におけるソ連軍の反撃で「大祖国戦争」の戦況の局面は大きく反転した。クイビシェフに移っていた首都機能もモスクワに戻って来る。
 この時点で、ショスタコーヴィチもレニングラードを離れモスクワ音楽院での指導を始め、素早く「交響曲第8番」(Op.65)を完成させている。「第8番」の、あの心に沁み透るような対位法的なAdagioで始まる長い第1楽章、続く第2楽章も行進曲風であるが、時にやや浮薄なスケルッツォが現れる。無窮動の第3楽章のあとの第4楽章のパッサカリアは、随所に織り込まれた対位法のエピソードが戦争の苛酷さの中にひそむ神意を示しているようなLargoだ。フィナーレの第5楽章は民族ダンスの入った明るい喜びに満ちた音楽。しかし滑らかな情緒あふれる旋律の後に、時に調性不明の激しい低音が響き渡る。これは単なる勝利を祝う音楽ではない。実に複雑な構造を持つ作品だ。
 「交響曲第8番」が標題を持たないこと、そして対位法的なテーマがちりばめられていることを考えると、ショスタコーヴィチはこの曲で戦争の悲惨さを直接感覚に訴えるのではなく、悲劇的感情を浄化させることを目指したのであろうか。自由とヒューマニティへの賛歌を歌いたいという思いも漏れてくるように感じる。
 彼が人民の不安と苦悩、勇気や歓喜を描きたかったとする「第8番」を、こうした歴史的背景の知識なしに聴いても、自分が全く経験していない想像を絶する人間の悲惨に、強く魂を揺さぶられる。美の感覚は最終的には普遍的であると言うことか。
 しかしソ連軍が反攻に転じ、勝利への道を進もうとしている折に、こうした悲劇的色彩の強い交響曲を作ったことに対して、「反革命的かつ反ソビエト的」だとして批判されることは避けられなかった。だがショスタコーヴィチはすでに世界から注目される大作曲家であり、彼の作品を反ソビエト的だとして徹底的に断罪することは難しかったに違いない。このやや不徹底な状況を一挙に変えたのがヒトラーに対するソ連の最終的な勝利であった。ソ連側はこの「大祖国戦争」で約1500万人の戦死者を出し、ほぼ同数の民間人が犠牲となったと推定される。3000万人もの死者という甚大な犠牲を払った「大祖国戦争」は、ナチス・ドイツとの戦争はもちろん、第二次世界大戦においても、人類の戦争の歴史の中でも最大数の死者を計上した未曾有の大戦争であった(ソールズベリー『攻防900日』)。
 「独ソ戦」のソ連の勝利はその後の国際関係に大きな政治的帰結をもたらした。ヨーロッパの解放に貢献したのはソ連であるとされ、ソ連の国際的威信を大いに高めた。そしてソ連が戦後の東欧地域の共産化への道を突き進む上で大きな力を与えた。

スターリンは神格化(apotheosis)を望んだ

 独ソ戦の勝利は、ショスタコーヴィチが置かれた状況にも変化をもたらした。『証言』(Testimony : The Memoirs of Dmitri Shostakovich, as related to and edited by Solomon Volkov)の中で述べられたスターリン自身の変化をショスタコーヴィチは次のように述べる(pp.140-142)。「大祖国戦争」の勝利は、スターリンに強い自信と自己肥大の感覚を植え付けた。それまでのスターリンは自己の才能や偉大さへの強い確信はなかった。ヒトラー・ドイツに勝利すると、スターリンは、カエルが懸命に腹を膨らませて牛の大きさになったような意識を持つようになった。彼のまわりの者も、スターリンは牛なのだと考え、牛として接するようになる。そうした状況から、スターリンの自分自身の神格化(apotheosis)への強い要求が生まれた。
 神格化のためには、それ相応の自分への頌歌(Ode)が不可欠になる。スターリンは、独ソ戦の勝利を祝い、自分を讃える合唱と独唱の入った頌歌として、荘重な「大交響曲」を作る仕事をショスタコーヴィチに求めた。作曲されたのが、「交響曲第9番」(Op.70)である。「9番」というのも、ベートーヴェンの「第9」を想起させて縁起がよいと思ったに違いない。
 だが、ショスタコーヴィチはスターリンの神格化に応ずることは出来なかった。1945年11月に初演されたこの「交響曲第9番」は、規模(構想)の小さな、演奏時間は20数分程度の、文字通り「こぢんまりとした」作品であった。ソナタ形式の第1楽章でピッコロやトロンボーンの奏でる第二主題の冗談めいたメロディーは、終戦の解放感から生まれる国民の陽気さともとれるが、どうも茶化しているように聴こえる。軍楽隊を笑っているだけでなく、スターリンに対するシニカルな「メッセージ」が含まれているようにもとれる。「勝利」へのある種のsarcasm(強い当てこすり)に聴こえるのだ。ベートーヴェンの「第9」のような荘重な曲を期待し、何事にも過度に敏感になっていた独裁者が、新しい「第9」を聴いて怒りを爆発させたことは十分推測が付く。この「第9」は、ショスタコーヴィチがスターリンの「個人崇拝」というカルトの強要をシニカルに撥ねつけたととるのが自然であろう。
 「偽書」とも言われるヴォルコフの『証言』という本が、どのように生まれたのかは分からない。だが相当程度、スターリン体制下のソ連の政治的・社会的風土が記されていることは確かであろう。ソ連からの亡命を果たした著名な演奏家や知識人の中には、『証言』を単に「偽書」と見捨てることは出来ないとする立場を取るものが多い。ショスタコーヴィチ自身がヴォルコフに直接語ったことなのかという点は別問題として、同書は、社会主義国家ソ連における芸術の位置を知るうえでも豊富な情報を提供していると解すべきだろう。とくにショスタコーヴィチがグラズノフ、プロコフィエフ、ストラビンスキーらの作曲家たちをどのように見ていたのか、どう評価していたのかを知る上でも興味深い(プロコフィエフについては後に触れる)。
 ラリー・ワインステインの作製したDVD、The War Symphonies: Shostakovich against Stalin でも、登場する作曲家やショスタコーヴィチの友人たちは「第9番」第1楽章のいくつかの旋律は「サーカズム(諷刺)」だと解釈している。ちなみにこのDVDには、「ジダーノフ批判」でショスタコーヴィチやプロコフィエフを「形式主義者」として名指して譴責した作曲家で政治家でもあったT・フレンニコフ(1913~2007)本人が登場している。また、「ジダーノフ批判」直後にショスタコーヴィチが音楽を付けた、「ベルリン陥落」というカラーのプロパガンダ映画(1949)の一部が出て来る。「個人崇拝」という点でも、現代の北朝鮮と酷似していてその迫力に圧倒される。

