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ふしぎな中国語――日本語からその謎を解く

ただ並べられた2つの文、その関係は?

 中国語を習い始めて、中級に差し掛かったくらいになると、“因为所以(~なので~だ)”のような、接続表現をたくさん学習するようになってくる。簡単な例で見てみよう。

 因为今天下雨,所以我不去学校。(今日は雨がふっているので、私は学校に行かない。)

 現代の中国語では、この語順を逆転させて、“我不去学校,因为今天下雨(私は学校に行かない、なぜなら今日は雨だからだ)”とすることも可能だ。中国語では本来、“因为”を使う節は、前にしか置けなかった。逆転させられるようになったのは、欧米言語の翻訳の影響だという。

 このような表現を使えるようになると、いよいよ中級だと言う感じがするが、実際には“因为今天下雨,所以我不去学校。”のような表現よりも、“今天下雨,我不去学校”のように、単純に並列するだけでその意味が表されることが非常に多い。特に、今あげたような単純な例では、ほぼ“因为所以”を使用しない。

 このように、ただ並べるだけで表されていることを「意合」と呼ぶ(逆に、“因为所以”のように形に表すのを「形合」と呼ぶ)。中国語は「意合」がとても多い言語なのである。とはいっても、並びにはそれなりにパターンがある。

後ろに判断が続く

 何らかの出来事を叙述した後、それに対する判断が続くことがある。

 父亲前边那个人吭吭地咳嗽起来,这个人的咳嗽声非常熟悉。(『赤い高粱』)

 (父の前を行く男がゴホゴホと咳をしはじめた、この男の咳の音は耳なれたものだ。――引用者訳)

 この例など、言語化されているものだけを訳すと、「父の前を行く男がゴホゴホと咳をしはじめた」ことと、「この男の咳の音は耳なれたものだ。」なる判断がただ並んでいるだけである。「何かを叙述する→その判断をする」は、日本語でもごく普通の順序なので、読点のところを句点にすれば自然になる。中国語では「判断対象→その判断」は分かちがたいものとされるようで、読点でつなげるのが普通である。

 老瞎子这才动子动,抓起自己的琴来摇了摇,叠好的纸片碰在蛇皮上发出细微的响声,那张药方就在琴槽里。(『命は琴の弦のように』)

 (このときになって老盲人はようやく身じろぎし、自分の琴をつかんでゆすると、折りたたんだ紙が蛇皮に当たってかすかな音を立てた、あの処方箋は琴の胴内にある。――引用者訳)

 この例では、老盲人の行動が描かれた後、その行動によって引き起こされる「紙が蛇腹に当たって音を立てた」が叙述されている。ここまでは出来事の叙述である。そして、最後の“那张药方就在琴槽里。”では、「あの処方箋が琴の胴内にある」ことが叙述されているが、これはその直前の節「紙が音を立てた」ことの理由の説明になっている。この例も、「音を立てた。」で一回切って、「あの処方箋は琴の胴内にあるのだ。」と「のだ」を使えば、このままの順序で日本語に訳せる。

 中国人の日本語作文を読んでいると、「折りたたんだ紙が蛇皮に当たってかすかな音を立てて、あの処方箋は琴の胴内にある」のように繋いでしまっている例を見かける。日本語として誤りとまでは言えないが、繋げないものを繋いでいるように思える。日本語の場合、「出来事の叙述→それに対する判断」は異なる性質なので、一度文を切るか、「音を立てたので、あの処方箋は琴の胴内にあるとわかった」のように、単なる並列ではない形を選択する必要がある。

後ろに原因・理由が続く

 同じように、ただ節が後ろに続いているだけで、何らかの出来事等に対して、そのように述べる原因・理由の意味になることもしばしばある。

 不知道他是在二狗家怎样度过的,白天不开门, 夜里不开灯。(『炸裂志』p.145)

 (彼が二狗の家でどのように過ごしているのかわからない、昼間は戸も開かず、夜も明かりが灯ることもない。――引用者訳)

 不知道他脑子里能呈现出什么景象,他一落生就瞎了眼睛,从没见过这个世界。(『命は琴の弦のように』p.81)

 (そのときかれの脳裏にどんな光景が現出していたのかわからない、かれは生まれながらにして目が見えず、この世界をみたことはなかった。――引用者訳)

 一つ目の例は言語化されているものをそのまま翻訳すると、「彼が二狗の家でどのように過ごしているのかわからない、昼間は戸も開かず、夜も明かりが灯ることもない」にしかならない。では後半の節“白天不开门, 夜里不开灯(昼間は戸も開かず、夜も明かりが灯ることもない)”は前半に対してどのような意味になっているだろうか。

 これは、「彼が二狗の家でどのように過ごしているのかわからない」と判断している理由を後ろから述べているものだと考えられる。言葉を補って翻訳すると、「彼が二狗の家でどのように過ごしているのかわからない。というのも、昼間は戸も開かず、夜も明かりが灯ることもないからだ」とでもなるだろう。

 同様に次の例では、まず「かれの脳裏にどんな光景が現出していたのかわからない」と述べている。次の節を直訳すると「かれは生まれながらにして目が見えず、この世界をみたことはなかった。」となるので、意味を補って解釈すると「というのも、かれは生まれながらにして目が見えず、この世界をみたことはなかったからだ」と理解できる。もっと単純に訳すなら、やはり「のだ」を使って、「そのときかれの脳裏にどんな光景が現出していたのかわからない。かれは生まれながらにして目が見えず、この世界をみたことはなかったのだ。」としてもいいかもしれない(最後を「からだ」にするだけでもいいだろう)。  

 このように原因・理由が後続する場合、日本語ではいったん原因・理由の前で切って、「というのも」のような接続詞をくわえるか、「~からだ」「のだ」などを加えて訳すことになる。中国語では、何か述べたことの原因・理由までも含めて「一つの文」にすることが多いし、特別な標識を使用せず、単純に続けるだけで成立するのである。

 何か述べた後に、そう述べる原因や理由を続けるのは、おそらく人間にとって自然な順序であって、だからこそ接続表現等を何も表示しなくても原因・理由を表していると読者が読み取ることができるのだろう。

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
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「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

橋本陽介

1982年埼玉県生まれ。お茶の水女子大学基幹研究院助教。慶應義塾志木高等学校卒業、慶應義塾大学大学院文学研究科中国文学専攻博士課程単位取得。博士(文学)。専門は中国語を中心とした文体論、テクスト言語学。著書に、『日本語の謎を解く―最新言語学Q&A―』(新潮選書)、『中国語実況講義』(東方書店)、『「文」とは何か 愉しい日本語文法のはなし』(光文社新書)、『中国語における「流水文」の研究 「一つの文」とは何か』(東方書店)など。


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