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名ぜりふで読み解く日本史

2020年10月29日 名ぜりふで読み解く日本史

第3回 「関ヶ原敗死」も想定した家康の危機管理

徳川家康「万一負け候はば、弔い合戦すべしと人数を揃え上って能く候はん」(『慶長年中卜斎記』)

著者: 呉座勇一

徳川家康像(狩野探幽画、大阪城天守閣蔵)

「秀忠遅参」の真相

 天下分け目の関ヶ原合戦に、徳川家康の嫡男である秀忠(のちの江戸幕府2代将軍)が参加できなかったことは有名である。歴史小説や歴史ドラマでは、未熟な秀忠が老獪な真田昌幸の策謀に翻弄され、(いたずら)に時間を浪費した様が好んで描かれてきた。
 しかし、以上のような秀忠像・昌幸像は、江戸時代の軍記物によって誇張されたものである。現実には秀忠の遅参は、昌幸の策略だけでは説明できない。
 そもそも秀忠は、急いで京都方面に西進することを命じられていなかった。慶長5年(1600)8月24日、秀忠は3万の大軍を率いて宇都宮を出発して中山道を進んだ。この前後、秀忠は東軍の諸将と連絡をとっているが、秀忠は一貫して「信州真田表の仕置を終えた後、上洛する」と語っている。西軍についたと思しき信州上田城の真田昌幸を降参させた上で京都に向かうのが秀忠の方針だったのである。当然これは、家康からの指示に基づく作戦だろう。秀忠軍の急速な西上は当初予定されていなかった。
 この時点で家康はまだ江戸におり、長期戦を覚悟していたと思われる。家康が江戸を離れれば会津の上杉景勝が関東に侵攻してくるかもしれない。何より、福島正則ら豊臣恩顧の大名の去就が気がかりだった。彼らは石田三成憎しで家康についたとされるが、三成ら西軍は大坂城を占拠し豊臣秀頼を確保したため、形式的には西軍が豊臣軍で東軍は反乱軍である。正則らが豊臣家への反逆者になるのを恐れて、西軍に寝返るかもしれない。ゆえに家康は軽々に動けなかった。
 ところが8月23日、福島正則ら東軍諸将が、西軍の重要拠点である岐阜城を攻略した。この報が江戸に届いたのは27日のことである。正則らを信頼できることが分かった家康は、即座に出馬を決意する。
 正則らの真意を疑っていた家康だったが、彼らの戦意が旺盛であることを知ると、別の問題が持ち上がった。このまま正則らが進撃して西軍に大勝利した場合、徳川軍抜きで天下分け目の戦いの決着がついてしまう。それでは家康が天下を取ることはできない。
 そこで8月晦日、家康は秀忠に使者を送って自身の出馬を伝え、信州平定作戦を中止し、急ぎ三成らが楯籠もる美濃大垣城(現在の岐阜県大垣市郭町)に向かうよう指示した。家康は9月1日に江戸を出陣した。
 ところが家康の使者は、長雨で増水した川を渡ることができず、秀忠の陣への到着が遅れた。9月7日、秀忠は岐阜城攻略戦に参加した徳川家重臣の井伊直政・本多忠勝に書状を書いているが、依然として「真田仕置後に上方に進む」と伝えている。まだ家康の使者が到着していないので、「真田制圧」という当初の指示に従って動いていたのである。
 ようやく家康の使者が到着したのは9月9日である。家康が1週間以上前に江戸を発っていたことを知った秀忠はあわてて西に向かった。けれども大雨で道がぬかるみ、大軍での移動は困難を極めた。
 家康は14日に大垣城近くの赤坂(大垣市赤坂町)に着陣した。秀忠の到着を待つことなく開戦を決断した。翌15日未明に進軍し、明け方には関ヶ原に到着した。合戦はわずか1日で東軍の圧勝に終わった。秀忠が赤坂に到着したのは、関ヶ原合戦4日後の9月19日夜であった。

『藩翰譜』は作り話?

