「サマーヌードみたいな夏を過ごしたい」
雨宮まみさんがTwitterでつぶやいていた言葉だ。「サマーヌードみたいな夏」でTwitter検索をかけると上位に出てくる。2012年と2013年の二年連続でまみさんはその旨をつぶやいている。どんだけ待ちわびてたんだよ、サマーヌードみたいな夏。わかるけどさ。なんなら私はいまだに待ちわびてるけど。
そのツイートを目にしたとき、私はほんとうに驚いた。私以外にもそんなことを考えている人がいたんだという驚きと、夏がくるたびに妙にそわそわと肌の表面をくすぐっていくあの期待感をこんなにも端的に表現する言葉があったなんてという驚き。まみさんの"ヒット作"といえば「こじらせ女子」になるのかもしれないけど、「サマーヌードみたいな夏」は知る人ぞ知る名作のように、いまも私の右腕に刻まれている(※イメージです)。
いまさら説明するまでもないかもしれないが、「サマーヌード」は1995年にリリースされた真心ブラザーズのシングルである。熱心な真心ブラザーズのファンというわけではないけれど、桜井秀俊という人はなんてロマンティックでセンチメンタルな曲を書く人なんだろうという印象が当時からあった。そこへ、夏のきらめきの断片を高速スライドショーで見せつけるような歌詞を載っけてきたのだからたまらない。甘くキャッチーで目もくらむような最高の夏を疑似体験させる、まさにキラーチューンと呼ぶにふさわしい一曲だ。発売時はそこまでヒットしなかった覚えがあるのだが、オリジナルから二年後の1997年にジャニオタ的にはおなじみの編曲家CHOKKAKUさんのプロデュースで「ENDLESS SUMMER NUDE」として再リリースされ、いつのまにか夏の定番ソング入りを果たし、2013年には山P主演でドラマ化までされた。
本稿を書くにあたって、改めて聞き比べてみた。洗練された「ENDLESS SUMMER NUDE」も、山Pがカバーした「サマーヌード」のけだるさも、それぞれちがった良さがあるにはあるんだけれど、やはりオリジナル版のどうかしちゃってるようなアレンジが個人的にはぐっとくる。駆け出してもつれあって砂浜に足を取られそのまま転がっていく――刹那の夏のイメージが強烈に喚起され、太陽に焼かれた砂浜や触れあった肌の熱さまで伝わってきそうだ。倉持陽一のそっけなく突き放すような歌声がこれまたせつなく胸を掻きむしる。
はて、そんなら「サマーヌードみたいな夏」とは具体的にはいったいどんなものなんだろう?
山P主演の例のドラマを、実は私はかなり楽しみにしていたのだけど、いざ放送がはじまってみたら"これじゃない"感がすさまじかった。あれと比べたら、反町隆史と竹野内豊が主演した1997年のテレビドラマ「ビーチボーイズ」のほうがずっとサマーヌードっぽい気がする(※あくまで個人の主観です)。
オリジナル版「サマーヌード」のМVにはデビュー前のPUFFYの二人が出演している。波打ち際ではしゃぐ男女四人というのはいかにもサマーヌードなシチュエーションだけど、あのMVをサマーヌードたらしめてるのはまぎれもなくPUFFYの二人である。キラキラした夏の光の中で手をつなぎながら海を蹴り飛ばす二人の女の子なんて、めっちゃサマーヌードじゃないですか! この際、真心の二人は映さなくていいからPUFFYをもっとください! ――ってそれ「渚にまつわるエトセトラ」じゃーん! とはたと気づいて「渚にまつわるエトセトラ」のMVを観てみたら、「サマーヌード」のMVよりもずっとサマーヌードしていた。
……だんだん「俺の思う最強のサマーヌード」みたいなことになってきたが、だれの心の中にもそれぞれのサマーヌードがあるんじゃないだろうか。思えば私は、「サマーヌード」という曲がこの世に誕生する以前から、「サマーヌードみたいな夏」を追い求めていた気がする。
