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名ぜりふで読み解く日本史

2021年2月25日 名ぜりふで読み解く日本史

第7回 真田信繁への「寝返り工作」の真相

真田信繁「忠義に軽重なし、禄の多少によるべきや」(『武辺咄聞書』)

著者: 呉座勇一

真田信繁(幸村)肖像 上田市立博物館所蔵

創られた「幸村」像

 NHK大河ドラマ『真田丸』で示されたように、一般に真田幸村と呼ばれてきた男の本名は「真田信繁」である。『真田丸』では、大坂入城後の信繁が「幸村」と名乗ったように描かれていたが、大坂冬の陣後に親族に送った手紙でも彼は「信繁」と名乗っている。彼が生前に幸村と名乗ったという歴史的事実はない。
 真田幸村という名前を最初に用いたのは、寛文12年(1672)以前に成立した軍記物『難波戦記』と考えられている。同書は信繁を「信州上田の城主真田安房守昌幸が次男左衛門佐幸村」と紹介している。同書は講談のタネ本としても利用されたため、真田幸村の名前が世間に広まることになった。
 したがって「真田幸村」と記されている史料は、創作や脚色が多く含まれたもので、あまり信用できないと判断できる。つまり「真田幸村」は虚像なのだ。猿飛佐助ら真田十勇士を従える「真田幸村」のイメージが人口に膾炙した結果、「真田信繁」という実像が見えにくくなってしまった。
 とはいえ、私たちが抱く真田幸村像の何から何まで全てが虚構、というわけではない。確かに近世・近代の物語に描かれた「真田幸村」の天才的な計略のほとんどは作り話である。しかし、大坂冬の陣における真田丸の戦いで、真田信繁が徳川方を大いに苦しめたことは、まぎれもない事実である。

徳川方の「寝返り工作」

 真田丸の戦いで真田信繁の知略に驚いた徳川家康は、信繁を味方につけようと考える。いかにも作り話めいているが、一次史料が残っており、史実と確定できる。
 真田丸の戦いから10日後の慶長19年(1614)12月14日、徳川家康の側近である本多正純が弟の本多政重に手紙を送っている。政重は若い頃に刃傷沙汰を起こして徳川家を出奔し、関ヶ原合戦の時には西軍宇喜多秀家の家臣だった。その後、紆余曲折を経て、大坂の陣の時には加賀藩前田家の家臣になっていた。冬の陣で前田隊は真田丸の正面に配置され、真田丸の戦いでは大損害を被っている。
 本多正純はこの手紙で、真田信尹(信繁の叔父)とよく相談して信繁を寝返らせるよう政重に頼んでいる。なお、この時期には、豊臣方と徳川方の和睦交渉も進行中だった。
 ただし、この手紙には、徳川方がどのような条件で真田信繁を寝返らせようとしたかは書かれていない。交渉の経過は、後代に成立した二次史料にしか記されていないため、鵜呑みにすることはできない。
 前述の『難波戦記』は、徳川方は真田丸の戦い以前に真田幸村の調略を試みたと描写している。真田信尹(『難波戦記』は幸孝とする)は「信濃に1万石の領地を与える」という条件で信繁を口説いたが、幸村は「豊臣秀頼公は牢人の身であった私を召し出し、大軍を預け大将の称号を下さった。これは領地よりもありがたい。寝返ることなどできない」と断った。
 この返答を聞いた徳川家康は「信濃一国を与える」と条件を吊り上げた。再び真田信尹は幸村のもとに赴く。しかし幸村は「身に余る光栄であるが、秀頼公の恩と同列に並べることはできない。禄(家臣への給与)に目がくらんで寝返るなど人の道に背く。もし和議が成立し合戦が終われば、領地をもらわずとも、叔父上の家臣としてでも徳川家に奉公する。合戦の最中に裏切ることは、日本国の半分をもらってもできない」と寝返りを拒否し、もう会いに来ないでほしいと述べたという。
 延宝8年(1680)頃に成立したとされる『武辺咄聞書』では、信繁(同書は「信賀」と記す。「繁」と「賀」の崩し字は似ているので読み誤ったのだろう)の忠義をより強調している。真田信尹が1万石での寝返りを働きかけると、信繁は「8000人余りを率いる大将に引き上げてくれた秀頼公の御恩に報いなければならない」と断った。そこで今度は信濃一国と条件を上積みしたところ、信繁は怒り、「禄の多い少ないで忠義の心は変わらない。和睦が成れば叔父上の力を借りて徳川家に仕官しても良いが、合戦が続く限りは大坂で討死するつもりだ」と述べたという。
 慶安4年(1651)に浅羽成儀が慶長年間の出来事を記したとされる『慶長見聞書』では、真田信尹は10万石で信繁を誘ったとする。これに対して信繁は「秀頼様には1つの曲輪(真田丸を指す)を任せて下さった御恩があるので、寝返るわけにはいかない。和睦が成立した後で徳川家が召し抱えてくれるなら、1000石でも奉公する」と答えた。その後、信濃一国と言われて怒った、という展開は『武辺咄聞書』と同様である。