Shostakovich Against Stalin:The War Symphonies [DVD]

「ジダーノフ批判」を諷刺する“ラヨーク”

 「第9事件」によって、ソビエト政府は芸術家の活動に対する目標・方針に新たな(と言っても10年前と同じような)路線を打ち出す。戦後のスターリン独裁体制下で文化政策に強い影響力を持った人物は、先にも述べた通り、マルクス主義理論家で独ソ戦のレニングラード防衛に当たったアンドレイ・ジダーノフであった。スターリンの後継の地位をマレンコフと争っていたジダーノフは、まず1946年8月、ソ連文化における西欧的要素を否定し、小説家ゾーシチェンコや詩人アフマートヴァらを批判する「ジダーノフ・ドクトリン」を発表する。続いて48年2月には、ソ連の音楽家たちに浸透している「形式主義」を譴責し、「人民のための音楽」に徹底することの必要性を強調、hermeticな音楽を弾劾する文書を公にする。hermeticとは、錬金術的、この世から隔絶した、という意味だ。ショスタコーヴィチ、プロコフィエフ、ハチャトリアンなどの音楽は、ロシアの人民に開かれたものではなく、密閉世界の音楽であり、不協和音を誤用したものであると批判した。その数か月後、作曲家連合の特別会議は、ショスタコーヴィチなどに公開の場での悔悛(repent)の声明を求め、モスクワ、レニングラード両音楽院の教授職を解任する。

左からプロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、ハチャトリアン

 これに対してショスタコーヴィチは、友人たちとの間での笑いの種にするために、スターリンの出身地グルジア民謡「スリコ」(Suliko)を用いた「反形式主義のラヨーク」(作品番号なし)を作曲している。このある種の「世俗カンタータ」であるラヨークは、かなり強い諷刺音楽であったために公にされることはなかった(1989年1月初演、先ほど触れたワインステインのDVDではゲルギエフたちが演奏している)。ショスタコーヴィチは表立っては抵抗しないものの、断じて承服はしないのだ(Boris Groys)。
  「形式主義」の代表とも言える、対位法の精を尽くした大作「24の前奏曲とフーガ」が誕生したのは、この「ジダーノフ批判」(1948)の後であったことにも注目したい。そこには、「プラウダ批判」を沈黙でやり過ごし「交響曲第5番」を作曲し、「ジダーノフ批判」をも「サーカズム」で当てこするショスタコーヴィチの図太い精神が見て取れる。彼の芸術が体制からの圧力でゆがめられるような、軟弱なものではないことを証明しているのだ。
 ちなみに20世紀の最高の歴史家のひとりとされるフランスのフェルナン・ブローデル(1902~1985)は、『文明の文法』第25章「1917年以後のソ連」で、ロシア知識人たちを論じつつ、「ジダーノフ批判」にも触れている(英訳 pp.565-6)。詳細は省くが、彼の見方は、「スターリン独裁の下では、芸術家たちはソ連の人民の後をついて行くよう仕向けられて、この時期のすべての作品は画一的で凡庸であった」と述べている。最も抽象的な芸術、音楽についてはそう言えないようだ。

