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名ぜりふで読み解く日本史

2021年1月28日 名ぜりふで読み解く日本史

第6回 「本能寺の変」の原因は「森蘭丸」?

森蘭丸「父が討死の跡にて候へば坂本を賜れ」(『常山紀談』)

著者: 呉座勇一

歌川芳幾画「太平記英勇伝「六十六:森蘭丸長康」」(1867年出版)

森蘭丸と細川ガラシャの奇縁

 豊臣秀吉を主人公とした戦前の歴史小説に、矢田挿雲の『太閤記』がある。今では知っている人も少ないだろうが、当時はたいへんな好評を博した。
 同作は、『報知新聞』の夕刊に、大正14年から昭和9年(1934)までの長期にわたって連載された豊臣秀吉の一代記である。この大長編の人気に火がついたのは昭和10~11年に単行本が発売されてからで、続篇を求める声に応えて関ヶ原の戦いと大坂の陣も書き継がれた。
 さて矢田の『太閤記』は、本能寺の変の原因について、面白い説を紹介している。「信長が蘭丸を光秀の婿にしようと望んだにかかわらず、光秀はその娘を幽斎の子の忠興に与えて、蘭丸に恥をかかしたというのである」と記している。これを恨んだ蘭丸が信長に讒言して、信長と光秀の関係が悪化、本能寺の変につながった、というわけだ。
 矢田は「仮り(原文ママ)に俗説を(まこと)として、また仮りに光秀の娘が蘭丸の妻になったものとして想像すると、光秀は或いは蘭丸夫妻の幸福のために、謀叛を思いとまったであろうし、信長もまた、あれまで深酷に光秀をしいたげはしなかったろう。そして信長の晩年は、目出度(めでた)く栄え、光秀は一生諸侯で(おわ)ったであろう。歴史の囲碁は、(わず)か一石をおきかえただけで、局面が一変する」と述べている。
 細川忠興に嫁いだ明智光秀の娘とは、言うまでもなく玉(ガラシャ)のことである。森蘭丸とガラシャが夫婦になっていたら、さぞお似合いの美男美女カップルになっただろうと夢想される方もいるかもしれない。しかし実のところ、ガラシャが美女であるということも、蘭丸が美男子であるということも、確たる証拠によって裏付けられない。
 最近、建築史家の井上章一氏が細川ガラシャ美人説を批判した(「美貌という幻想」、井上章一ほか著『明智光秀と細川ガラシャ』筑摩選書)。井上氏によれば、ガラシャが美人であると記した同時代史料は存在しないという。ガラシャと会ったイエズス会の宣教師も、ガラシャの知性を褒めるものの、彼女の美貌には言及していない(ガラシャの侍女ルイザの美貌には触れている)。
 江戸時代の史料でも、ガラシャは西軍(石田三成ら)の人質になることを拒んで自害した烈女として専ら描かれている。美人と表現するものは『明智軍記』など、ごく一部である。
 森蘭丸に関しても、同時代史料で美男と記しているものはない。そもそも織田信長と男色関係にあったかどうかもはっきりしない。

美少年という幻想

 森蘭丸が美男子であるというイメージが流布したのは、豊臣秀吉の一代記である『絵本太閤記』の影響だと思う。同書は、江戸後期の大坂の戯作者である武内確斎が執筆し、同じく大坂の画工である岡田玉山が挿絵を描いた絵入り読本である。寛政9年(1797)に大坂の本屋である勝尾屋が秀吉の若き日を描いた初篇を開板したところ、大評判となり、次々と続篇が刊行された。享和2年(1802)に7篇84巻をもって完結した。
 同書は森蘭丸を「元来聡明英智の美童」と評し、このため信長の寵愛を受けたと記す。
 森蘭丸の美少年イメージは、「蘭丸」という華やかな名前の印象にも支えられている。けれども、彼の本名は「蘭丸」ではない。同時代史料で「蘭丸」と表記しているものはない。
 太田牛一の『信長公記』(連載第一回を参照)は「森乱」と記述している。元和年間(1615~1624)ごろの成立とされる『川角太閤記』も「森お乱」と記している。彼の発給文書や当時の公家の日記にも「御乱」「乱法師」などと見える。後世に織田信長の寵愛を受けた美しい小姓というイメージが形成されていくのに伴い、「蘭丸」という名前が創出されたのではないだろうか。
 では、「蘭丸」という名前はいつ生まれたのか。明智光秀の末裔を称する歴史研究家の明智憲三郎氏は、『惟任退治記』が初出であると主張している(『織田信長 四三三年目の真実』幻冬舎)。同書は、天正10年(1582)10月、羽柴秀吉が光秀退治の功績を喧伝するために、家臣の大村由己に書かせたものである。
 明智憲三郎氏の主張が正しければ、「乱丸」が死んでわずか4ヶ月後に「蘭丸」という名前が創作されたことになる。明智氏は「秀吉がよく知っている乱丸のことをわざわざ「蘭丸」と書かせた」と推測している。
 確かに『続群書類従』合戦部所収本など『惟任退治記』の現存写本には、「森蘭丸」と書かれている。しかし同書の異本である『総見院殿追善記』や『豊臣公報君讎記(とよとみこうきみのあだをほうずるき)』は「森乱」と記している。『惟任退治記』が後世に書写される過程で「森乱」が「森蘭丸」と改訂されたと考えるべきだ。
 明暦2年(1656)に刊行された『武者物語』は「森おらん」としている。ところが寛文7年(1667)に刊行された『武者物語之抄』(『武者物語』の増補改訂版)には「森蘭丸」とある。この間に「蘭丸」という名称が定着したのだろう。

