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デモクラシーと芸術

2020年12月23日 デモクラシーと芸術

最終回 「調性を失った音楽」が意味するもの――デモクラシーと芸術の運命

著者: 猪木武徳

想像力と「不一致」の自由

 アメリカ独立戦争とフランス革命に歩調を合わせるかのように進行する工業化の大波は、19世紀に入ると貴族制からデモクラシーへの転換をもたらし、西欧の多くの国々の社会風土を大きく変え始める。工業化の先陣を切った英国、オランダ、少し遅れてフランス、次いでドイツ、そしてその後を追った国々では、民主化への覚醒とともにナショナリズムが台頭する。音楽の世界でも東欧やロシアでナショナリズムの運動(「五人組」や「国民楽派」など)が顕著になったことはすでに見た通りである。リベラリズムとナショナリズムが結びついた「平等への情熱」は、芸術としての音楽の世界でも勢いを得はじめる。デモクラシーという政治形態は平等と自由に最大の価値を置くゆえ、平等への情熱だけでなく、自由の精神がどのように芸術にあらわれるのかを考えておかねばならない。
 芸術の美は、厳格な規則のもとで自由に生み出された想像力の所産だと述べた。言い換えれば、規則(ルール、法)に縛られることによって、自由な精神が生み出しえた美であるということになる。これは制約があってはじめて、自由が気儘や放縦と区別されるという古典的自由主義の根本部分とも相通ずる思想だ。
 では具体的に制作における自由とはどのようなものなのだろうか。この点について「芸術と模倣の関係」という視点から、絵画や彫刻についてアダム・スミスが指摘している点は参考になる。スミスは、模倣が芸術的な感動を高めうるか否かのポイントは、模倣するものと模倣されるものとの間に完全な「一致」ではなく、むしろ不一致(disparity)が存在しているところにあると言う。そして絵画と彫刻を例としつつ次のように論じる(「いわゆる模倣芸術においておこなわれる模倣の本性について」)。
 絵画の場合、三次元の実物世界を二次平面に移す作業であるから、彫刻の場合よりも、この不一致の発揮される自由度は大きい。つまり芸術的な表現の幅や技量の入り込む余地が大きい。だからこそ、絵画では日常の風景(たとえばJ.-B. S.シャルダン〔1699-1779〕が描いた台所の食器や食材)が描かれ、それが芸術美を発揮する。彫刻の世界では食器や食材が対象として取り上げられることはほとんどない。どこにでもある日用品を彫った作品を見ることはない。

ジャン-バティスト・シメオン・シャルダン作「銀のゴブレットとりんご」(1768年頃、ルーヴル美術館蔵)

 絵画や彫刻は基本的には模倣の芸術とされてきた。スミスはこれら二つの芸術から得られる快楽は、「一種類の対象が他の非常に異なった種類の対象を表現するのを見た際の驚嘆(wonder)に基づくのであり、さらに、自然がそれらの間に確立した不一致(disparity)を見事に克服する技術(art)へのわれわれの称賛に基づく」としている。つまり模倣そのものに価値をおくのではなく、現実と作品との不一致を通して、知的に工夫しながら実在するものを表現する技術的力量が、作品としての価値を決めると考える。言い換えれば現実と作品の距離と不一致が生み出す実在への知的想像力こそが、芸術的な感銘をもたらすとスミスは指摘するのだ。 

