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2021年3月5日 考える四季

100万人が苦しむ吃音 新人看護師を自死に追いつめた困難とは

著者: 近藤雄生

 吃音を持つ人は人口の約1%、日本には100万人程度いるとされる。決してごく稀というわけではないながら、原因も治療法もいまなお不明だ。この問題を抱えて生きる苦しさを描いたノンフィクション『吃音 伝えられないもどかしさ』(新潮社)を、私は2019年に上梓した。その中で、北海道の新人看護師が吃音による困難を原因に自死したことについて詳しく書いたが、2020年10月、彼の死が労災であると裁判で認定された。3度繰り返された、認定しないという決定を覆してのことであり、遺族にとっても、吃音の当事者の多くにとっても、喜ばしい判決だった。この結果が意味することは何なのか。そしてその判決の内容から見えたことは。取材者、そして吃音の当事者としての立場からまとめた。

愛犬リリィと遊ぶ飯山博己さん(2010年)*飯山さんの写真はご家族提供のものです。

7年越しの労災認定

 札幌の病院に看護師として勤務していた飯山博己さん(享年34)が2013年7月に自死したことについて、2020年10月14日、札幌地方裁判所は、労災と認定した。最初の申請時とその後2回の審査(審査請求、再審査請求)で労災とは認められず、その決定の取り消しを求めて遺族が国を相手に起こした「労災給付不支給決定取消訴訟」の判決においてのことである。
 私は2019年に『吃音 伝えられないもどかしさ』を上梓した。吃音による困難を抱えて生きる複数の人の人生を、私自身の吃音当事者としての経験を踏まえて書いたノンフィクションであり、飯山さんは、その中で詳しく触れた一人だ。
 彼は、幼少期から吃音があり、ずっとその症状に悩まされてきた。大学卒業後は、警察官になるという夢を長年追ったが、主に吃音が原因でどうしても面接が突破できず、あきらめた。その後看護師という新たな目標を得て学校に通い、やはり吃音によって苦労しながらも34歳で看護師になった。しかし、病院に勤務してわずか4カ月で自死してしまったのである。
 飯山さんの死後、彼が遺したメモやその時の病院の対応などから、家族は感じた。病院で何かよほど大きな負荷がかかることがあったのではないか。吃音があって思うようにコミュニケーションが取れない飯山さんに対して、上司に当たる看護師からの過度な叱責や不適切な指導があり、それが彼の死と関係しているのではないかと。
 私は話を聞き、真相を知るべく2014年から2015年にかけて取材した。病院には取材を受けてもらうことはできず、わかることは限られたが、誠実とは言い難い病院の一連の対応や、その他諸々の状況から、自分も家族の思いに納得した。そうしたことを、本の中にできる限り書いた。
 ただ、実際に何があったのかは、わからない部分が残ったままだった。そして前述の通り、3度にわたって労災とは認められなかった。その決定の取り消しを求めて家族が裁判を始めようとしている、という2017年の状況までを、私は本の中に記したが、今回、その裁判の判決において、これまでの決定が覆されて労災と認定されたのである。
 労災ではないという決定の取り消しを求めた裁判で一転して労災認定に至ることは稀であると聞いていたため、知らせには驚いた。そして同時に嬉しかった。判決が出た夜、飯山さんの姉と電話で話すと、彼女は安堵した様子で気持ちや状況を伝えてくれるとともに、担当した2人の弁護士や支援者への感謝の言葉を繰り返した。また、その時は、まだ今後2週間は控訴される可能性があるから完全には喜べないとも言っていたが、その後、国に対して控訴しないように求める署名が800筆以上集まり、結果、控訴はされなかった。そうして2020年10月28日、労災と認定する判決が確定したのである。
 飯山さんの死から7年と3カ月。家族が抱え続けてきた怒りと悲しみの一端がようやく、一つの結果となって認められた瞬間だった。

飯山さんの件を取材していた時の北海道にて(筆者撮影、2015年)

「弱」と評価された指導による心理的負荷

 今回の判決は、喜ばしいものであった一方で、報道でその内容を見たとき私は、腑に落ちない気持ちも同時に抱いた。労災と認定はされたものの、家族が訴えていた病院の指導の問題については、十分に認められたわけではないようだったからだ。たとえば朝日新聞には次のようにある。
 <原告側は上司の指導や叱責について「業務指導の範囲を逸脱していた」と主張したが、判決は「指導の範囲内」とした。>(「吃音を責められ心に負担 自殺の看護師に労災認める判決」2020年10月14日、ウェブ版)
 家族は、指導のあり方こそが一番の問題だと考えていた。私もまた、取材を経て同様に感じた。しかし裁判における判断はそうではなかった。この点はどう考えるべきなのだろうか。

