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デモクラシーと芸術

2020年9月30日 デモクラシーと芸術

第21回 国家は文化芸術を主導すべきか?――政治体制と芸術家たち

著者: 猪木武徳

※文中の曲名をクリックすると、曲の一部を試聴できます。
※ナクソス・ミュージック・ライブラリー(NML)非会員の方は冒頭30秒ですが、会員の方は、全曲を試聴できます。

西欧の「ヒューマニスト」たちへの怒り

 ショスタコーヴィチの人間観や人間評価の判断基準を考える場合、彼の西欧知識人に対する見方が参考になる。表現の自由が抑圧を受けた社会主義体制下の芸術家は、西側世界のヒューマニストの知識人たちをどう見ていたのだろうか。
 具体例を挙げよう。西側から1931年にソ連を訪問した英国のフェビアン社会主義者バーナード・ショウ(1856~1950)や、1935年に訪れたフランスのロマン・ロラン(1866~1944)などはショスタコーヴィチの音楽を礼賛している。だがこれら親ソ派ヒューマニストに対するショスタコーヴィチの怒りは激しい。

バーナード・ショウ(左)、ロマン・ロラン(右)

 『証言』の彼の発言を見てみよう。曰く、ソ連を訪れたショウは「独裁者という言葉には驚かないよ」と嘯いたと言う。数百万のソ連人民が餓死しているのに、「ロシアで飢餓だって? 自分はモスクワでは他のどこでよりもよく食べたよ」と英国に帰ってから公言している。17世紀中葉の清教徒革命のあと、護国卿となったオリバー・クロムウェルを最後に、独裁政治を経験したことのない英国民ショウに対して、ショスタコーヴィチは大いに含むところがあった。にもかかわらず、ショウの求めで『交響曲第7番』(「レニングラード」)のスコアを送らされたと不満を吐露している。
 オペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を褒め称えたロマン・ロランに対しても厳しい。1944年8月25日にパリが解放されると、ロマン・ロランは病をおしてパリのソビエト大使館の十月革命祝賀会に出席するほど、ソビエト革命の礼賛者であった。そのロランについて、ショスタコーヴィチは「考えただけでもむかむかする」(It makes me sick to think about him)と吐き捨てるように言っている。ロランがソ連を訪問した時、ショスタコーヴィチは会う機会が設定されていたにもかかわらず、病気を理由に応じていない。
 『証言』でショスタコーヴィチは、こうした著名な「ヒューマニスト」たちはなぜ世界に向かって嘘をつくのか、彼らはなぜわれわれの生活、名誉、尊厳がひどい状況に置かれていると言わないのか、と西欧ヒューマニストの虚偽を断罪するのだ。彼らは自分たちの居心地の良い生活を大事にしているだけであって、彼らの発言は真剣に受け取るに値しないと怒るのだ。
 フランスの「偉大なヒューマニスト、真の文学・芸術の愛好者」とみなされるアンドレ・マルロー(1901-1976)に対しても厳しい批判の矢が放たれる。「白海・バルト海運河工事」をマルローは礼賛(glorified)した。この建設工事は、オネガ湖から白海に向かう運河を「第1次五か年計画」の一環として1931年から33年までの20カ月をかけて切り開く一大土木事業であった。10万人近い「人民の敵」(政治犯)が強制労働にかり出され、万を超える死者を出している。「政治犯」の再教育が目的だとされたこの工事の実態をマルローは知っていたのだろうかと。自分たちの命にかかわることのない問題に口出しをする「ヒューマニスト」たちを、ショスタコーヴィチは『証言』の中で激しく批判するのだ。

『証言』の中のプロコフィエフ

 この『証言』が偽書か否かについてはさまざまな見方が示されてきた。こうした論争は、同書の成立過程を検証するためには重要かもしれないが、書かれている内容をどれほどの関係者が「事実」と認めているのかを知ることも重要だ。後者を重視する限り、『証言』は貴重な情報を与えるドキュメントであろう。 
 同書の中で、ショスタコーヴィチはプロコフィエフに言及し、彼への不快感をむき出しにしている。『証言』が刊行されて四半世紀経ってから、ヴォルコフはShostakovich and Stalin(2004)(亀山郁夫・梅津紀雄・前田和泉・古川哲訳『ショスタコーヴィチとスターリン』2018)を公にしたが、ここでもプロコフィエフへの強い批判的な記述が目立つ。旧著『証言』の方が具体的なので彼の言葉を引用しておこう(pp.34-38)。
 「彼とは友達になれなかった」というその口調には時に強い怒りが込められている。人物にしろ、事件、音楽、何事においても、プロコフィエフの判断基準は「面白い(amusing)かどうか」だけにあった。調性と無調の間で不協和音を炸裂させながら人間の悲惨と残忍さに迫ったアルバン・ベルク(1885~1935)のオペラ、『ヴォツェック』(初演は1925年12 月14日)ですら、amusingだと言う。そしてプロコフィエフが会話の中で多用する「(私の言ってることが)分かるか(understood?)」という言葉もショスタコーヴィチをイライラさせた。プロコフィエフのスポイルされた神童(Wunderkind)ぶりが心底気に障ったと見える。

