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ふしぎな中国語――日本語からその謎を解く

キーワードは「並列」

 前回、予告した通り、中国語に現れる長い文の「ふしぎ」について解き明かしていこう。

 まず、次の日本語を見てほしい。

 ぼくは黒板の前の教卓のところへ行って、授業用道具を置き、ゆっくり顔を上げ、学生たちを見た。

 余司令が前方からもどってきて、かがみこみ、王文義の頸をつかみ、声を殺して言った。

 どうだろう。前者は「ぼく」が連続で行うことを次々に並べている文で、後者は余司令が行う行動を叙述したものだ。日本語として間違いではないが、ダラダラと続いている感じがすると思う。文法としては適格ではあるが、修辞的に好ましくないのである。日本人が日本語で書いた小説では、このように行動をダラダラと並列的に並べていく文を見つけることは困難である。例えば次のように改変するだけでも、だいぶすっきりする。

 黒板の前の教卓のところで授業用道具を置いたぼくは、ゆっくり顔を上げて学生たちを見た。

 余司令は前方からもどってきてかがみこむと、王文義の頸をつかみ、声を殺して言った。

 前者では、最初の二つの行動を「ぼくは」にかかる連体修飾語に変えているし、「教卓のところへ行って」も「教卓のところで」と変更している。

 後者の例では、「前方からもどってきてかがみこむと」と、「と」を使って接続している。このように「AするとB」の形にすると、前半と後半の二つのパートに分けられる。日本語の規範的な書き言葉ではこのように、長い文でも「前半+後半」の構造を作り上げることが多い。こうすると上下関係ができるので、平板ではなくなる。

 さて、最初に提示した二つの文は、私が中国語から直訳したものだ。原文を示そう。

 我走到黑板前的桌子后面,放下教具,慢慢抬起头,看学生们。(阿城『子供たちの王様』)

 余司令从前边回来,蹲下,捏着王文义的脖子,压低嗓门说:(莫言『赤い高粱』)

 今あげた二つの文章の構造は、中国語の小説文としてはごく普通であり、適当にそのへんの小説を開けば、あっという間にみつかるものだ。

 なぜ日本語だとダラダラした感じがするかといえば、人物の行動がいくつもただ並列されているだけだからである。一方、中国語では節があまり上下関係を作らずに、並列的に並べられていくことがごく自然であり、修辞的に問題がない。そしてこの「並列」が「流水文」の鍵なのである。もちろん、並列といってもいろいろな並列のさせ方がある。そこがわかれば、「流水文」の特徴が明らかになるのだ。

「。」で区切る基準―「主語+述語」ではなく「時間軸」

 先ほど見た例では、人物の行動が時間軸に沿って細かに叙述されていた。中国語では、次のように、主語が変わっても読点でつなげていくことが可能である。

 老陈似无所见似无所闻,只在前面走,两个学生追打到他跟前,他出乎意料地灵巧,一闪身就过了,跑在前面的那个学生反倒一跤跌翻在地,后面的学生骑上去,两个人扭在一起,叫叫嚷嚷,裤子脱下一截。(『子供たちの王様』)

 (陳さんは何も見えも聞こえもしかったかのように、前を歩き、二人の生徒がそのそばまで追いかけてきたが、彼は驚くべき器用さをみせ、さっとかわし、前を走っていた生徒はひっくりかえり、後ろの学生がそれに乗っかり、二人がとっくみあって、大騒ぎをし、ズボンもずり落ちていた。―引用者訳)

 長い。“老陈(陳さん)”を主語とする行動が語られたかと思うと、途中から“两个学生”を主語とする行動に切り替わり、また主語が「陳さん」に変わったかと思うと、「前を走っていた生徒」が主語になり、さらには「後ろの学生」が主語になった行動が描かれている。なぜ、こんな単位が「一つの文」になってしまうのか。しかも、これは中国語の文章ではごく普通なのだ。

 最初にあげた二つと、このアホみたいに長い文は、原理的には共通である。いずれも、時間軸に沿って継起的に起こる出来事なのだ。出来事が、起こる順番に、一コマずつ描かれて、その一つの連続する行動が「一つの文」になっている。つまり、読点でつながっている基準は「主語+述語」ではなく、時間軸である。一続きの動きであれば、主語が変わろうが、「一つの文」にしてしまうことが可能なのだ。

 ちょっとまってほしい、というかもしれない。「一続きの動き」というのは、恣意的ではないか? どこからどこまでが「一続き」なのかはわからないではないか? そうなのである。時間は連続的なものだから、動作だって連続的に流れている。そこで、「流水文」に関する疑問「読点でつなげても、句点でつなげてもいい場合が多い」「中国人に句読点をつけさせるとバラバラになることが少なくない」を思い出そう。

 中国語では、時間軸に沿って起こる出来事を、一コマずつ並列的に節を並べて表すことができる。任意の場所で切れるのは、まさしく並列的に並んでいるからで、節の間に上下関係を結んでいないからだ。そこで書き手は、「ここからここまでを一続き」というのを、任意に(わりと恣意的に)設定可能なのである。だから、先ほどの例も、細かく切ろうと思えば細かく切っても構わない。細かく切ったほうが、カットが次々に切られる感じがして、臨場感が出やすい。

 中国語原文は、節が並列的に並んでいる。中国語の規範では、それでいいのである。一方、日本語の書き言葉では、そうした書き方は規範にかなわない。中国語文の翻訳を考える際には、この点に留意する必要がある。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

橋本陽介

1982年埼玉県生まれ。お茶の水女子大学基幹研究院助教。慶應義塾志木高等学校卒業、慶應義塾大学大学院文学研究科中国文学専攻博士課程単位取得。博士(文学)。専門は中国語を中心とした文体論、テクスト言語学。著書に、『日本語の謎を解く―最新言語学Q&A―』(新潮選書)、『中国語実況講義』(東方書店)、『「文」とは何か 愉しい日本語文法のはなし』(光文社新書)、『中国語における「流水文」の研究 「一つの文」とは何か』(東方書店)など。


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