子が親の生産物でないことはもはやわたしたちには自明だ。親子関係とは本質的に一方から他方に対する制御や所有の関係ではありえない。
哲学者のイヴァン・イリイチは、近代社会における人間の共生可能性についての考察を行なった『Tools for Conviviality』(「コンヴィヴィアリティのための道具」)のなかで、産業化のプロセスについて次のように指摘している。消費社会のリアリズムは、本来は動詞であった概念を名詞に変化させ、そのことによって本来は相互に変化しあうような関係が、単純な所有のロジックに転化すると指摘している。
たしかに今日の社会の諸システム――メディア、教育、行政、経済、法律――は個々人に対して、「仕事をする」ことや「学ぶ」こと、「家を作る」ことよりも、「仕事を持つ」ことや「学歴を持つこと」、「家を持つこと」を奨励し、経済の流れに与するように訴えかけている。そうしていつのまにか、生きることの目的が、他者との交流ではなく、自己の保全となる。イリイチの指摘を受け継いで考えてみれば、同じように、「子と生きる」ことも今日においては「子を持つ」という所有の表現に成り下がり、それがまるで社会的ステータスであるかのように認知されてはいないだろうか。しかし、親が子を一方的に「作る」とか「持つ」といった表現は、生命のリアリズムからひどく乖離した、根本的な錯誤に基づいている。親とは原理的に、偶有的に出現した子と「共に在る」ことで自らもまた「かたちづくられる」存在だからだ。
ベイトソンが関係性と情報の問題を追求する契機を作った数学者ノーバート・ウィーナーによって、世界を動的なシステムとして捉え、その複雑な機構をモデル化して解き明かそうとして立ち上げられたサイバネティクスとは、まずもって「Control and Communication in the Animal and the Machine」の問題を考えるものとして始まった。「制御とコミュニケーション」という命題は、一方では合理的な計算システムを構築するための技術的課題として受け止める向きが生まれ、他方では簡単には解決することのできない矛盾として受け止める向きが生じた。前者に与するジョン・フォン・ノイマンやクロード・シャノンたち数学者によって、情報は定量化された単位に還元され、現代のコンピュータとネットワーク通信の基礎がかたちづくられた。後者の流れでは、ベイトソン、ハインツ・フォン・フェルスター、フランシスコ・ヴァレラ、エヴァン・トンプソンといった、文化人類学から認知科学者に至る多様な領域の研究者が「生命的システムとはなにか」という問いに、統合的な解決を見ることなく今日に至るまで向き合い続けてきた。
なかでもチベット仏教徒にして認知科学者フランシスコ・ヴァレラは、神経生理学研究における細胞の観察を通して、生命現象の本質が「自己を構成する要素を自律的に生産し続ける働き(autopoiesis)」であると主張した。そして、社会が個々の生命を内包するのではなく、生命現象こそが社会というサブシステムを包含すると考え、生命の自律性の原理を社会のスケールにまで拡張する方法を考えた。その過程でヴァレラは、フォン・ノイマンとウィーナーにそれぞれ他律性と自律性を象徴させる奇妙な比較表を描いている。
入出力インタフェースと中央演算処理ユニット、そして記憶装置という現代において主流である計算機は、その基本構想を行なった数学者の名前を冠してフォン・ノイマン型アーキテクチャと呼ばれる。対して、サイバネティクスを立ち上げたウィーナーの構想は、いまだ実現されていない。実際、フォン・ノイマン型のコンピュータが社会に進出していく時期において、ウィーナーは歯切れの悪い批判を繰り返していたが、フォン・ノイマンほどに明確な設計図を書き残すことはしなかった。ただ、今日のいわゆる人工知能による人間存在に対する影響の議論を60年以上先取りする論考を多く残している。たとえば、その代表的な書籍『Human Use of Human Beings』のなかでは、機械的知性そのものが人間の脅威になるとは考えづらく、最終的には人間が他者を機械的に制御可能であるという認識よりも大きい脅威は存在しないだろうと書いている。
ヴァレラは、ウィーナーの言説のなかに生命と機械を分離したり対立させたりしない統合的な認識論を見て取り、生物学的自律性の概念を人間存在や社会システムにまで伸長させる議論のなかでフォン・ノイマン型計算機と比較したのが以下の図である。
F. Varela : “Autonomie et Connaissance – Essai sur le Vivant” (Eds. du Seuil, Paris, 1989), P222より筆者翻訳・再作成