プロコフィエフ

 人間の性格と体制の関係は複雑だ。体制は、確かに人間、あるいは人間の集団が作りあげたものだ。しかしその体制が、その中で生きる人間の性格や行動、価値観の形成に強い影響を及ぼすことは否定できない。人間の本性の表出は社会的条件によって規定されるところが大きいのだ。同じ体制の下で生きる人間に、さまざまな局面での類似性が現れるものだ。人間は、通常その行動を内発的な力で動機づけられると考えられがちだが、実際の人間は体制という外的環境に適合するように考え行動する動物でもある。言い換えれば、社会的条件が、意見、感情、感覚、行動目標、尊敬される人間のタイプ、言葉遣いなどを通して人々の考えや行動を決定付けるのだ。社会主義独裁下の人間の行動と、自由民主制社会の人間の行動が異なってくるのは改めて指摘するまでもない。
 しかし、ショスタコーヴィチが愚弄したとされるプロコフィエフのケースを考えると、同じ体制のもとにおいても、芸術家はその性格が異なれば行動も異なってくることが分かる。プロコフィエフは、明るく透明で軽いドライな音やリズムを好んだように、彼は音楽においても生活においても、フットワークが軽妙であり、「影」を感じさせるところは少ないようだ。ショスタコーヴィチ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』に対する「プラウダ批判」があった1936年、プロコフィエフは、スターリンの大粛清の中で謎の死を遂げる前のゴーリキーにモスクワで最後に会っている。その時の談話を「ゴーリキーについて」という短い文章にして手帳に書き留めている(園部四郎・西牟田久雄共訳『プロコフィエフ自伝・評論』)。プロコフィエフが「新しい時代の精神にマッチするように、音楽は活発で、楽天的でなければならない、と誰も言っています」というと、ゴーリキーが「そうです。だがそれは暖かく、そしてやさしくもなければいけませんね」と付け加えたという。二人の言葉が空中ですれ違ったように感じるエピソードだ。

プロコフィエフの奇妙な亡命

 年譜によると、プロコフィエフはアメリカへの亡命を決意して、1918年5月7日、シベリア鉄道でモスクワを立ち、31日に日本の敦賀港に上陸している。その後、9月まで、日本を広く旅行してコンサートを開き、音楽評論家の大田黒元雄(1893~1979)や「音楽の殿様」徳川頼貞(1892~1954)らと交流している。その後、ソ連へ一時帰国しており、パリなどでも活躍したことを考えると、これを「亡命」と呼ぶのが相応しいのか迷うところがある。
 『自伝』には亡命前の様子が次のように記されている。「わたしは十月革命の見通しや意義については、ほんのわずかな考えも持っていなかった。ロシアはしばらくは音楽に用がない。だが、アメリカではわたしは多くのことを学べるし、同時にわたしの音楽に興味をもつひともいるだろうと思った」。さらに出発の2週間ほど前に、ソビエト新政府の最初の教育人民委員会の長で、芸術学者、劇作家でもあったアナトリー・V・ルナチャルスキー(1875~1933)に会って、次のような言葉を交わしている。
 「わたしはかなり忙しく仕事をしています。それで新鮮な空気が吸いたいのです」
 「われわれは今ここに、新鮮な空気を十分持っているとはお考えにならないのですか」
 「いいえ、でもわたしは海や大洋の自然の空気がほしいのです」
 「あなたは音楽の革命家であり、われわれは生活の革命家です。われわれはいっしょに仕事をしなければなりません。だがもしあなたがアメリカへ行きたいとおっしゃるのなら、わたしはあなたの邪魔はしないでしょう」
 結局、プロコフィエフは外国旅行のパスポートに加えて、芸術的任務と健康回復のため海外へ出かけるという趣旨の附属書類を受け取る。滞在期間についてはなんらの指示もなかったようだ。
 先に触れたように、アメリカに着いてからも、バイエルン、パリと渡って活動し、その間、ソ連のバレエ団のために作曲も手掛けている。実際、プロコフィエフが「亡命」した後の1920年代のロシアのコンサートでは、ストラヴィンスキーはもちろん、プロコフィエフの作品も数多く演奏されていた。1933年ごろから『キージェ中尉』(はじめ映画音楽として、翌年には交響組曲Op.60)、『ロメオとジュリエット』(バレエ音楽管弦楽組曲ピアノ独奏用などのバージョンあり。Op.64,Op.101など)を作曲し、1936年には、家族と共に正式にソ連に戻り、モスクワに定住した。この1936年という年は、ショスタコーヴィチ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』が「プラウダ批判」で「音楽の代わりにカオス」と厳しく批判された年である。政治体制や現実の政治が、プロコフィエフの音楽にほとんど影響を与えなかったことは明らかなようだ。 