わずか一週間で死んでしまう蝉。昼にはしぼんでしまう朝顔。打ち上げ花火と線香花火。寄せては返す波。砂の城。ひと夏の恋。ひと夏の冒険。夏祭りで買ってきた金魚もひよこも短命だし、水風船はすぐにしぼむか割れるかしてしまう。綿あめもかき氷もあわく儚い。ぱっと咲いてぱっと散る。刹那的で一回性。夏にはそんなイメージがつきまとう。
だからなのかはわからないけれど、いまも昔も青春映画といえば夏を舞台に描かれることが多い(青"春"なのに!)。『スタンド・バイ・ミー』『ウォーターボーイズ』『リンダ リンダ リンダ』『台風クラブ』『悲しみよこんにちは』、アニメのほうの『時をかける少女』。ぱっと思いついただけでもこのとおりだ。最近では映画版『ちはやふる』や『君の名前で僕を呼んで』なども、作中でいくつかの季節が描かれていたにもかかわらず、なぜか夏の映画だという印象が残っている。
それから、なんといっても忘れちゃいけないのが『海がきこえる』である。多感な時期にこの作品に出会ったことで、私の中でなにかが決定づけられてしまった気がしてならない。
たしか夏のはじまりの土曜日の夕方だったと思う。学校から帰ってきて居間のソファでだらだらしていたところに、つけっぱなしにしていたテレビで『海がきこえる』が始まった。え、なにこれ、とびっくりして観入っているうちに一時間半が経っていた。灯りもつけずに観ていたから、夕方の薄暗くなりはじめた室内と、画面を流れていく鮮やかな夏の景色とのコントラストがよけいに強烈だった。
――とまあこのように、幼いころから夏というのは特別な季節だと刷り込まれて育ってきた私(やあなた)が、サマーヌードゾンビになってしまうのも無理からぬことではないだろうか。
ほんとは夏なんて好きでもなんでもないのに、夏がやってくると妙にそわそわし、夏の終わりが近づいてくると「今年もなにも起こらない夏だった」とがっかりする――そんなことをくりかえしているうちに、気づいたら青春時代はとうにすぎ、朱夏まっさかりの四十二歳になっていた。
いま私が夏の思い出としてすぐに取り出せるものといえば……好きな男の子と海辺ではしゃいだり、遊園地のお化け屋敷でキャーキャー言ったり、浴衣を着て花火大会に行ったりとめっちゃサマーヌードな記憶があるけれど、よくよく考えたらそれぜんぶゲーム(※ときメモGS)の中でのことだった……。
名古屋では八月の最後の週末に、「にっぽんど真ん中祭り」(通称「どまつり」)なるイベントが開催される。日本全国、世界各地から集まった四十人以上からなるチームが、名古屋の中心街に作られた特設野外ステージでダンスを披露するコンテスト形式のダンスパーティーである。その週末は、揃いのコスチュームに身を包んだ人々が街にあふれかえり、夏祭りmeetsハロウィンのような様相を呈することでもおなじみだ。
いつだったか、このイベントを「でらプロム」と知人が呼んでいたことがあったけれど、言い得て妙だなと感心してしまった。私のような文化系おばさんからしてみたら、街をあげてスクールカースト上位者たちによる大規模なプロムが開催されているようなものなのである。
いい年していまだにスクールカーストに囚われているのもどうかと思うけど、この時期はなるべく中心街には近づかないようにしている。「どまつり」勢のヴァイブスを浴びるのが恐ろしくてたまらないからだ。
想像してみてほしい。地元で四十人以上のメンバーを集め、1ステージのダンスを仕上げる大変さを。スケジュールを合わせるのにも練習場所の確保にも苦労するだろう。四十人をひとつにまとめあげてダンスを完成させるのに、どれだけの時間と労力を要するだろう。衣装のデザインはどうするのか、材料の買い出しは? 一人一人に材料費を徴収してまわるの? っていうかそれだれが縫うんですかね!? 等々、想像しただけでうんざりする。わざわざそんなめんどうなことをするぐらいなら、エアコンの効いた家で配信の海外ドラマでも観ていたい。
