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ふしぎな中国語――日本語からその謎を解く

高行健『霊山』の長い文の謎

 大学院の博士課程に在籍していた2010年の9月、モロッコの旅行から帰国したばかりの私は、空港で一通のメールを受け取った。差出人は指導教員の関根謙先生。その用件は「前にも言ったと思うけど、高行健が来るから、アテンド手伝って」というものであった。

 私は混乱した。「前にも言った」とあるが、初耳である。高行健とは、2000年に中国語で書く作家として初めてノーベル文学賞を受賞した作家であり、私の卒業論文のテーマであり、学会のデビュー論文の対象でもあった。

 モロッコからつれかえった南京虫(推定)に全身を刺され、猛烈なかゆみに襲われている中、私は新宿のホテルまで、ノーベル文学賞作家を一人で迎えに行くことになった。関根先生は鎌倉で待っているとのことで、鎌倉まで二人で移動することとなった。大仏のある高徳院には、一般の人が入れないゾーンがあり、VIPの接待を行えるようになっている。住職は慶應大学教授でもあるので、私もそのゾーンに入れてもらい、懐石料理を食べた。

 さて、その高行健の代表作『霊山』の最初の文は、以下の通りである。

 你坐的是长途公共汽车,那破旧的车子,城市里淘汰下来的,在保养的极差的山区公路上,路面到处坑坑洼洼,从早起颠簸了十二个小时,来到这座南方山区的小县城

 (おまえが乗ったのは長距離バス、その古い車体は、都市では使わなくなったもので、補修されていない山の道は、あちらこちらでこぼこで、朝はやくから十二時間揺られ、この南方の山間の県城についた。 ―引用者訳)

 私がこの文章に出会ったのは大学一年生のころだ。実に流れるような文章で、動きがあり、魅了された。だが、なぜこれが読点でつながって「一つの文」になってしまうのか、訳が分からなかった。頑張って「一つの文」に翻訳しようとしても、うまくできない。後に出版された飯塚容訳『霊山』では、次のように訳出されている。

 おまえが乗ったのは長距離バスだった。都会でお払い箱になったポンコツ車が、補修の行き届いていない山道を走る。路面はデコボコだらけ。朝から十二時間揺られ続けて、ようやくこの南方の山間の県城に着いた。

 原文では「一つの文」なのに、日本語訳では「四つの文」になってしまっている。なぜそんなことが起きてしまうのだろう。それに、原文を読んだときの流れるような感触がなくなっているような気がする。いったい、何がどう違うのだろうか?

なぜ「。」で終わらず「、」でつながっているのか?

 中国語の勉強が中級・上級に達して、書き言葉を翻訳することになると、中国語の「一つの文」、とりわけ長い文が、句読点のとおり訳せないことに気がついてくるだろう。というか、なぜここが読点(、)でつながっているのか、句点(。)でないのはなぜなのか、よくわからないことが多いのだ。

 中国語の「長い文」から句読点をすべて取り払い、中国人にそれを復元してもらうことにする。すると面白いことにというか、頭を抱えることにというか、バラバラになってしまうのである。

 高行健『霊山』冒頭も、途中で句点を打って文を終わりにしてもいい。例えば、“你坐的是长途公共汽车那破旧的车子,城市里淘汰下来的。”と細かく切ることもできる。

 なぜそんなことになってしまうのだろうか?

 一つには、文の終わる形式とつながる形式の区別がないことが挙げられる。日本語だったら、「おまえが乗ったのは長距離バスだった。」と、終止形で終わればそこで文は終わるし、「長距離バスで」のような形にすれば、まだ続いていくことがわかる。こういう文末の形式がないので、終わるか終わらないかがよくわからない。

 だがどうも、適当に句読点をつけているわけでもなさそうである。何らかの規範があるようなのだ。

ようやく出会ったキーワード「流水文」

 中国語学に関する本を読んでいる中で、この問題を解き明かすキーワードにようやく出会ったのは、2017年ころのことであった。呂叔湘(1979)に、次のような記述がある。

 (中国語では)一つの節に次の節が続くが、多くのところではそこで終わりにしてもいいし、続けてもいい。

 これこそ、私が求めていた中国語の特徴である。呂は、中国語のこのような特徴を「流水文」と命名した。そこで私は「流水文」をキーワードにして、先行研究を当たってみることにした。

 だが、「流水文」に関する研究は多くはなかった。言語学は欧米で作られた理論をそのまま使うことが多く、欧米言語で方法論がまったくない特徴については、研究が進まないのである。名前をつけた呂叔湘も、厳密な定義をしているわけではなく、軽く触れているだけなのである。ただ、確かに「流れる水のよう」に感じるから、「流水文」という名称は言い得て妙である。

 中国語の句読点の打ち方、並びに「流れる水のよう」な特徴は、数年の研究を経て、『中国語における「流水文」の研究』(東方書店、2020年)としてまとめることができた。大学一年生のときに感じた宿題を、ようやく解くことができたのである。

 次回から、詳しくその特徴について紹介していこう。

 キーワードは「並列」である。


参考文献:呂叔湘『漢語語法分析問題』商務印書館(1979)

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
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「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

橋本陽介

1982年埼玉県生まれ。お茶の水女子大学基幹研究院助教。慶應義塾志木高等学校卒業、慶應義塾大学大学院文学研究科中国文学専攻博士課程単位取得。博士(文学)。専門は中国語を中心とした文体論、テクスト言語学。著書に、『日本語の謎を解く―最新言語学Q&A―』(新潮選書)、『中国語実況講義』(東方書店)、『「文」とは何か 愉しい日本語文法のはなし』(光文社新書)、『中国語における「流水文」の研究 「一つの文」とは何か』(東方書店)など。


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