 フー・ツォンの芸術 — 体制の犠牲者

 作曲家ではなく演奏家の場合、体制との関係はどのように影響したのだろうか。ピアニストで指揮活動も行ったアシュケナージやチェリストのロストロポーヴィチの亡命のケースなどは、それぞれの芸術家に厳しい人生の選択を迫るものであった。同じく一党独裁体制の現代中国の場合、近年、ピアニストやバイオリニストの演奏活動の世界的な展開には目覚ましいものがある。彼らの活躍は、演奏芸術家の「世界市場」における中国資本の進出と無関係ではあるまい。
 現代中国が世界に送り出した若い演奏家ではなく、「文化大革命」の苛酷さから逃れることのできなかった演奏家について触れることにしよう。その中で、異彩を放つのは何と言っても、パリ高等音楽院で教えているシュ・シャオメイ(1949~)ではなかろうか。数年前、彼女の自伝『永遠のピアノ』(大湾宗定他訳、英語版はThe Secret Piano :From Mao’s Labor Camps to Bach’s Goldberg Variations)が日本でも出版されて話題になった。文化大革命期に内モンゴルの再教育収容所に5年間送り込まれ、文革が終わると再び西洋音楽の演奏家として復活を遂げた女性ピアニストのドラマティックな伝記である。わたしは彼女の弾くバッハの『フーガの技法』をよく人に薦めることがある。
 シュ・シャオメイの半生についてはこの自伝に譲るとして、本稿では、わたしがかつて演奏を聴いたことのある同じ上海出身のピアニスト、フー・ツォン(傅聰  Fou Ts’ong 1934~)が亡命した後、「文化大革命」によって彼の両親が遭遇した残酷な悲劇について触れておきたい。

