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やりなおし世界文学

2021年1月25日 やりなおし世界文学

(最終回) フレイザーとパーティを組んで――フレイザー 『金枝篇』

著者: 津村記久子 , 100%ORANGE

 年末からなんだかものすごく疲れていて、年賀状は一通も書いていないしメールでの年始のあいさつすらほとんどしていない。ずっとぼーっとしている。理由はわかっている。『金枝篇』に命を吸われていたのだ。これより厚い本はいくらでもあることは知っている。わたしが読んだのは初版で、決定版の第三版は十三巻もあって、まだ入り口に過ぎないこともわかってるけれども、『金枝篇』を読むことは、自分にはもはや読書というよりなんらかの競技だった。途中からはもう「自分は『金枝篇』というゲームをプレイしているのだ」と言い聞かせながら読んでいた。『金枝篇』とは読むダンジョンである。フレイザーは、複雑きわまりないダンジョンのすべての部屋に入ってその様子を記録する案内人だ。読者であるわたしは、興味本位でそれについていきながらも、もう今日はここでやめとこうよフレイザー……、とかぼそく制止しては無視されるばかりの存在だ。
 なんでこんなに疲れるのか? 著者であるフレイザーは、学者であることを差し引いても本を読みすぎてないか? という怖さもあるのだけれども、いちばんに考えられるのは、やはりその壮絶な移動距離と俯瞰の感覚だろう。フレイザーの最初の疑問は、「古代イタリアのネミの森の祭司は、なぜ黄金の枝を折り取った者に殺されなければならなかったのか?(「祭司職を志願する者は、現在の祭司を殺すことによってのみ、その職に就くことができる」のはなぜか)」というもので、この野蛮な風習がどこかほかの場所にも存在することを発見し、その動機を知ることができれば、自分自身の疑問に答えることができるのではないかと考えた。要は、安楽椅子人類学探偵フレイザーが、古代の殺人事件の動機とそれが起こった土地の習俗について、よそで起こって類似する物事について調べて、「そういえばね」とその事例を引き引き解明しようと思い立ったわけだが、この「よそ」の広さと事例の多さが半端ではない。さー今日もフレイザーがなんか思い出したよ、と一応心して話を聞くわけなのだが、この話が異常に多く(長いのではなく数が多い)、たまにものすごく異様で、異様なわりに「ちょっと待てなんか覚えがある」と足元が揺らぐ感覚がある。場所の多さ、それゆえの移動距離の長さ、話の数の多さ、心を揺さぶられる回数、そして最終的な「人類が涼しい顔をしてふたをしているが今も連綿と受け継がれている野蛮な何か」を垣間見る体験が、『金枝篇』のプレイ中は毎日毎日絶え間なく起こる。だから疲れるのではないか。
 本書は、とても簡単に言うと、大きく分けて「ネミの森の祭司=森の王とは?」「なんで殺されなければならないの?」「なんで金の枝なの?」という、フレイザーの最初の疑問を分解し、それぞれに対応すると思われる世界の習俗や儀式をどんどんどんどん並べて、フレイザーが「これかも」と思うところをときどき述べる本であると思う(フレイザー自身は、前任者の殺人と黄金の枝をもぎ取ることの二つの問いだとしている)。そしてフレイザーの「そういえばね」は、もう脱線もかまわず、少しでもこれだと思ったらどんどんどんどん突き進んでゆく。しかしその、何というか読んで考えてまとめる労を厭わない進撃ぶりが、あまりにも広く、あまりにも多様でありながら、けれどもどこかで共通している集団としての人類の有りようを結果的に浮かび上がらせる。『金枝篇』を読むことは、フレイザーの謎解きに付き合うようでありながら、「我々は誰か?」という問いの答えを探して読者自らが放浪する旅のようでもある。引用する習俗の当事者たちについて、フレイザーは「蛮人たちは」と突き放すように言うけれども、彼らは紛れもなくわたしたちの原形であり、フレイザー自身も「われわれの蛮人との類似点は、相違点よりもはるかに多い」と言い切っている。この本に書かれていることは、自分たちのことではないけれども、同時に自分たちのことでもあるのだ。
 最初に「覚えがある」と思ったのは、「どのような効果もそれを真似ることで生み出される」とされる共感呪術のことだった。ボルネオには、誰かが首狩りに出かけると、その妻もしくは未婚の場合は姉妹が、昼も夜も剣を身につけていなければならない種族がいるらしい。それは彼が武器のことを忘れないようにという理由だそうで、さらには、眠っている間に敵に奇襲されないように、女たちは昼間眠ってはならず、また夜も二時までは床に入ってはならないらしい。率直に言って「サポーターの方ですか?」と思ったのだった。これはあれだ。好きなチームが勝つまで甘いものを食べないとか、テレビ観戦中はあえてエアコン切って外と同じ環境にして観るとか、そういう「誰かの勝ちを願う人」の行動様式に似ている。「蛮人であればおそらくだれもが、自分には共感呪術によって自然の推移に影響を与える力があると空想する」とフレイザーは述べる。現代人は、雨と風と太陽はどうにもならんと考えているが、蛮人はある程度制御できると考えているらしい。どうも「森の王」がその一員らしき人間神は、これらをより高いレベルで行使できる者であるようだ。ほか、船乗りに風を売るフィンランドの魔術師、風を売って生計を立てるシェトランドの老婆の話などは信じられないように思うけれども、「人間自身も自然である」という考え方に基づくものならば理解できるかもしれない。
 人間が自然に影響を与えることができる、という考え方は、翻って不作や天候不良の責任追及が人間に及ぶことも意味する。スキタイ人は食物が不足すると王を監禁し、西アフリカのパンジャール族は、干魃や雨が続くと天候が変わるまで王を侮辱して殴ったと本書にはある。ここでも足元が揺らぐ。実は似たようなことを、現代のわたしたちもやっていないだろうか。本当はわたしたちも未だ、形を変えた呪術的なものにとらわれてはいないだろうか。それは、王殺しのように人を傷つけるものという側面を持ちながら、一方で、生きていることを豊かにするような「世界と隔てられない」感覚でもある。
 では、たとえ不作や天候不良がなくとも、王≒人間神が「殺される」という非業の死を遂げなければならない理由は何なのか? フレイザーは、人間神の持つ自然力の衰弱と関連して世界が衰退する前に、彼を殺してしまおうと崇拝者たちは考えたとする。マンガイア人は「自然死を遂げた人々の魂は、非常に弱く脆い。それは、彼らの身体が崩壊してしまったからだ。一方戦いで殺された人々の魂は、強靱で活力がある。彼らの身体は病で衰えることがなかったからである」そうだ。王を殺す風習が廃止される以前、長い間エチオピアの王は、体の大きさ、強さ、容姿の美しさで選ばれていたという。カリカットの王は、十二年に一度王位を狙う者から襲撃を受けるが、これらを退けられる限りは王でいられる。「人間神が剣によってすべての襲撃から身を守れる限り、その身に致命的な衰弱が始まっていると考える理由はない」からだ。
 読んでいて、物騒なんだが合理的な話のように感じられるのが不思議だった。世襲よりも健全な気もしてくる。ザ・フーの〈無法の世界〉のようなものだ。フレイザーの「そういえばね」攻めに麻痺していたのかもしれない。
 なぜ金の枝を折り取ることが祭司への挑戦の条件になるのか、そして金枝とは何か? ということについては、古代スカンディナヴィアの神であるバルドルを殺したのがヤドリギであったということと併せて、蛮人にとって魂は抽象的なものではなく、さわったり箱に閉じ込めたりできるものであったということが語られ、ならば森の王の魂はどこに隠されているべきかという結論らしきものに辿り着く。
 ものすごく乱暴にまとめているけれども、本書の最上の興味深さは、祭司殺しの謎解きと同時に、それに伴うフレイザーの「そういえばね」にあるので、旅に出てもいいという方はぜひ読んでいただきたい。『金枝篇』におけるフレイザーの長い旅に付き合うことでなんとなく見えてくるのは、人間の中の普遍的な力の栄枯盛衰のようなものであり、何らかの表象を、または物語と言える何かを常に求める人間の意識だ。古代イタリアの祭司殺しの話を追いながら、同時にスポーツチームのサポーターやフーの曲のことを考えられるというのは、古代から人間の何かが変わっていないことの端的なあらわれであるように思う。
 本書は、人間の心が創り出した習俗というフィクションの壮大なまとめであるとも言える。「想像とは、重力と同じくらい現実に人間に作用するもの」だとフレイザーは述べる。人間はこれほどまでに、フィクションに頼って生きてきた。「蛮人たちは」と言いながら、それでも本書にはフレイザーの「他者を知り、その共通点を見つけて、人間における変わらないものとは何かを考える」喜びがみなぎっているように思える。人類が信じてきたさまざまな迷信と、時には愚かであったり残忍でもある習俗をおびただしく記しながら、フレイザーはそれらを「長く痛ましい努力」と評価する。その上に現代の人間は立っているのだとする。「人類の共有する知の蓄えに、ひとつの時代が、ましてやひとりの人間が、新たに付け加えることのできる知の量はわずかである」という言葉の公正さには、人間の歴史の上に薄くかぶさっている一つの時代の無力さを断じるものでありながら、それでも時を重ねてもがきながら生きてきた人類の生きてきた道への信頼がある。