 秀忠を待たないという家康の判断は結果的に正解だった。関ヶ原合戦の当日、毛利元康・小早川秀包(ひでかね)・立花宗茂ら1万5000の西軍が大津城を攻略した。家康が開戦を遅らせていたら、秀忠より先にこの西軍が大垣方面に到着し、戦況はどうなっていたか分からない。
 儒学者の新井白石が編纂した『藩翰譜』によると、秀忠の遅参に家康は激怒したという。上洛の途上にあった家康軍と合流した秀忠は家康に会いに行ったが、家康は面会を拒絶した。そこで秀忠に付き従っていた徳川家重臣の榊原康政が密かに家康を訪ね、秀忠を擁護した。
 康政は言う。家康・秀忠父子揃って戦う計画だったのなら、最初からそう伝えてほしい。どうして秀忠軍を待たずに、急いで開戦したのか、と。これに対して家康は「使者を送って江戸出陣を連絡したはずだ」と反論した。
 だが康政は使者の到着が遅れたことを指摘する。遅参は不可抗力であり、秀忠の責任ではないと主張した。そして「中納言殿(秀忠)は既に壮年のご子息、やがては天下人になられるお方です。それなのに父親に武士失格と思われていると世間の人々に侮られるようでは、子が恥辱を受けるだけでなく、そのような不肖の子を持つ親も嘲られましょう。これ程ご配慮のないことがございましょうか」と涙を流して訴えた。この諫言に反省した家康は秀忠と対面して和解したという。
 しかし、この逸話が事実かどうか疑わしい。『藩翰譜』が成立したのは元禄15年(1702)、関ヶ原合戦から1世紀を経ている。前述の逸話には続きがあり、徳川秀忠が康政に感謝し「康政の忠義は子々孫々忘れない」という直筆の書き付けを与えたとか、関ヶ原合戦に参加した井伊直政・本多忠勝が「御父子を和解させた康政の功績に勝るものはない」と賞賛したとか、いかにも作り話めいた展開になっている。康政を顕彰するために後世に作られた逸話であろう。

家康が秀忠を叱責した理由

 徳川家康に近侍した医者である板坂卜斎(2代目)が記した回顧録に『慶長年中卜斎記』がある。卜斎は関ヶ原合戦時も家康の側におり、関ヶ原合戦に関する一級史料として知られる。この史料によれば、家康は確かに秀忠を叱責しているが、理由は関ヶ原合戦に遅れたことではない。
 家康は次のように語ったという。「今度は合戦に勝ったから良かったが、万一負けていたら、秀忠はどうするつもりだったのか。弔い合戦をしようと軍勢を揃えて西上するのなら良いが、道を急ぐあまり、軍勢をばらばらにして上ってくるとは何と愚かな」と。
 秀忠は大軍を率いたままでは合戦に間に合わないと考え、手勢のみを連れて急行したのである。これが家康の不興を買った。ちなみに『卜斎記』によれば、家康が怒っていると聞いた榊原康政は、家康に会わずに伏見に向かったという。先ほどの逸話とは正反対である。
 歴史学者の笠谷和比古氏は「家康の東軍が関ヶ原で勝利したからよいものの、もし敗北でもしていたら、秀忠とその供回りの者たちは、西軍兵士たちによる掃討作戦や、土民たちによる落ち武者狩りの網にかかって命を落としてしまいかねない危険が大であった」と指摘している(『関ヶ原合戦と大坂の陣』吉川弘文館)。
 関ヶ原で家康が敗死しても、秀忠とその軍隊が健在であれば、徳川家に再起の可能性は残る。だが家康・秀忠親子が共に死ねば、徳川家はおしまいである。その点に思い至らず、軽率に先を急いだ秀忠に家康は失望したのである。
 それにしても、自分の戦死をも想定する家康の周到さはさすがである。徳川家の精鋭部隊を秀忠に預けておいたのも、危機管理の一環だったのだろう。
 あるいは家康の脳裏に本能寺の変がよぎったのかもしれない。織田信長が明智光秀に滅ぼされた日、信長の嫡男である信忠も僅かな供回りのみを従えて京都に滞在していた。信忠も明智勢に討たれた結果、織田家は衰退し、豊臣秀吉に天下を奪われた。
 もっとも、自分が死んでも子孫が生き延び、家が残るのであれば良い、という価値観は中世武士に共通するものである。

※本連載は、2019年に共同通信社で配信された同タイトルの連載とは別に、著者が新たに当サイトに書き下ろしたものです。

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「考える人」編集長
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著者プロフィール

呉座勇一

ござ・ゆういち 1980年、東京都生まれ。歴史学者。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。専攻は日本中世史。現在、国際日本文化研究センター助教。『戦争の日本中世史』(新潮選書)で角川財団学芸賞受賞。主な著書に、『応仁の乱』(中公新書)、『一揆の原理』(ちくま学芸文庫)、『日本中世の領主一揆』(思文閣出版)、『陰謀の日本中世史』(角川新書)、『日本中世への招待』(朝日新書)など。

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