好条件に転ばなかった「忠義の士」

 さて、そもそも信濃一国を与えるという条件提示は真実だろうか。大河ドラマ『真田丸』の時代考証を担当した平山優氏は、基本的にはこの逸話を信用しているようである。「信繁は、十万石という条件提示に対しては、自分の実力をそのように評価してくれていることに満足していたのであろうが、信濃一国(約41万石相当)と条件を上げたことで、徳川の勧誘に誠意がないことを看取したのだろう」と推測している(『真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実』KADOKAWA)。すなわち、過大な恩賞を提示されたことで、徳川方に約束を守る気がないと信繁は見破った、というのである。
 同じく『真田丸』時代考証の丸島和洋氏も信濃一国提示を事実とみなしているようだ。「信濃一国を信繁に与えるためには、兄信之を含め、信濃の諸大名をどこかに転封するしかない。そのためには大名を改易する必要があるが、幕府方の大名を改易・減封させるわけにはいかないから、正純の提案は秀頼を滅ぼさないと成り立たない話なのである」と指摘している。真田信繁は豊臣秀頼の大名としての存続を望んでいたので、豊臣家滅亡につながるような調略には応じられなかったという理解である。また、そもそも信繁にとって「信頼できない話」であるとも述べている(『真田信繁の書状を読む』星海社)。
 両氏とも、好条件すぎるので真田信繁が疑った、と解釈している。けれども、この話じたいを虚構と考えた方が自然ではないか。何しろ最初の条件について、1万石と記す本と、10万石と記す本が並立しているほど、あやふやな話なのである。
 長野の郷土史家の猪坂直一は、戦前に「再度の交渉に信州一ヶ国を与えようと言ったというのは無論虚説であろう。信州一円といえば五十万石もあるし、その中には兄信幸の領地もある。それを悉く幸村に与えようなどとは、如何に策略でも言う筈が無かろうし、言うたからとて幸村の信ずべき道理はない」と説いている(『評伝真田一家』)。私も同感である。徳川家康がいかに真田信繁(幸村)を恐れたかを印象づけるための誇張であろう。
 18世紀中後期に成立したと思われる『真田三代記』では、真田幸村の忠義がより一層喧伝される。徳川家康の命を受けた信尹は幸村に対し信濃一国での寝返りを持ちかけたが、幸村は甲斐・信濃両国を要求した。家康はこれを了承し、信尹は再び真田丸に赴いた。ところが幸村は家臣の海野六郎を通じて「甲信両国では足りない。日本国六十余州(日本全国)を拝領したい。それを豊臣秀頼公に献じ、自分は切腹して首を大御所(家康)に差し上げる」と返答したという。どんどん話が大げさになっていることが分かる。
 ただ先述の通り、徳川方が真田信繁を調略しようと企み、失敗したことは事実である。10万石とか信濃一国といった条件は疑わしいが、好餌をもって誘ったのは確かだろう。「忠義に軽重なし、禄の多少によるべきや」と言ったかどうかは分からないが、毅然と断った信繁は、やはり忠義の士と言える。

※本連載は、2019年に共同通信社で配信された同タイトルの連載とは別に、著者が新たに当サイトに書き下ろしたものです。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
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それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

呉座勇一

ござ・ゆういち 1980年、東京都生まれ。歴史学者。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。専攻は日本中世史。現在、国際日本文化研究センター助教。『戦争の日本中世史』(新潮選書)で角川財団学芸賞受賞。主な著書に、『応仁の乱』(中公新書)、『一揆の原理』(ちくま学芸文庫)、『日本中世の領主一揆』(思文閣出版)、『陰謀の日本中世史』(角川新書)、『日本中世への招待』(朝日新書)など。

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