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名ぜりふで読み解く日本史

2020年11月26日 名ぜりふで読み解く日本史

第4回 敗軍の将・三成が見せた「大将の気概」

石田三成「大将をする者は命を全うして、後日の合戦を心に掛る也」(『慶長軍記』)

著者: 呉座勇一

石田三成像(個人蔵・青森県杉山寿之進氏)

『慶長軍記』の意外な好評価

 石田三成。関ヶ原合戦で西軍の中心人物として、徳川家康ら東軍と戦い敗れた人物である。ゆえに江戸時代には、三成は豊臣秀吉の威を借る君側の奸であり、秀吉死後は私利私欲のために家康の追い落としを画策した悪人として非難されてきた。
 こうした佞臣(ねいしん)三成像を塗り替えたのは、司馬遼太郎の歴史小説『関ヶ原』だと一般に考えられている。本作の石田三成は、官僚的で融通がきかず人望に乏しいものの、清廉潔白で信義を重んじる豊臣家の忠臣として描かれている。三成イメージを転換する上で司馬の果たした役割は大きい。
 しかしながら江戸時代においても、石田三成に対する評価は全否定ではなかった。軍記物・逸話集の中には三成に好意的なエピソードも少なくない。確かに江戸時代の諸書は、徳川家康に対して無謀な戦を仕掛け、諸将の夜襲提案などの献策を無視して正攻法にこだわった末に無惨に敗れた愚将として三成を描いている。だが関ヶ原敗戦後の三成に対する眼差しは、意外に温かい。
 関ヶ原合戦の発端となった石田三成と徳川家康の対立から合戦後の処刑までの全過程を詳細に記した最も古い軍記物として、近年注目を浴びているのが、植木悦が著した軍記物『慶長軍記』である(1663年に成立)。本書によれば、関ヶ原合戦に敗れた三成は、母の実家がある近江国古橋村(現在の滋賀県長浜市木之本町古橋)に逃れ、与次郎という男に匿われたという。
 けれども東軍の捜索が近辺にまで及び、もはや逃れられないと観念した石田三成は、自分を差し出すよう与次郎を説得する。自分を匿ったと発覚したら、与次郎のみならず親類縁者にも累が及ぶからである。このように『慶長軍記』は三成を、百姓の身を案ずる優しい人物、死を恐れない勇ましい人物として造形している。
 与次郎は泣く泣く東軍の田中吉政に石田三成の居場所を教えた。田中吉政は三成の故郷である坂田郡石田村(長浜市石田町)近くの村の出身で土地勘があるため、徳川家康に三成捜索を命じられていた。吉政は家臣を派遣して三成を捕縛した。
 捕らえられた石田三成は大坂に護送された。福島正則・池田輝政・浅野幸長・細川忠興・藤堂高虎ら東軍諸将は、「利口で知られた三成が何とみっともない。縄目の恥辱を受けるよりは関ヶ原で潔く戦死すべきだった」と嘲笑った。
 これに対し、石田三成は堂々と反論する。「おのおの方の言い分にも一理ある。しかし、すぐに死ぬことを考えるのは、匹夫の勇(血気にはやるだけのつまらない勇気)である。大将たる者は命を軽々しく捨てず、後日の戦いで勝つことを期するのである。織田信長公は、どんなことをしてでも難を逃れたが、最後には勝つと心に刻んでいたからこそ、天下を取ることができたのだ。私にとって、すぐに死ぬよりも、生き延びることの方がよほど苦しかった。決して臆病ではない。もう一度大坂城に入り、毛利輝元と話し合い、もう一戦しようと思っていたが、内府(家康)の運が強く捕まってしまったのは仕方のないことだ。おのおの方は戦を知らぬ」と。諸将は押し黙ってしまった。
 福島正則は「治部少(三成)の言うことは、もっともだ。武将として生まれたからには、治部少のように立派に死にたいものだ。捕らえられたのは少しも恥ではない」と語ったという。