それでも彼らは、そのめんどうなことに手を伸ばした。その時点で"勝ち"は約束されたも同然である。「どまつり」勢には最高の夏をみずから掴み取りにいくエネルギーがみなぎっている。仲間たちと夜の公民館に集まってダンスの練習をし、夜を徹して衣装を縫いあげ、チーム内でいくつかの恋が生まれたり散ったりなんかして、すでに充実した夏を過ごしてきたのであろう彼らは、夏の覇者だった。
「サマーヌードみたいな夏」などこれっぽっちも意識していない人ほど、「サマーヌードみたいな夏」に近づけるなんて皮肉な話である。自意識とか羞恥心とかそういうものから自由でいられる人ほど、はしゃぎすぎてる夏の子どもになれる才能があるのだろう。
ため息が出る。ついぞ私が手にすることのなかったものに、ためらいなく手を伸ばせるその屈託のなさに。長年「サマーヌードみたいな夏」に焦がれながら、自分からは手を伸ばそうともしなかった己の不甲斐なさに。
彼らのヴァイブスは私にはまぶしすぎて、夏そのものというかんじがする。近寄るとあてられてしまう。だから、なるべく近寄らないようにする。
昨今の猛暑ではちょっと油断すると命の危険があるので、夏だからといってそうお気楽にはしゃいではいられなくなった。くわえて今年はコロナの影響で、胸と胸からまる指ダメ絶対だし、一晩かぎりのゆきずりの恋も花火大会も夏祭りもすべて自粛ムードである。甲子園は無観客開催となり、運動系文化系問わずさまざまな部活動にも影響が出ているようだ。
甘酸っぱい青春のメモリーが満たされないまま若者たちの夏が終わろうとしている。私が「サマーヌードみたいな夏」を過ごせないのは100%私が私であるせいだけど、彼らの夏が奪われたのは彼らのせいではない。そのことを思うと中年の情緒が爆発しそうになるが、それはそれでなに勝手に他人の「失われた夏」にタダ乗りしてセンチメンタル消費してんだよ、という難儀な潔癖さも持ち合わせているから自分でも始末に負えない。
これを書いているいままさに、「どまつり」がオンラインで開催されていたので、どんなものかとニコニコ動画を開いてみたら、ちょうど平均年齢69歳の「ZAC」の映像が流れ出したところであった(なんて書くと仕込みのように思われるかもしれないけど、ほんとにドンピシャのタイミングだったんだってば!)。
「飛べない! まわれない! しゃがめない! 一度しゃがんだら二度と立ち上がれない! ぱっと見たらお嬢さま、よくよく見たらおばあさま、かわいく見えちゃってごめんなさい」
という最高かよー!な口上をバックに、揃いのピンク色の着物を着た白秋の乙女たちがしゃなりしゃなりと踊っている姿は、この夏いちばんのサマーヌードだった。
そうだ。最高の夏に年齢制限なんてないし、私たちは夏を奪われてもいない。いつだってそれはみずから掴み取りにいくものだ。
もしかしたら私にも「サマーヌードみたいな夏」を過ごすチャンスはまだ残ってるんじゃないか――なんて性懲りもなく考えている、残暑厳しい八月の終わりである。
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吉川トリコ
よしかわ・とりこ 1977(昭和52)年生れ。2004(平成16)年「ねむりひめ」で女による女のためのR-18文学賞大賞・読者賞受賞。著書に『しゃぼん』『グッモーエビアン!』『少女病』『ミドリのミ』『ずっと名古屋』『光の庭』『マリー・アントワネットの日記』(Rose/Bleu)『女優の娘』などがある。
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