「戦死」は最大の戦功

 さて矢田挿雲が紹介した、「蘭丸がガラシャと結婚しようとして光秀に断られた」という逸話の出典は何だろうか。残念ながら私もまだ見つけられていないのだが、似た話は前掲の『絵本太閤記』に載っている。以下に紹介しよう。
 織田信長は寵愛のあまり、森蘭丸に種々の珍器奇宝を見せ、「望みのものがあれば何でも取るが良い」と言った。蘭丸は「どれも要りませぬ」と答えた。信長は笑って「他に何か望みのものはあるか」と尋ねた。すると蘭丸は「私の亡き父は近江国志賀郡(現在の滋賀県大津市あたり)を賜り、私も同地で生まれました。父の旧領であり私の故郷である同地を賜りたいのです」と答えた。しかし志賀郡は明智光秀の領地である。そこで信長は「二、三年待つが良い」と述べた。
 その後、織田信長は「明智光秀に与えた領地を今さら没収することはできない」と思い直した。そして光秀に「蘭丸を婿とせよ」と命じた。だが光秀は断ったという。
 この『絵本太閤記』の逸話では、ガラシャの名前は出てこない。そして明智光秀の娘は複数いる。ただし、ガラシャが細川忠興に輿入れした天正6年(1578)8月時点でガラシャの姉妹は全て結婚していたと思われるので、ガラシャが念頭に置かれていると見て良いだろう。
 とはいえ上の逸話では、織田信長は明智光秀の領地を将来的に森蘭丸に継がせるために、縁談を持ちかけている。財産相続のための結婚だから、相手がガラシャだろうとガラシャの姉妹だろうと、美人だろうとそうでなかろうと、蘭丸にとってはどうでも良い。だから光秀の娘の名前が明記されなかったのだろう。
 森蘭丸が明智光秀の領地を欲しがったという逸話は、『絵本太閤記』以前に見える。備前岡山藩主池田氏に仕えた徂徠学派の儒学者・湯浅常山が記した逸話集『常山紀談』(1739年に原形成立、1770年完成)には次のような挿話が収録されている。
 蘭丸は織田信長に対し、光秀はいずれ謀反を起こすから討つべきと進言したが、信長は無視した。以前、蘭丸が「父(森可成(よしなり))の戦死した場所である坂本の地をいただきたい」と望んだのに光秀に与えられたので、それを恨んでの讒言と信長に誤解されたからだという。
 森可成は坂本近くの宇佐山城を与えられ、坂本で戦死しているが、志賀郡全てをもらったわけではない。『常山紀談』の逸話にせよ、『絵本太閤記』のそれにせよ、いずれも虚構だろうが、前者の方がまだ事実に近い。後者の逸話は、前者の逸話をさらに脚色したものかもしれない。
 ともあれ、戦死を最大の戦功と捉える中世武士の価値観が近世にまで語り継がれている点は興味深い。

※本連載は、2019年に共同通信社で配信された同タイトルの連載とは別に、著者が新たに当サイトに書き下ろしたものです。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
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「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

呉座勇一

ござ・ゆういち 1980年、東京都生まれ。歴史学者。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。専攻は日本中世史。現在、国際日本文化研究センター助教。『戦争の日本中世史』(新潮選書)で角川財団学芸賞受賞。主な著書に、『応仁の乱』(中公新書)、『一揆の原理』(ちくま学芸文庫)、『日本中世の領主一揆』(思文閣出版)、『陰謀の日本中世史』(角川新書)、『日本中世への招待』(朝日新書)など。

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