社会主義リアリズムは不一致を許容しない

 スミスの考察は、あたかも20世紀の「社会主義リアリズム」の芸術としての限界を予言しているかのようだ。スミスは絵画の美は、対象そのものをただ忠実に模写したものではなく、対象を三次元から二次元へ自由に「写像(mapping)」する場合に発揮しうる不一致(disparity)の中に存在すると見ているからだ。
 この不一致は、画家の知的な創意工夫によって生まれる。個々の画家の創作意識が、美につながると考えるのは、スミスの時代の思想の自由、経済的自由の秩序感覚と重なるところがある。それはスミスが『道徳感情論』で、「社会の美しい秩序」について次のように述べていることからも推量できる。「チェスボードの上で駒を動かすように容易に、巨大な社会の多数のメンバーを動かす」体制は、ひとつの「秩序」をめざしたシステムかもしれないが、すべての駒が持っているそれ自身の運動原理を無視することを意味する。したがってこの個人の運動原理と駒を動かそうとする為政者の意図が完全に一致すれば、社会は美しい秩序につつまれるかもしれないが、もし異なった原理であれば社会は極度の混乱(disorder)に陥る。
 「秩序」の美しさは、多様なもの、完全には一致していないものをひとつの全体に統合することにあるとスミスは見ていた。彼にとっての美の感覚は、強制的な写実やそのままの模倣ではなく、むしろ自由な工夫から生まれる不一致を芸術美の根拠と見る絵画論と相似の関係にあると言えよう。
 こうしたスミスの美の考察は、古典的自由主義が考える経済秩序と深くかかわっている。一般に経済社会の秩序には二つの種類がある。ひとつは試行錯誤を通して自生的に生まれる秩序(spontaneous order, grown order)、もうひとつは意図的な指示や強制によって生み出される秩序(forced order, made order)である。この二つのいずれを選択するのかは政治体制・経済体制の選択となる。スミスが、一致ではなく、むしろ不一致(disparity)が美をもたらすと考えた時、自生的秩序を念頭に置いていたことは言うまでもない。
 総合の美や全体の秩序というものが、強制によって生まれるのか、それとも個々の不一致を許しつつ自律的かつ自発的な活動によって形成されて行くのか。どちらにより高い価値を見いだすのか。写実と言う「現実の模倣」に、すべての人民が理解できる美を求める社会主義リアリズムは「強制された模倣」に相当すると考えると、自由な「不一致」が生み出す全体の秩序を重視するスミスが、そうしたリアリズムに美的価値を認めなかったことは明らかであろう。
  この点は、先に例として挙げた、東京クヮルテットや長岡京室内アンサンブルの演奏について「自律性をベースにした調和への試み」と表現したことに重なり合うところがある。

感覚と想像力

 重要なのは、スミスのいう「不一致」は想像力から生まれ、「不一致」は想像力を刺激するという関係だ。想像力は芸術的創造においても芸術鑑賞においても中核的な役割を果たす。裸のままの感覚に訴えるだけでは芸術とはなりえない。芸術作品に接する者の想像力を、知性のフィルターを通しつつ刺激する力がないと、芸術鑑賞はセイレーンの歌のような魔的な(demonic)力に酔うだけに終わってしまう。
 この点は、自由主義思想家の長谷川如是閑(1875-1969)が、感覚と想像力について論じたことと関連する。彼はロンドンで観た絵画で、アレゴリー(寓意画)を除けば裸体画を描いたものはほとんどないと言う。テート・ギャラリーに行ってその事実を確認する。ヴィクトリア朝の画家G・ワッツ(1817-1904)もアレゴリーのテーマとして裸体を描いているが、「その裸体たるや全く実感挑発傾向を脱して、かえって実感抑圧的の空恐ろしい裸体ばかりだ」と言う。こうした傾向は、パリのサロンが毎年「裸体の為の裸体」という純自然主義の仮面の下に「実感挑発的」な絵画を軒並み陳列しているのとは大きな違いだと指摘する(長谷川如是閑『倫敦! 倫敦?』)。

ジョージ・フレデリック・ワッツ作「パリスの審判」

 ジャーナリスト・如是閑はまた、新聞の「挑発度」の違いにも注目している。デモクラシー国家で、新聞が次第に挑発的傾向を示すようになってきたのは世界的な現象であった。しかしロンドンの新聞はこの傾向が比較的弱いと彼は言う。米国の新聞は大事件が起こると「大々的刺激を与うるべく紙面を突飛な体裁に作る」。見出しに大きな活字を用いるのは、特殊な新聞のすることで、普通はやらない。品格のある新聞は、あくまでも内容に全力を注ぎ、仰々しい体裁は取らないという。
 長谷川如是閑の裸体画論は、英国の習俗について何を示唆しているのだろうか。人間の感覚を過度に刺激する(彼の言う「実感挑発的」な)ものを、社会的環境の選択肢の中から自律的に排除しようとする「秩序」への強い嗜好と想像力の重視を示していると考えられる。
 この指摘は、ラファエロが人体の描写に関して厳密性に重きをおいていなかったと、トクヴィルが述べた点と無関係ではない。ラファエロは自然を超えるつもりでいたからこそ、人間を人間以上の何かに描こうと欲したのではないか。それは「実感挑発的」な描写、完全な模倣という意味での「リアリズム」ではなく、美の「イデア」の探究を促す描写であったとは言えないだろうか。

