人気作家・金庸の『笑傲江湖』
中華圏の王道エンタメと言えば、武侠小説である。「侠」とは、通常の社会には属さないアウトロー的存在であり、各地を放浪し、剣を握って戦う。テレビドラマや映画にもなっているのを見たことがある人も多いだろう。気を操れるためか、ワイヤーでつられているためか、重力を無視して戦闘したり、北斗の拳ではないが、秘孔をつくと動けなくなったりする。
武侠小説の中でも、特に絶大な人気を誇るのが金庸という作家だ。抜群のストーリーテリングで、エンターテインメント性は抜群、私は大学生のころにテレビドラマ化されたものをほとんどすべて見た。中国からVCD(CDに映像を入れたもの)を買ってきたり、池袋の怪しい店でビデオを借りて見たりした(なにせ、店内で堂々とVHSにダビングしていた。保証金がやたら高く、一万円取られた記憶がある)。
最初に見たのが『笑傲江湖』というドラマで、あまりの面白さに40集あるのを三日で見た。数年前にもリメイクされ、日本でもDVDが借りられたので、なつかしさのあまりにこれも見た。メイクや服装、ラブシーンが異様に長くなっている点など、韓国ドラマ風になっているのは気にかかったが、やはり面白かった。
さて、今回は前回に引き続き、“是”の話である。『笑傲江湖』(最近見たほう)から採取した次の例をみてみよう。
寧中則:平之和珊儿下落不明,你是要撒手不管吗?(平之と珊ちゃんが行方不明だというのに、あなたは手をこまねいて何もしないの?)
ここの“是”はいったい何のために使われているのだろうか?
場面は、岳不群の娘である岳霊珊とその婚約者の林平之が行方不明になっているところだ。それにもかかわらず、岳不群は二人を探すそぶりを見せず、出立の準備を進めている。その準備する姿を見て妻の寧中則が発したのがこのセリフである。
文法の説明で「強調」と出てきたら要注意
前半の“平之和珊儿下落不明”が「平之と珊ちゃんが行方不明だ」を表し、後半の“你是要撒手不管吗?”は「手をこまねいて何もしないつもりか?」という意味である。ここの“是”を除いて“你要撒手不管吗?”としても、あまり変わらないように思われる。
このような“是”は、私は「強調」と教わった。しかし、文法の説明で「強調」と出てきたら要注意である。よくわからないからとりあえず「強調」と言っているのではないかと疑わなければならない。実際、これは「強調」ではない。では、どんな役割を果たしているのだろうか。
前回、「“是”の中心的な機能は、先行する要素A(判断対象)に対して、説明Bを加えること」であると書いた。この判断対象となる先行する要素Aは、言語化されていなくてもいい。なんらかの状況に対して、説明Bを導入することができるのだ。
この場面、娘の岳霊珊と林平之が行方不明にもかかわらず、岳不群は出発の準備をしているのだった。寧中則は、その出立準備する様子を判断対象として、“是”と言っているのだ。つまり、「あなたは、コレ(出発の準備をしていること)は、手をこまねいて何もしないつもりか」と言っているのである。「コレ」は、岳不群の様子を示す。
「主語+“是”+動詞句」の形をしているが、“是”は動詞を「強調」しているのではない。前提となる状況を取り立て、それに対する判断・説明(動詞句の部分)を後続させているのだ。
「直前の名称」ではなく「先行する状況」を見よ
同じく金庸原作のドラマ『碧血剣』から用例を見てみよう。
温:我们结拜成兄弟,你说好不好。(俺たち、義兄弟の契りを結ぼう。どうだ?)
袁:结拜?(義兄弟の契り?)
温:怎么? 你不愿意啊。是瞧不起我吗?(なんだ?気が進まないのか?俺をバカにしているのか?)《碧血剑》・2集
この例では “温”という人物が、“袁”に義兄弟の契りを結ぼうと提案している。その提案に対して、袁は、ためらいの様子を見せる。そのためらっているという状況に対して、それは“是瞧不起我吗(俺をバカにしているのか)?”、といっているのである。
次のように、主語が「省略」されていると考えてもいい(厳密には違うと思うが)。
你这个态度是瞧不起我吗?(おまえのその態度は、俺をバカにしているのか?)
このように考えると“是瞧不起我吗?”の“是”は強調を表しているわけではなくて、あくまでも「(提案に対して)気が進まない態度を取っている」ことに対して、それはBだ、と判断を下していることがわかる。
“是瞧不起我吗?”この例をさらに改変すると、次のようになる。
你是瞧不起我吗?(おまえは俺をバカにしているのか?)
こうすると、「主語+“是”+動詞句」の形になった。そして、このような形になっているとき、文法の説明では“是”は「強調」を表す副詞とされる。先行する要素Aとの関係は完全に無視されているのだ。
ところが、意味的には先ほどの“是瞧不起我吗?”とほとんど同じだ。つまり“你是瞧不起我吗?”といったところで、ためらいを見せる袁の態度に対する判断として“瞧不起我吗(バカにしているのか)”と述べているのは同じなのである。
“是”が判断の対象とするのは、直前の名詞に限られると思われていた。しかし“你是瞧不起我吗”の“是瞧不起我吗”が判断・説明を加えているのは直前の名詞“你”ではない。主語を飛び越えて、その前に与えられている要素Aに対して判断・説明を加えることが可能なのだ。直前の名詞との関係しか考えてこなかったのは、“是”がbe動詞に類似していると考えられていたからだ。だが、“是”はbe動詞ではなく元々は指示詞だから、直前の名詞以外のものも取り立てて判断対象にすることができるのである。
“是”について、「よくわからない」と思ったら、文脈を見よう。何らかの先行する状況が見つかるはずだ。
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橋本陽介
1982年埼玉県生まれ。お茶の水女子大学基幹研究院助教。慶應義塾志木高等学校卒業、慶應義塾大学大学院文学研究科中国文学専攻博士課程単位取得。博士(文学)。専門は中国語を中心とした文体論、テクスト言語学。著書に、『日本語の謎を解く―最新言語学Q&A―』(新潮選書)、『中国語実況講義』(東方書店)、『「文」とは何か 愉しい日本語文法のはなし』(光文社新書)、『中国語における「流水文」の研究 「一つの文」とは何か』(東方書店)など。
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とは
はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
金寿煥
著者プロフィール
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- 橋本陽介
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1982年埼玉県生まれ。お茶の水女子大学基幹研究院助教。慶應義塾志木高等学校卒業、慶應義塾大学大学院文学研究科中国文学専攻博士課程単位取得。博士(文学)。専門は中国語を中心とした文体論、テクスト言語学。著書に、『日本語の謎を解く―最新言語学Q&A―』(新潮選書)、『中国語実況講義』(東方書店)、『「文」とは何か 愉しい日本語文法のはなし』(光文社新書)、『中国語における「流水文」の研究 「一つの文」とは何か』(東方書店)など。

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