形式主義と社会主義リアリズム

 「プラウダ批判」や「ジダーノフ批判」で指摘された「形式主義(フォーマリズム)」とは結局何を意味しているのか。簡単に言えば、感覚で捉えたものをそのまま写すという意味での「写実性」の欠如ということになろうか。この場合、「写実する」とは事実を感覚(視覚や聴覚)が捉えたまま、知性でろ過することなく忠実に再現することだ。
 かつてA・トクヴィルはデモクラシーの時代の芸術は、感覚に訴えるものが多いと指摘した。目に見えるもの、耳で聴くことができるものの描写に徹することが多く、(第18回で示したように)魂そのものを(抽象的に)描くことが少ないと述べている(『アメリカのデモクラシー』邦訳第二巻(上)p.96)。
「形式主義」に対峙する言葉として浮かび上がるのは、「社会主義リアリズム」だ。「ジダーノフ批判」は音楽家たちに向けられる前に、人民の苦悩を問題にすべきだとして、社会主義リアリズムに無理解な文学者たちが標的にされた。音楽の世界で「形式主義」という言葉が用いられる場合、多くは表面的・形式的な規則の厳守を指す。もちろん音楽は現実をそのまま写し取るものではない。音楽は、形式に縛られてこそ、内容の美しさが立ち現れる。単なる感情の自由気ままな表現の中には美は見いだせないはずだ。第17回で述べたハンスリックが(リストやワーグナーに対して)ブラームスを擁護した際に注目した、「音楽は感情を直接表現し、そのままを写実するものではない」という立場と重なるところがある。

ゴーリキーの運命

 「ジダーノフ批判」は、社会主義リアリズムを称揚し、形式主義とコスモポリタニズムを排することにあった。社会主義リアリズムが重視されるのは、感覚や感情に訴えることによって人々をアジテート出来るからだ。文学の世界で「社会主義リアリズム」の旗手の役割を担ったのはマクシム・ゴーリキー(1868~1936)であった。日本でも戦後の一時期、ゴーリキーの戯曲(例えば『どん底』)はさかんに上演され、黒澤明によって(原作を江戸時代の場末の棟割長屋に置き換えて)映画化されもした。ゴーリキーはレーニンとの交流(革命後は決裂するものの)もあり、ボルシェビキの中の社会民主主義路線の熱心な支持者であった。彼の作家として姿勢は、文学は、スタイルや形式における美学上の実践というよりも、直接世界を変え得るようなモラルや政治の実践という方向にあった。『どん底』はまさにその立場を具体的に示す代表作である。

マクシム・ゴーリキー

 しかしゴーリキーの「社会主義リアリズム」と現実の政治とのかかわりは複雑を極める。彼は、ロマノフ王朝時代にツァーリズムを批判して国外追放に遭い、結核の療養もありイタリア・ナポリ近辺のカプリ島で1906年から1913年までを過ごしている。ここで、彼は一種の「宗教的無神論」とでも称すべき境地に達し、政治や経済的な改革よりも、道徳的・宗教的な意識改革と文化的価値にこそ革命につながる精神があると確信するようになる。1913年にロマノフ王朝300年の大赦でロシアに戻ってから、ゴーリキーは神のない世界での唯一の救済の鍵は「文化」にあると改めて実感する。
 1917年の革命後に、革命に参加した知識人たちのロシア貧困層への認識の甘さに失望したゴーリキーは、ヒューマニズムと革命の問題をめぐって、レーニンはもとより、ボルシェビキ政権を批判するようになる。1921年から22年にかけての大飢饉では、ロシアの貧民500万人が命を落としている。こうした状況を国外に明らかにしたゴーリキーは、今度は革命政権によって1921年、再び国外に追放され、ナポリ湾に面した町ソレントで過ごすことになる。後に触れるようにプロコフィエフは、このソレントの「ひえびえとした居心地の悪い家」で秘書や妻、愛人たちと大勢で暮らすゴーリキーを訪ねている。ゴーリキーはひどい結核を病んでおり、片肺で辛うじて命をつないでいるという状態であった(プロコフィエフ「ゴーリキーについて」)。
 30年代に入るとますます力を拡大するファシズムの国イタリアからゴーリキーを帰国させることは、スターリンにとって大きな政治的価値があった。ソ連に戻ってからのゴーリキーは、レーニン勲章をはじめ、さまざまな厚遇を受ける。スターリン体制の下で、政治犯を苦役させ多くの死者を出した「白海・バルト海運河」の建設を称揚する政府刊行物の出版にも従事する。しかし1936年、スターリンの大粛清の嵐の中で、ゴーリキーは謎の死を遂げるのだ。毒殺による粛清だという見方が強い(亀山郁夫『磔のロシア』)。いずれにしても、「社会主義リアリズム」を称揚するために、スターリンにうまく利用されたヒューマニスト文学者の悲劇というより他はない。

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*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

猪木武徳

いのきたけのり 1945年、滋賀県生まれ。経済学者。大阪大学名誉教授。元日本経済学会会長。京都大学経済学部卒業、マサチューセッツ工科大学大学院修了。大阪大学経済学部教授、国際日本文化研究センター所長、青山学院大学特任教授等を歴任。主な著書に、『経済思想』『自由と秩序』『戦後世界経済史』『経済学に何ができるか』『自由の思想史』など。

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