美を感じる力としての想像力

 貴族制社会の裸体画の美的価値は、画家の解剖学的な知識によって高められていたわけではない。鑑賞者は、その絵に示された「美しさ」の向こう側にあるイデアとしての「美」を想像すると考えられていた。トクヴィルは、デモクラシーにおいては、美のイデアは後退し、芸術は魂を描くことを避け、肉体の描写に専念するようになったと指摘した。感情と思想の表現を、運動と感覚の表現におきかえ、ついには「理想」をおくべきところに「現実」をおくようになったと述べている。
 長谷川如是閑は、英国の絵画が直接的で挑発的な写実に主眼を置いていないことを指摘し、当時の英国の絵画が、まだ運動と感覚の表現の芸術ではなく、感情と思想の芸術であったことを意味すると考えた。如是閑の観察も、英国のリベラリズムの伝統と重なるところがある。美しいと感ずる具象物の向こう側にある「なにか」を想像する力に価値を置いているからだ。

長谷川如是閑

 しかしデモクラシーはそうした想像力を奪い去る凶暴な力を持ってはいないだろうか。デモクラシーは、物質主義と個人主義(あるいはその堕落した形態としての「利己主義」)に陥らないための補完的な装置がうまく機能すれば、自由と平等を享受しうる政治形態としての価値は大きい。そのためには、地方自治や中間団体の果たす役割は不可欠であるが、「いま、わたし」に関心を集中させがちなデモクラシーにとって、最終的に重要な柱となるのは公共精神だ。その公共精神は、「未来と他者」への想像力を必要とする。それは宗教的感情と同じではないにしても、きわめて近い感情だ。宗教的根拠のない道徳は不確かであり、道徳的なベースを持たない自由は、時に人間社会を脅かす全体主義やポピュリズムを生み出す。
 芸術がわれわれの生活にとって、その精神的な渇きを癒す力を持ち続けるために、そして人々が個人主義の堕落した形の利己主義に退化しないためにも、「いま、わたし」への関心だけでなく、「未来と他者」についての想像力の根を絶やしてはならない。その根を護ることによってはじめて、デモクラシーは全体主義や悪しきポピュリズムへと堕する道を避けることができるのではないか。

多数の専制から自由になるには

 デモクラシーの「一人一票」という平等原則と「多数者の支配」の機械的な適用は、「美の評価」にどのような問題をもたらすであろうか。平等主義の行き過ぎは、ここでも芸術にとっての危険要素をはらんでいる。絵画の教育において、批判し序列をつけることを避ける傾向はそのひとつだ。「それぞれに個性があって、どれも良い」という平等主義の風土が教育の場でも支配的となってはいないか。作文教育においても同様だ。「感じたことをそのまま書くのが大事だ」と直接的な感覚や感情を直に描写することを良しとする姿勢はあたりさわりがないかもしれない。しかしそこには長い時間を必要とする技術的訓練という側面が欠落している。絵を描くにも、文章を書くにもルールがある。それを学ぶためには、多くの時間をかけて沢山の優れた絵画を観、沢山の良い文章を読むという技術的訓練が必要となる。そうした訓練の過程で習得された技術についての規則を守ることによって、はじめて制約の中から生まれる美しさ、不一致を表現する技量が生まれ、鑑賞する者にとっても感覚を越えた知的喜びが生まれる。
 「自由と平等」と個の尊重は、リベラル・デモクラシーの中核的な位置を占める理念ではある。しかし現実にはその「個」がすべて美への関心と理解力を備えているわけではない。したがって芸術の面白さや厳しさを伝えるためには、一定の「専門性」を有した人々が必要になる。そのひとつの例は、先に紹介したシューマンの「ダヴィッド同盟」のようなペリシテ人(俗物)と闘う同志的集団であろう。
 デモクラシーと市場経済の社会の中で、音楽のフェアな評価を行う批評家集団や同志的結合は存在しうるのだろうか。音楽批評家、あるいは音楽産業界でコンサートを含め製品としての音楽を世に送り届けるマネージメント・レコード会社は確かに存在する(例えばAskonas Holt、Intermusica、Harrison Parrottなど)。しかしこうした専門家や職業集団は、報酬や市場競争を意識すれば「多数」へと照準を合わせたくなっても不思議ではない。本来は芸術の中に隠された多くの知的な創意と工夫を指し示すべき批評家やマネージメント・レコード会社は、概して経済効果やその背後の人間関係ゆえに、必ずしもわれわれに親切かつ有益な智恵と情報を十分提供してくれていないかもしれない。
 専門家たちや批評家、あるいはマネージメント会社が趣味の良い選択を示すことによって、われわれは新しい美しさを知り、自分の感性をさらに磨くことができるはずだ。さもないとデモクラシーも市場も、常に多数に順応するようになる。その結果、音楽の持つ人間精神への根源的な力を衰弱させてしまう可能性がある。