 今回の裁判で労災の認定がなされるためには、飯山さんが、病院での業務を原因として精神障害を発症して自殺した、と認められる必要があった。亡くなる少し前に精神障害(適応障害、うつ病)を発症したことは事実として認定されていたので、その発症が病院での業務に起因するという点だ。
 厚生労働省は2011年に、「心理的負荷による精神障害の認定基準」(以下、認定基準)を定めている。労災認定を決める際の基準であり、業務上の出来事が精神障害を発症するほどに大きな心理的負荷を与えるものであったかどうかは、この基準に基づいて判断される。
 そうした点を踏まえて原告(家族側)と被告(国)がそれぞれの主張を戦わせた結果、裁判所は、次の3つの具体的出来事について判決の中で取り上げ、それらが飯山さんに与えた心理的負荷を、「強」「中」「弱」の三段階の中でそれぞれ以下のように評価した。
〇患者から受けた苦情  「中」
〇試用期間の延長    「中」
〇指導担当者による指導 「弱」
 労災と認定されるためには、心理的負荷が「強」とされる出来事が1つでもあるか、または、「中」が複数個あった上で総合的な心理的負荷が「強」と評価される必要がある。今回は、「試用期間の延長」(3カ月の予定だった試用期間が1カ月延長されたことを指す)と「患者から受けた苦情」の2つの心理的負荷が「中」とされ、さらに「指導担当者による指導」の「弱」も加わった結果として、総合的な心理的負荷が「強」となり、労災と認められたのである。
 2つが「中」とされたものの、当初から家族が最も問題にしてきた「指導担当者による指導」は「弱」という評価になった。そして判決文には、飯山さんへの諸々の指導や叱責は<新人看護師に対する業務指導の範囲内のものであったと認められる>とあり、家族の認識とは小さからぬ隔たりがあった。
 家族すなわち原告は、飯山さんが、患者への説明文を読み上げる練習を繰り返し課されていたこと、また、厳しい指導や叱責を何度も受けていたことが、彼に大きな心理的負荷を与えたと主張した。前者の読み上げ練習については、吃音の専門家である大学教授の意見書が提出され、重度の吃音患者に対して非専門家が読み上げ練習を課すことは、「できない」という強い心理的負荷を生じさせる危険な行為であると指摘している。また、その他の指導や叱責については、同僚看護師の一人が、行き過ぎであり、不当だと思える指導があったことを具体的に、飯山さんの家族に話している。さらに付け加えれば、飯山さんの自死について、病院の指導者らが当初から何らかの心当たりがあった可能性を感じさせる事実も複数あった。
 しかし、こうした原告の主張は十分には認められなかった。

「『報連相』が苦手」が意味すること

 原告側の2人の弁護士にこの点について尋ねたところ、2人の弁護士の一人である安彦裕介氏は次のように話した。
「主張した通りに指導による心理的負荷が『強』と認められなかったことは残念ではありますが、労災の認定を得る上で、『弱』とはいえ心理的負荷があったと判断されたことの意味は小さくありません。裁判所の判断は、行政の作成した認定基準に拘束されません。『中』2つの心理的負荷に加えて、この『弱』があったことが、最終的に労災認定という結果につながった可能性があります」
 つまり、「弱」という評価であっても、裁判所は、指導による心理的負荷があったこと自体を否定してはいない。そして飯山さんがその結果として背負わなければならなくなった負荷や困難について考慮されたことで最終的に労災認定の判決に至ったとすれば、「弱」の意味するところはまた違って見えてくる安彦弁護士は、「労災の裁判で問題とされるのは、業務と結果との因果関係についてです。今回の裁判では、病院の過失の有無については判断されていません」とも言ったが、その意味が自分なりに理解できた。
 ただその一方で私は、今回の判決内容を読んで、吃音に伴う困難を理解してもらい、裁判という場で適切に評価してもらうことの難しさも改めて感じざるを得なかった。
 たとえば、判決文の中では、飯山さんがいわゆる「報連相」(報告・連絡・相談)が苦手であったことが認定事実の一つとして挙げられていて、その具体的内容として「先輩看護師等に相談せずに自分一人で仕事を行おうとする傾向があったほか、患者に答えた内容と異なる報告を他の看護師にすることがあった」といった点が書かれているが、それらは吃音とは直接関係のない飯山さんの課題として評価されている。
 確かに、吃音があるからといって、業務上必要な報告や連絡をしなくてもいいということにはならないだろう。しかし同時に、吃音が時に、報告や連絡を困難なものにし、大きな負担を伴うものにしうることは、実感としてよくわかる。飯山さんは、その必要性をわかっていながらも、スピード感のある現場において、ひとこと声をかけたり、伝えたり、といったことがどうしてもできなかったということがあったのではないか。また、報告をしようとしても、思った通りの言葉を発することができなくて、表現を変えたりしたことで結果として異なる形で伝わってしまうということがあったのではないか。飯山さんが遺したメモの中には、一度ならず、報連相をしっかりやらなければ、と自身を鼓舞するような言葉が記されているのである。
 伝えなければと思っていても、それができない。そしてそのことで焦り、さらなる負荷がたまっていく。そうしたことがおそらくあったと私は思う。当事者のそのような困難は、曖昧さやわかりにくさを含むため、裁判で十分に考慮されることを期待するのは難しい。何をもって十分に考慮されたとするべきかも簡単には言えないだろう。ただ、それだからこそ、飯山さんが背負っていたであろう困難やそれゆえの葛藤について、広く想像してもらいたいといま思う。吃音は、通常の想定をはるかに超えて当事者の行動に影響を与えうるものなのだ。

