シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。
知の楽しみにあふれたWebマガジン。
 
 

おんなのじかん

2021年3月17日 おんなのじかん

29. 特別になりたかった私たちへ(最終回)

著者: 吉川トリコ

 みんなが「花束みたいな恋をした」の話をしている。どいつもこいつも猫も杓子もである。もちろん私もした。大いにした。それだけでは飽き足らず、いままさにこの連載でも「花恋」の話をしようとしている。
 2021年2月も終わりに差しかかった現在、コロナウイルスの新規感染者数が多少減ってきたものの、いまだ緊急事態宣言下にあるので、あくまで概念の井戸端――ツイッターやクラブハウスやラジオやポッドキャストなど――で観測するかぎりなのだが、おもに20代から40代にかけての文化系人間たちが、「花恋」を観たらその話しかできなくなってしまうかのように、ひたすらずっと「花恋」の話――というより「花恋」を呼び水にした自分語りを続けている。田舎生まれ文化系育ち自意識高めのやつらは大体友だちどころかできれば避けて通りたい私としては、彼らの話を聞いているだけで「いっそ殺してくれ!!!」という気持ちになってしまうのだが。
 未見の方のために概要をざっと説明すると、人気脚本家・坂元裕二による二十代の男女の出会いから別れまでを描いた年ほどの恋愛(のようなもの)映画で、主演は菅田将暉と有村架純。2021年2月下旬の現在、四週連続で国内映画ランキング一位を獲得する大ヒットとなっている。
 たまたま出会った二人の男女が一晩で意気投合し、恋愛関係に発展していく――と書いてしまえばありふれたよくある恋愛もののように思われるかもしれないが、意気投合のために用いられる二人の共通点が、好きな本だったり芸人だったりミュージシャンだったり映画だったりするものだからもうたいへん! なのである。しかも並べられた固有名詞のどれもが、ややマイナーな、いわゆる「サブカル」ばかり(※主人公たちが好む現代日本の純文学は「サブカル」ではなくむしろメインカルチャーなのではという気がしないでもないが)とくれば全身の毛穴から脂汗が噴き出して止まらない。「ありふれたよくある恋愛もの」となめてかかっていたものが、実は「ありふれたよくある俺たちの話」であったときの衝撃よ。かくして、共感性羞恥とノスタルジーとアイデンティティクライシスの追体験、モラトリアムに対する男女間の差異など、もろもろの感情でぐちゃぐちゃになって映画館を出た文化系ゾンビたちが、夜な夜な「花恋」の話をする現象が巻き起こっているというわけだ。
 しかし、映画の主題はそこにはなく、無数に並べられた固有名詞にばかり気を取られていると置いてきぼりを食らうはめになるのだが、無数に並べられた固有名詞に気を取られることの高揚感と愚かさも同時に描かれていて、きびしくてやさしい、実に坂元裕二らしい作品であった。主人公の二人は、菅田将暉と有村架純が主演する恋愛映画なんて本来なら見向きもしないはずだけど、脚本が坂元裕二なら行ってみようかな、なんて思ったりしそう。そんで、どこかの映画館でばったり鉢合わせたりなんかしてそう。そんなところも絶妙に意地悪で好きだ。

 自分と同じものが好きだからという理由でその人のことを好きになる。
 若いころには、恋愛にかぎらず、そういう結びつきがあった。まだインターネットのなかった時代、田舎で生まれ育った、ややマイナーな「サブカル」趣味の人間にとって、自分と同じものを観たり聞いたり読んだりしている相手に現実で出会うことなんて、ほとんど奇跡に近いことだった。固有名詞だけでコミュニケーションを取った気になり、固有名詞だけでマイメン認定していたような若かりしころがたしかに私にもあった。そうです、ミクシィのプロフィール欄にずらずらと固有名詞を並べていたのは私です(挙手)。
 ばらやゆり、マーガレットやガーベラ、いまの季節だったらミモザ――いろとりどりの花を集めて作られた花束が、そのまんま自分をあらわしているのだと錯覚していた。同じ種類の花を抱えていればいるほど相手を近しく感じ、変わった色や品種の花をたくさん持っている人ほどクールという謎の評価基準があり、自分たちが見向きもしないメジャーどころの花(桜とか?)で満足している「大衆」を陰でバカにしたりもしていた。
 これまでに観たり聞いたり読んだりしてきたカルチャー、その集積がいまの自分を形作っていることは疑いようもないけれど、だからといって固有名詞だけで私ができあがるはずもない。「二人が見ているものはほんとうに同じものなのか?」という容赦のない問いが「花恋」の劇中でもくりかえし提示されていたが、同じものを観たり聞いたり読んだりしている人間がまったく同じ人間になるかといったら、もちろんそうではない。そんなあたりまえすぎるほどあたりまえのことに気づくまでに、ずいぶん長い時間がかかってしまった。
 だけどそれを花束と呼ぶのは、やっぱりすごくやさしいことなんじゃないかと思う。