祈りとしての音楽の終焉

 もちろん音楽を宗教の代替物として祭り上げるべきではなかろう。しかしそれでも、音楽の精神性、あるいは音楽が人間の知性と感性に及ぼす深くて強い力を無視することは出来ない。音楽が先か、言葉が先かという二つの考えについてすでに触れた。仮に言葉が先で「主」であるとしても、われわれは理性ではとらえきれないもの、理性を超越するものがあることを感知している。われわれにはそうした理性を越えるものへの期待や憧れがある。理性を言葉(ロゴス)と置き換えれば、言葉には限界があり、その限界を克服しようとするのが人間と機械の違いであり、それは祈るという気持ちにも通じるものであろう。そうであれば、音楽が言葉の単なる「しもべ」とみなすことは出来ない。
 これまで、音楽と人間の感情の関係が単純なものではないことを見てきた。ドラマティックな強い感情を音楽で表現するために、半音階や不協和音を多用しても、われわれの理性を越えたものを希求する気持ちに必ず繋がるというわけではない。調性を失った音楽が、理論的可能性を探究するという点では意味があるとしても、普通の人間の日常生活の中でわれわれの魂を浄化し、鼓舞する力を与えてくれることはない。その意味では20世紀後半以降の音楽は、18世紀から19世紀にその最盛期を現出した「クラシック音楽」とは意味も内容も効果も異なる、別のジャンルの芸術となる。
 自由と平等は、人々の中に隠れていた様々な感情と多様な価値観を引き出した。その結果、音楽に携わる職人たちはそれぞれ別の方向にその創造のエネルギーを注ぎ始め、音楽世界をバラバラに解体したように見える。生み出された音楽は、人間の感情や美的感性とは直接結びつかない、きわめて抽象的な音が交差する、「祈り」の精神とは無縁なもののように聴こえる。しかし「祈り」は、現状に対する「怒り」や「憤り」と考える神学者もいる。その意味では、現代の音楽もひとつの「祈り」であると言うことができるのかもしれない。
 旋律もリズムも普通の人間の感覚で把握できない、「選ばれたもの」のみが理解できるとする新しい音楽、「調性がない」音楽を、どのように位置付ければよいのか。12音の音高すべてに主従の差なく均等な役割を与える音楽が聴衆の不在を生み出すとすれば、それは価値の多様化ではなく、価値という概念そのものの無い音の世界の出来(しゅったい)を意味するのだろう。政治体制との類比として考えれば、徹底した平等を謳うデモクラシーは、12音の音高の均等性によって中心を失った音楽のように、ポピュリズムがもたらす無秩序か、専制的な政治権力によって強いられた見せかけの秩序という、凡そ自由の精神とはかけ離れた世界と見ることもできる。

※『デモクラシーと芸術』は今回が最終回となります。ご愛読ありがとうございました。当連載は、加筆修正の上、新潮選書から来春に刊行予定です。

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著者プロフィール

猪木武徳

いのきたけのり 1945年、滋賀県生まれ。経済学者。大阪大学名誉教授。元日本経済学会会長。京都大学経済学部卒業、マサチューセッツ工科大学大学院修了。大阪大学経済学部教授、国際日本文化研究センター所長、青山学院大学特任教授等を歴任。主な著書に、『経済思想』『自由と秩序』『戦後世界経済史』『経済学に何ができるか』『自由の思想史』など。

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