黒田長政の「美談」は本当か

 あれ、と疑問に思った人は、なかなかの戦国時代通である。この場面では、福島正則が石田三成を罵倒し続けるイメージを持っているのではないだろうか。一方、黒田長政は「勝敗は時の運」と慰撫し、自分が着ていた羽織をかけてやった、と思っているのではないか。実際、司馬遼太郎の『関ヶ原』は、そのように叙述している。
 福島正則が罵り、黒田長政が慰めるという話を、司馬遼太郎は逸話集『常山紀談』(1739年成立、1770年完成)から採ったと思われる。けれども敗軍の将である石田三成に対して黒田長政が礼を尽くしたという話の元々の出典は、『黒田家譜』(1688年成立)だろう。『黒田家譜』は、儒学者の貝原益軒が編纂した福岡藩黒田家の歴史書である。同書に記された逸話の内容を以下に紹介しよう。
 捕縛された石田三成は、諸大名が大坂城に登城する途中の道にさらされた。諸大名は三成を無視して通り過ぎたが、長政だけは三成の側に寄って、声をかけた。「今度の戦でこのようなことになり、さぞ無念に思っていることだろう。しかし勝敗は時の運であり、恥辱ではない」と。三成は「敗残の身になり、哀れをかけてくれる人もいないので、貴殿の情けが胸にしみる」と述べて感涙したという。明らかに福岡藩の藩祖である長政を顕彰するための創作であり、歴史的事実とはみなしがたい。『慶長軍記』の記事を脚色したのかもしれない。
 もちろん、だからといって、『慶長軍記』の記事が史実であると断定することはできない。そもそも石田三成の逃避行や捕縛、処刑の真相を伝えた同時代の史料は存在しない。江戸時代の軍記物・逸話集や、地元の伝承しか残っていないのである。『黒田家譜』はウソだが『慶長軍記』はマコトとは必ずしも言えず、両方とも創作かもしれない。

福島正則との「不仲説」の真相

 それはともかく『慶長軍記』が、福島正則が石田三成を褒める様を描いているのは、興味深い。三成と正則は犬猿の仲というイメージが強いけれど、実のところ両者の直接的な確執は、同時代史料からは確認できない。
 関ヶ原合戦の前年に豊臣恩顧の七武将が石田三成を討とうとした、いわゆる七将襲撃事件の遠因は、慶長の役において三成の義弟で軍監の福原長堯が現地の諸将を弾劾したことにある。この弾劾によって処罰されたのは蜂須賀家政・黒田長政・藤堂高虎・加藤清正らであるが、福島正則は慶長の役には参戦していないので、この事件と関係ない。
 関ヶ原合戦の前月の8月5日、石田三成は同じ西軍の真田昌幸・信幸・信繁に書状を送っているが(信幸は東軍についたが、三成はまだ知らなかった)、そこには「(尾張清須城主の)福島正則を説得中です。もし成功すれば三河まで進出します。失敗したら伊勢方面の軍勢と合流して清須城を攻めます」と書かれている(「真田家文書」)。三成は正則を西軍に寝返らせることができるかもしれない、と考えていたのであり、両者の関係はそこまで険悪ではなかったのかもしれない。

大将としての気概

 閑話休題。時代が下るにつれて、石田三成に肯定的な逸話は増えていった。処刑直前、三成が白湯を所望したところ、白湯がないので干し柿を勧められたが、「痰の毒」であると断った話は特に有名だろう(『茗話記』『明良洪範』)。これまた、大志を抱く者は人生の最後まで命を大事にすべしという信念を持った三成を賞賛する逸話である。
 前掲の『常山紀談』では、徳川家康の側近である本多正純が「なぜ自害しなかったのか」とやはり尋ねるが、石田三成は「貴様は武略を知らない。敵の手にかからないように腹を切るのは葉武者(雑兵)のやることよ。源頼朝公も石橋山の戦いで敗れた時には山中に逃れたではないか。大将の道は貴様ごときには分かるまい」と返したという。同書の三成は、小早川秀秋を見るや口を極めて罵るなど、事破れてなお意気軒昂である。
 江戸時代の人は、石田三成が逃げたのは、命が惜しかったからではなく再起を図るためだった、と考えていたのである。そして現実にそうだったのではないか、と私は思うのである。

※関ヶ原合戦の前月に石田三成が真田昌幸・信幸・信繁に書状を送ったという記述箇所に「(信幸は東軍についたが、三成はまだ知らなかった)」との説明を加えた(2020.12.25追記)。

※本連載は、2019年に共同通信社で配信された同タイトルの連載とは別に、著者が新たに当サイトに書き下ろしたものです。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
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「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

呉座勇一

ござ・ゆういち 1980年、東京都生まれ。歴史学者。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。専攻は日本中世史。現在、国際日本文化研究センター助教。『戦争の日本中世史』(新潮選書)で角川財団学芸賞受賞。主な著書に、『応仁の乱』(中公新書)、『一揆の原理』(ちくま学芸文庫)、『日本中世の領主一揆』(思文閣出版)、『陰謀の日本中世史』(角川新書)、『日本中世への招待』(朝日新書)など。

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