看護学校における大切な儀式である「戴帽式」に臨む飯山さん(2009年)

病院に欠如していたもの

 50ページを超える判決文を読み、疑問を感じたり考え込まされたりした点は上記以外にも複数あったが、証拠に基づく判断として考えると、それなりに納得できた。
 ただ今回、事の経緯を振り返って改めて痛感するのは、病院の指導者たちがもう少しでも、想像力や思いやりを持てていれば、ということである。私は2014年に、病院を訪れて、飯山さんが亡くなった当時の看護部長と受話器越しに話したが、その時の彼女の態度にすべてが表れているような気がしてならない。飯山さんの件で話を聞きたいと言った私に対し、彼女は、何か話をしてくれるどころか、一度も飯山さんの名前を口にせず、また、自身のもとで看護師人生を歩み始めた新人が自死したことに対する無念さなどを滲ませることも一切なく、ただ不快感だけを露にしたのだ。
 その後、2度病院に取材依頼書を送ったが、いずれの返事も、一枚のA4の紙に形式的な短文が数行書かれていただけだった。家族への対応も、ほとんどがこの調子と重なることは拙著を読んでいただくとわかると思う。
 私は、職場において常に飯山さんへの配慮が完全に行き届いていなければならなかったとは考えていない。命を預かる病院の現場で、時に看護師の言葉や指導が厳しくなることがあるのも想像できる。ただ、そうであっても、指導者らが、新人でかつ吃音を抱える飯山さんの困難を少しでも想像し、サポートしよう、一緒にやっていこう、という気持ちをしっかりと持てていれば、同様の指導や叱責をしたとしても、飯山さんが受けた心理的負荷は異なったのではないだろうか。そこまで追い詰められることはなかったのではないだろうか。
 医療の現場であることを考えればなおさら、障害を持つ人に対する想像力や、理解しようとする気持ちがもっとあってしかるべきだろう。そうした意識が、おそらく指導者らに深刻に欠如していた。そのことが残念でならない。


 しかしそれでも、今回、飯山さんの死が労災と認められたことは、家族そして飯山さんの無念さを少しでも晴らすものになったのではないかと思う。そしてさらにこの判決は、別の意味も持つように感じている。原告側のもう一人の弁護士である大賀浩一氏によれば、上述した吃音の専門家である大学教授が寄せた意見書に対して、裁判官からは通常想定される以上の補充質問があり、裁判官側の意気込みを感じたという。そして結果、3度繰り返された決定を取り消して労災を認めるという、極めて稀らしい判決が出たのだ。家族と弁護士たちの強い思いが届いたのであろうとともに、吃音という問題に対する社会の意識が変化した表れのようにも感じる。今回の判決が少しでも、吃音、さらにはその他のさまざまな見えにくい障害に対する理解へとつながるものになることを願う。
 判決が出た翌月の2020年11月、私は札幌で、飯山さんの友人の一人である藤井哲之進さんに会った。その時に藤井さんが言ったことが深く心の中に残った。
「飯山さんが亡くなってからいままで、ふとしたときに思い浮かぶ彼の表情は、吃音で苦しそうにしている時の様子ばかりでした。でも、今回の判決が出てから、それが変化したことに気がつきました。彼の笑顔や、楽しく過ごしている姿が、いまはよく思い浮かぶようになったんです」
 藤井さんのその言葉を心に留め、その夜、私は、一人で食事を済ませてホテルに帰った。そしてコロナ禍の影響で会うことが叶わなくなった、飯山さんの両親と姉と、オンラインで対面した。直接会った時と同様な飯山家の明るい雰囲気をモニター越しに感じながら、私は時折、彼らの部屋に飾られた飯山さんの写真を眺めた。画面の向こうで、家族4人が楽しそうに笑っているようにも見えた。

家族全員で撮った最後と思われる写真。洞爺湖温泉にて。この直後に、飯山さんは看護学校に入学した(2009年)

吃音 伝えられないもどかしさ

近藤雄生

2019/1/30発売

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考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

近藤雄生

こんどう・ゆうき 1976(昭和51)年東京都生まれ。東京大学工学部卒業、同大学院修了。2003年、旅をしながら文章を書いて暮らそうと、結婚直後に妻とともに日本を発つ。 オーストラリア、東南アジア、中国、ユーラシア大陸で、約5年半の間、旅・定住を繰り返しながら月刊誌や週刊誌にルポルタージュなどを寄稿。2008年に帰国、以来京都市在住。著書に『遊牧夫婦』シリーズ(ミシマ社、角川文庫)、『旅に出よう』(岩波ジュニア新書)、『吃音 伝えられないもどかしさ』(新潮社、講談社本田靖春ノンフィクション賞・新潮ドキュメント賞最終候補、本屋大賞ノンフィクション本大賞ノミネート作)、『オオカミと野生のイヌ』(エクスナレッジ、本文執筆)など。最新刊に『まだ見ぬあの地へ』(産業編集センター)。大谷大学/京都芸術大学/放送大学 非常勤講師、理系ライター集団「チーム・パスカル」メンバー。

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