 90年代は個性の時代だった。
 みんなが同じ方向を向いて進んでいた時代が終わり、オルタナティブが台頭してきた時代。そのまんま「オルタナティブロック」が一大ムーブメントを巻き起こし、バブル崩壊とともにDCブランドブームが終焉を迎え、一点ものの古着やインディーブランドの個性的なアイテムをミックスさせておしゃれを楽しむストリートファッションの時代がやってきた。
 そんな時代の空気を敏感に察知していた田舎の少女だった私は、とにかく凡庸で平凡であることを怖れていた。光GENJIや別マ、エドワード・ファーロング、「ボクたちのドラマシリーズ」――みんなが好きになるものもそれなりに好きだったけど、それよりもっと熱中したのはユニコーンや電気グルーヴやフリッパーズ・ギターや岡崎京子だった。ここに「少年ジャンプ」やコバルト文庫、白泉社系少女マンガなどのオタク文化と、「ツイン・ピークス」や「ビバリーヒルズ高校白書」、町に一軒しかないレンタルビデオ屋でせっせと借りてきて観ていた欧米映画を加えて、文化系まっしぐらですくすく育ったのが私である。「Olive」も「mc Sister」も「PeeWee」も好きだったけど、いちばん夢中で読んでいたファッション雑誌はより個性的で攻撃的な「CUTiE」だった(なのに「FRUiTS」までいくと個性的過ぎてちょっと……と引いていた)。制服のボタンを安全ピンに付け替えて、ルーズソックス全盛の時代に真っ青なハイソックスを履き、全身ピンクを身にまとい、「女らしい」とか「いいお嫁さんになりそう」とかいった世間の物差しを全身全霊で拒否していた。
 とにかく私は特別になりたかった。特別な女の子だと人から認められたかったし、認めさせたかった。特別になりたくて人とちがうものを好きになっていたのか、人とちがうものが好きだから特別になりたかったのかは、鶏が先か卵が先かみたいなことになりそうで自分でもよくわからないのだけど、「ふつうの女の子」はつまんない人生を送るしかないという強迫観念に突き動かされてのことだったのではないかといまになって思う。
 田舎で生まれ育った「ふつうの女の子」は、そのまま田舎に留まり、だれかの妻や母になるしかないのだと、いつのまにか私は思い込んでいた。自分の周囲にいる大人の女たちがみなそうであるように、ドラマやコンサバな少女マンガに出てくる大人の女性たちはみんなだれかの妻や母であるか、いずれはだれかの妻や母になることを望んでいた。
 そこから逃げる方法(オルタナティブ)を示してくれたのが、私にとっては個性的なファッションであり、岡崎京子であり、ホリー・ゴライトリーであり小泉今日子であり野沢直子であり、そして「東京ラブストーリー」の赤名リカだった。「ふつうの女の子」なんかじゃない、黙って言うことをきくような女じゃないのだと示すためにそれらのアイテムを必要とした私は、同時にコンサバファッション=忌むべきものだと記号的に思い込んでもいた。

 00年代に入ると一転、コンサバファッションの代名詞である「赤文字系」が隆盛を極め、「モテ」や「女子力」などという言葉が時代の空気を染め抜いていったので、当時の私の危機感もあながちまちがいでもなかったかもしれない。
 10年代に入ると今度は、おしゃれなんてしてもしなくてもどっちでもいいし、なんならシンプル極まりない平々凡々なノームコアがいちばんおしゃれという時代が訪れ、時流を読むのに長けたセンスのいい女の子たちはみなこぞってロハス方面に舵を切り、いちはやく「私らしさ」を獲得していった。エッジの効いた、相手を威嚇するようなアイテムをなにか一つでも身につけていないと落ち着かない90年代の申し子のような私にとっては苦難の日々だったといえる(そう思うと、いついかなるときでもギャルはギャルだからすごい)。
 しかし、「外見やファッションで他人をジャッジすることこそイケてない」という時代の空気は存外に心地のいいもので、次第に私の心を解きほぐし、鋲のびっしりついたバッグや肩こりが悪化しそうなぶっといブリンブリンや「聖闘士星矢」のゴールドクロスのようなバングルは、いつのまにかクローゼットから消滅していた。いまでは、気づくと全身ユニクロなんて日がざらにある。
 カルチャー方面においても、オタクが市民権を得た現在では人とちがうことがデフォルトで、そこに余計な自意識を働かせるのはクールじゃないこととされている。SNSの普及によって多様な価値観や生き方が可視化され、他者との境界線が以前よりくっきりとし、肩肘を張って「個性」を示さなくてもよくなったというのもあるかもしれない。
 かくいう私も二十代の終わりにメジャー中のメジャー、日本のトップ・オブ・メジャーコンテンツである嵐にドハマりしたのをきっかけに、転がる石のようにミーハー道を突き進んでいる。いまでは日本が誇るヤンキーカルチャーの代表格LDHに夢中で、テレビドラマの初回はすべて自動的にハードディスクに録画されるよう設定してあるし、人気俳優は男も女もみんな大好き、話題の映画やマンガや海外ドラマはできるかぎりチェックするようにもしている。節操きわまりない超ミーハー、それが2021年2月現在の私だ。そもそも坂元裕二だって、なぜか「俺たちの」と思ってしまうふしがあるけれど、キャリアの超初期に「東京ラブストーリー」を書いた超がつくほどのヒットメイカーだしね。