『金枝篇』

ジェイムズ・ジョージ・フレイザー /吉川信  訳

2003/1/8

とにかくうちに帰ります

とにかくうちに帰ります

津村記久子

2015/09/27発売

うちに帰りたい。切ないぐらいに、恋をするように。豪雨による帰宅困難者の心模様を描く表題作ほか、それぞれの瞬間がはらむ悲哀と矜持、小さなぶつかり合いと結びつきを丹念に綴って、働き・悩み・歩き続ける人の共感を呼びさます六篇。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

津村記久子
津村記久子

1978(昭和53)年大阪市生まれ。2005(平成17)年「マンイーター」(のちに『君は永遠にそいつらより若い』に改題)で太宰治賞を受賞してデビュー。2008年『ミュージック・ブレス・ユー!!』で野間文芸新人賞、2009年「ポトスライムの舟」で芥川賞、2011年『ワーカーズ・ダイジェスト』で織田作之助賞、2013年「給水塔と亀」で川端康成文学賞、2016年『この世にたやすい仕事はない』で芸術選奨新人賞、2017年『浮遊霊ブラジル』で紫式部文学賞を受賞。他の作品に『アレグリアとは仕事はできない』『カソウスキの行方』『八番筋カウンシル』『まともな家の子供はいない』『エヴリシング・フロウズ』『ディス・イズ・ザ・デイ』など。

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100%ORANGE

イラストレーター。及川賢治と竹内繭子の2人組。東京都在住。イラストレーション、絵本、漫画、アニメーションなどを制作している。イラストレーションに「新潮文庫 Yonda?」「よりみちパン!セ」、絵本に『ぶぅさんのブー』『思いつき大百科辞典』『ひとりごと絵本』、漫画に『SUNAO SUNAO』などがある。『よしおくんが ぎゅうにゅうを こぼしてしまった おはなし』で第13回日本絵本賞大賞を受賞。

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