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ふしぎな中国語――日本語からその謎を解く

時制が存在しないなんて

 私は子供のころから時間が流れていくことが怖い。時間が流れて、やがて死ぬのが怖い。

 中国では昔から不老不死の思想があって、物語の中では仙人が楽しそうに人間界にちょっかいを出しに来る。

 ただ、死ななかったら死なないでそれも怖いような気がする。子供のころに見たドラゴンボールの映画だったと思うが、悪役が永遠の命を手に入れるものの、主人公たちによって異空間に封じ込まれ、「今頃、永遠の命を手に入れたことを後悔しているだろう」というセリフで終わった話があったように記憶している。

 それは死ぬより辛そうだ。主人公、極悪非道である。

 大学生になっても、時間が流れていくことが怖かったので、哲学の時間論を勉強したりしたが、やっぱり怖かった。時間を逆流させる小説を夢想したりもしたが、やっぱり怖かった。いまでもまだ怖くて、眠れなくなることがたびたびある。

 失われていく時の流れを見事に表現した短編小説に中国出身のノーベル賞作家・高行健の「おじいさんに買った釣り竿」というのがある。この小説の文体について、高行健は「時制のない中国語の特徴を利用した」と述べており、確かに外国語への翻訳を拒絶する「言葉の流れ」になっている。

 中国語には「時制」という文法カテゴリーがない。と、このように書くと、「いや、ある」と反論する人がいるが、それは時間を表す方法がある、と言っているだけであって、英文法などで言うところの「時制」は少なくとも表面上はない。

 中国語を勉強し始めたころは、「過去形が存在しないなんて、それで大丈夫なのか?」と思った。だが、それは英語しか勉強したことがなかったからだ。中国語を使用した実感は、「「時制」は別にいらない」である。

助詞“”の使い方

 「時制」とは、発話時点からみて、過去である、未来であるかなどを表す文法カテゴリーである。今からみて、過去の話かどうか、すべての文において表示する必要はぜんぜんない。というのも、特に会話の場合、話しているその場面が「いま、ここ」であり、「いま」と関連する話が圧倒的に多いのである。そうではない過去のことを話す場合、その場面からは切り離されているわけだから、いつのことか普通は言及する。よって、時制というのは、必ずしも文法的に常に表さなくてもいいのである。それに、話題が昨日の話であれば、その話に使われる文は基本過去なわけで、その文すべてに過去形を用いる必要性は必ずしもない。

 実際、中国語を使っていても不便を感じることはない。

 過去形はないが、中国語には「完了」を表す助詞の“”がある。

 “”をいつどのように使うのかは、とても難しい。私もいまだによくわからないことが多い。今回からはこの“”の秘密を考えていこう。

  “”は、「アスペクト助詞」と呼ばれている。「アスペクト」とは、動作の段階がどこにあるかを表す手段だ。基本的な対立は「完了」か「未完了」かである。例えば、「その時、彼は走っていた」とすると、過去の話をしているので、時制としては過去だが、その時点において走る動作を彼は継続していたわけで、終わっていない。ということは、動作の段階は「未完了」になる。逆に、「ご飯を食べたら、学校に行く」の「ご飯を食べたら」は、これからする話なので、時制としては非過去だが、動作の段階としては「完了」していることを表している(ちなみに、日本語の「た」は時制も表すし、アスペクトも表す。古典では「つ、ぬ、たり、り、き、けり」と完了や過去を表す言い方が多数あったが、現代語ではそれがすべて「た」で表されるようになったためである)。

「大谷、走った」は何が完了したのか

 さて、では野球の実況で「(一塁走者の)大谷、走った」といったとする。動作の段階はどこにあるだろうか。この場合の「走った」はスタートを切ったことを表しており、たぶん大谷はまだ二塁に向かって走っている途中である。

 一口に「完了」といっても、このような例のように、「動作のスタート段階に達する」こともあるし、「動作が終わる段階」に達することもある。

 中国語の“”も同様で、何かが始まったことを表す(スタートの段階に到達)こともできる。例えば、

 红了脸说。(顔を赤らめて話した。)

  “红了脸”は、「顔を赤らめて」を表しているが、この場合、「赤くなる」変化をした後、その状態が継続していることを表している。つまり、赤い状態は終結点を迎えていない。同様に、“病了(病気になった)”を考えてみよう。これだけでは、病気になって治ったかどうかはわからない。病気になってそのままかもしれないし、治ったかもしれない。つまり、「病気になる」の開始点に到達することを表しているのであり、終結は表していない。

 もちろん、大半の“”は終結点まで達したことを表す。“我买了很多衣服”であれば、「私はたくさんの服を買った」であり、「買う」動作は最後まで終わったことを表している。このように、“”は、動作の開始点に到達することを表す用法(開始限界達成)と、終結点に到達することを表す用法(終了限界達成)のどちらも表すことが可能なのである。

 次の二つを比較してみよう。(例文は木村(1997)、劉綺紋(2006))

 他洗了澡就睡觉了。(彼は風呂に入ってから寝た。)

 我洗了澡才发现浴缸里没有热水。(入浴してから、浴槽にお湯がないのに初めて気づいた。)

 前者は、「風呂に入る」行為は終結している。風呂の中で寝てしまったことは表さない。つまり、動作の終結するポイントまで到達したこと(終了限界達成)を表している。一方、後者は、入浴をスタートしたところで浴槽にお湯がないのに気づいたことを表せるという。この場合には、開始限界達成である。

 何かの発生、もしくは終結の段階に到達することを表現するということは、現実世界で何らかの変化があったことを述べることである。 人間は流れてゆく時間を自らの認識で区切り、段階に分け、そこへの到達と変化を言うのである。


参考文献

・木村英樹「動詞接尾辞“了”の意味と表現機能」『大河内康憲教授退官記念 中国語学論文集』東方書店 (1997)

・劉綺紋『中国語のアスペクトとモダリティ』大阪大学出版会 (2006)

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

橋本陽介

1982年埼玉県生まれ。お茶の水女子大学基幹研究院助教。慶應義塾志木高等学校卒業、慶應義塾大学大学院文学研究科中国文学専攻博士課程単位取得。博士(文学)。専門は中国語を中心とした文体論、テクスト言語学。著書に、『日本語の謎を解く―最新言語学Q&A―』(新潮選書)、『中国語実況講義』(東方書店)、『「文」とは何か 愉しい日本語文法のはなし』(光文社新書)、『中国語における「流水文」の研究 「一つの文」とは何か』(東方書店)など。


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