 あんなにも忌み嫌っていた平々凡々なおばさんと化したいまの私を見たら、あのころの私はどう思うだろう。
 それこそありったけのブリンブリンを全身ぶらさげるように固有名詞を並べたて、個性的なんだかトンチキなんだかよくわからないファッションをし、だれも知らない自分にだけフィットするカルチャーはないかと夜な夜なヴィレヴァン、タワレコ、ゲオを徘徊し血眼になってディグりまくっていたあのころ。
 類は友を呼ぶみたいに、特別になりたかった女の子たちがまわりにたくさんいた。「不思議ちゃん」があちこちで産声をあげ、ロリータファッションが爆誕し、「rockin’on」を胸に抱き、ピンクのドクターマーチンの紐を固く締めあげ、「ベティ・ブルー」に涙していたあの子たち。
「私、変わってるってよく言われるんです」
 と自己紹介代わりに宣言する女の子が飲み会には必ずいて、そんな女の子たちをバカにして笑う男の子たちも掃いて捨てるほどいた。
 私はそういう子たちとはちがいます、ちゃんとわきまえた女ですと示すために彼らといっしょになって笑い、心をがさがさに擦りむかせながら、あのとき私はなにを得ようとしていたんだろう。
 だれでもよかったんだろうな、あの男の子たち。自分の話をけらけら笑って聞いてくれる女の子ならだれでも。
 けれど、それなら私も同じだ。私を特別だと認めてくれるなら、だれでもよかったんだから。

 いまの私は特別でもなんでもないけれど、ようやく私自身になれたような気がしている。
 あのころ、特別になりたかったみんなたちはいまどこでどうしてるんだろう。田舎に帰ってだれかの妻や母になったんだろうか。それとも都会の人波にまぎれて暮らしてる? ホリー・ゴライトリーのようにいつも旅の中にいるみたいな生活をしている子も中にはいるかもしれない。どんな生き方を選んでいたとしても、胸に抱えた花束をたいせつに慈しみながら、自分らしく元気にやってるといいなと思う。
 いつかどこかでばったり再会し、昔話に花を咲かせられることを願って、ひとまずいまはそれぞれの道をいくことにしよう。

※「おんなのじかん」は今回が最終回となります。ご愛読ありがとうございました。当連載をまとめた単行本を、新潮社から刊行予定です。

この記事をシェアする

MAIL MAGAZINE

「考える人」から生まれた本

  • 春間豪太郎草原の国キルギスで勇者になった男

もっとみる

テーマ

  • くらし
  • たべる
  • ことば
  • 自然
  • まなぶ
  • 思い出すこと
  • からだ
  • こころ
  • 世の中のうごき
  •  

考える人とはとは

 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

吉川トリコ

よしかわ・とりこ 1977(昭和52)年生れ。2004(平成16)年「ねむりひめ」で女による女のためのR-18文学賞大賞・読者賞受賞。著書に『しゃぼん』『グッモーエビアン!』『少女病』『ミドリのミ』『ずっと名古屋』『光の庭』『マリー・アントワネットの日記』(Rose/Bleu)『女優の娘』などがある。

連載一覧


ランキング

イベント

テーマ

  • くらし
  • たべる
  • ことば
  • 自然
  • まなぶ
  • 思い出すこと
  • からだ
  • こころ
  • 世の中のうごき

  • ABJマークは、この電子書店・電子書籍配信サービスが、著作権者からコンテンツ使用許諾を得た正規版配信サービスであることを示す登録商標(登録番号第6091713号)です。ABJマークを掲示しているサービスの一覧はこちら