フー・ツォン

 ロマン・ロランの翻訳などで知られた仏文学者を父に持つインテリ家庭に育ったフー・ツォンの半生については、森岡葉『望郷のマズルカ―激動の中国現代史を生きたピアニスト フー・ツォン』に詳しい。フー・ツォンは1955年の第5回ショパン国際ピアノコンク―ルで第3位入賞、「マズルカ賞」にも輝いた。多くの聴衆が東洋のピアニストの演奏に魅了されたことは長く語り草になっていた。
 いまから半世紀ほど前、まだ中国が文化大革命の終息を見る前、わたしはフー・ツォンの演奏を米国で聴いたことがあった(1973.11.11)。大学院生活を送っていた大学の「中国人学生会」(MIT Chinese Student Club)が主催したコンサートだ。前半はモーツァルト「ロンド・イ短調」(K.511)、ベートーヴェン「ピアノ・ソナタ 変イ長調」(Op.110)、ドビュッシー「映像」第2集(3曲)、休憩のあとの後半はオール・ショパンで、バラード、即興曲、スケルツォ、マズルカ、ポロネーズからそれぞれ1曲ずつという構成であった。
 マズルカ・ヘ短調(遺作)はOp.68,No.4と作品番号が付けられた作品であった。ショパンが亡くなった年、1849年に作曲されたとされる。緩やかなテンポで、半音階が多用されたメロディーの「シュール」な曲だ。ポーランドの民族舞曲が、デリカシーと抽象度(想像性)によって美の高みへと飛翔するような、と言えば大袈裟だろうか。アメリカで中国出身のピアニストが、ドイツ・オーストリア、フランスの音楽はもちろん、独特のリズムを持つポーランド人の音楽を見事に弾いたことに、日本人の自分が感動したとき文字通り音楽の「ユニヴァーサリティ」を再確認したことを思い出す。
 コンサートの後、学生会館(Student Center)のラウンジでレセプションがあった。多人数ではなかったが、フー・ツォンとわれわれ学生たちが軽食を取りながら話す機会が与えられた。眼光の鋭い、しかし奥行きのある暖かさを感じさせる人物と言葉を交わせたことは貴重な思い出となった。
 故郷を失った、当時40歳にもならないピアニスト、フー・ツォンの苦悩を少しは推し量ることは出来た。だがそれは第三者の想像であって、実際に彼が経験したことは想像の域を超えるものであったに違いない。そのさまざまな苦難を、先に挙げた森岡葉『望郷のマズルカ』から辿ってみる。
 フー・ツォンはショパン・コンクールの後、ワルシャワ音楽院で学び、卒業した1958年に英国に亡命している。欧州での演奏活動が続く中、バイオリニスト、ユーディ・メニューイン(1916~1999)の娘と結婚する。
 「文化大革命」は彼の家族の絆を切り裂いた。フー・ツォンの両親は、1966年8月30日深夜から3日間、上海音楽院の紅衛兵から徹底した家宅捜索を受ける。「反党」「反革命」の証拠を見つけるために、庭のバラの花は根こそぎ引き抜かれ、床板は引きはがされた。彼らはついに屋根裏部屋から蒋介石肖像画がはめ込まれた小さな鏡と宋美齢の写真の載った古いグラビア雑誌を見つけ出す。両親は三角帽子をかぶせられ、自宅前に引きずり出された。その夜、両親は自ら命を絶つ。死の直前に両親が書いた長い「遺書」には、「…裏切り者フー・ツォンを育てたというだけでも、人民に対して死んでも償いきれない罪なのです!さらに、私たちのような旧社会の残滓は、早々に歴史の舞台から退くべきでしょう!」とあったという。「裏切り者」とは、端的にはフー・ツォンが早くに亡命して外国人女性と結婚して英国籍を取ったことを指すのであろう。この遺書は、文化大革命が始まる前年に香港からの電話で話したのが最後となった息子への、愛とゆるしの言葉だったのかもしれない。
 西洋社会の信仰と伝統の中から花開いたクラシック音楽は、資本主義、帝国主義の走狗たちが嗜む音楽であり、「平等」を国是とする共産主義の理想と相容れる芸術ではない、という単純かつ杜撰な観念連合が文革期の社会と政治を支配した。西洋のクラシック音楽を演奏し教授する音楽家は徹底的に弾圧されたのである。
 「文化大革命」の嵐の中では、語ることすら憚られるような残忍な蛮行が横行し、紅衛兵たちに自己批判を強制され、その後は演奏活動ができないような体にされ、あるいは命を奪われた音楽家の例は少なくなかったようだ。毛沢東(1893~1976)は、戦前の対日抗戦のさ中、中国共産党内部で主観主義・セクト主義・空言主義を克服すべきだとする「整風運動」を呼びかけた。その運動が「大躍進」(1958~1961)で復活し、さらにまた「文化大革命」においても再び繰り返された。国家が、国民のナショナリスティックな感情を刺激し利用しながら、「文化の純化」という大義名分で、西洋的な要素を中国社会から一掃しようとする一種の「集団ヒステリー」状態を生み出した悪夢とも呼びうる運動であった。

毛沢東

国家主導による「文化十字軍的」政策

 中国の「文化大革命」は、極端な形で西洋音楽に携わる者、西洋音楽そのものを排除するためのヒステリックな一大「整風運動」であった。こうした極端は例外的ではあるが、国家が、一国の文化戦略の前面に出るという姿勢は、自由世界に見られないわけではない。文化の領域は国家の専管事項だとして、文化について、程度の差こそあれ、国家があたかも事実上の独占権を持っているかのごとく主導する国は少なくない。その例としてしばしば取り上げられるのがフランスだ。
 コレージュ・ド・フランスの教授で古典学者マルク・フュマロリ(1932~2020)は、こうした「文化国家フランス」の実情と問題点をその著書『文化国家―近代の宗教』(天野恒雄訳)で具体的に論じている。重要な論点が指摘されているので紹介しておこう。
 フュマロリは次のように問う。アンドレ・マルローや元フランス文化大臣ジャック・ラング(1939~)など、「文化十字軍的政策」を打ち出した政治家は、常に「フランスの文化」を繰り返すが、彼らが自慢する作品は、本でもなく、絵画でもなく、芸術上の傑作でもない。単なる、イベントや活動、場と空間の提供に過ぎないのではないか。こうしたイベントや空間では、性急なアマチュアリズムと膨大な浪費が「公共サービス」の美名のもとでまかり通っているのではないかと、舌鋒鋭く問いかける。
 文化国家フランスのイメージは、単に外部からの「影響」に対する防御的な自己規定に過ぎない。それは、ヒトラー・ドイツの時代にはドイツ人に対する、スターリン時代にはソ連への、そして戦後はアメリカの画一主義的なポピュラー・カルチャーに対する対抗意識、防御の姿勢で委縮した精神の現われに過ぎなかったというのだ。
 彼はフランスの「文化国家の起源」を、フランスが自由世界で最初の文化省を設置し、文化十字軍的な計画を推進するために、マルローが文化問題担当国務大臣に任命された1959年に求める。ドゴールが1958年に第5共和政の大統領として政権に復帰してからの10年間、マルローによって進められたフランスの「文化政策」の影響は多方面に及んだ。文化予算と文化関連の行政官の数が増え、ポンピドゥー・センター、ルーブルのピラミッド、グランダルシュ等々、巨大な土木工事のラッシュが続いた。しかしこうした文化的エンジニアリングは、劇場や演出家を生み出したが、モーツァルト、ランボー、ゴッホを生み出したのだろうかとフュマロリは問うている。

ポンピドゥー・センター(Zairon / Wikipedia Commons)

 フュマロリのマルロー批判は確かに厳しすぎる。しかしこうした指摘から学ぶべき点は多い。ザルツブルクの大司教と決裂し、ウィーンに移ってからのモーツァルトには、皇帝や教会というパトロンはいなかった。にもかかわらず、この時期以降の経済的苦境の中で生み出されたモーツァルトの作品群は、以前にも増して一層の輝きを放っている。これは、国家の援助が無くても偉大な芸術作品は生まれ得ることの証でもある。
 国家に保護された芸術が、どれほどの力強さや生命力を持つのか。宗教の国教化の問題がひとつのヒントを与えてくれるかもしれない。キリスト教が国教化された国々と、そうでない国とでは、信仰の「熱さ」は異なっている。英国の国教会やスウェーデンの福音ルーテル派国教会と、国教のない米国のプロテスタント教会を比べるとその違いは明らかだ。どちらが信仰として人々の心の奥深くに生き続けているのか。国教となることによって、宗教間、宗派間の信者獲得のための競争がなくなると、宗教が人間の霊的な生活にとって重要な位置を占めなくなる可能性もある。人々の「生」自体が「国有化」されてしまうからである。それによって、あらゆることに国家が介入する、「国家による社会的自発性の吸収」(オルテガ)が起こるのだ。ショスタコーヴィチがスターリンとの対立を回避しつつ、強靭なる「抵抗の精神」を発揮したのはまさにこの自発性を護りぬくためではなかったか。
 もちろん、こうした問題に向き合うとき、「創作と創造のエネルギー」と「再現の過程で必要とされるもの」とを区別する必要があろう。特に芸術の再現のためには多くの人々の分業と協業が欠かせない。マーラーの芸術を再現するためには、国であれ民間であれ、どれだけ多くの芸術家の参加と協力が必要か。その再現を可能にするためには、やはり、パトロンの存在は不可欠なのだ。
 人間にとって芸術は、内的な精神に関わる営為であり、人間は現実をそのまま無批判に受け入れるだけの存在ではない。美のイデア、「気高いもの、高貴なもの」を自由に希求する存在でもあることに思いを馳せる必要がある。そうした芸術への渇望を癒すためにも、伝統としての芸術、将来への希望を生み出すための芸術の根を枯らしてはならないのだ。この点については、次の最終章で考えてみたい。

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何かについて考え、それが「わかる」とはどういうことでしょうか。

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*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

猪木武徳

いのきたけのり 1945年、滋賀県生まれ。経済学者。大阪大学名誉教授。元日本経済学会会長。京都大学経済学部卒業、マサチューセッツ工科大学大学院修了。大阪大学経済学部教授、国際日本文化研究センター所長、青山学院大学特任教授等を歴任。主な著書に、『経済思想』『自由と秩序』『戦後世界経済史』『経済学に何ができるか』『自由の思想史』など。

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