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カラスの悪だくみ

2019年2月26日 カラスの悪だくみ

第19回 センス・オブ・アート

著者: 松原始

や、自分が発揮するわけではない。同僚である展示デザイナーのコンセプトとかアイディアが、美的センスに貫かれているのだ。私は、電動ドライバーを握って「この辺っすか?」と額を取り付け、「ごめん、やっぱりもうちょっと下げて」などと言われてやり直す役割である。

さて、人間以外の動物に美的感覚はあるか? というと、これはちょっと難しい問題である。そもそも何かを創作しないと美的感覚は発揮できないが、大概の動物はモノを作らない。まあ、巣穴を掘ったりする動物は多いが、そういった実用一辺倒な構造物に美的センスが必要かどうか、という問題がある。

そも、人間にはいつから「美的感覚」があったか。古そうな例としては、2万年ほど前にクロマニヨン人が描いたラスコー洞窟の壁画があるだろう。この洞窟にはひたすら絵だけがあり、生活の痕跡がほとんどない。となると住居ではなく、絵を描くための特別な場所であったとしか思えないのだが、何かの祈りの場所であったのか、美術館のようなものであったのか、それはわかっていない。だが、描かれたモチーフが動物ばかりで、人間がほとんど登場しないことからも、なんらかの意図を持って描かれたのは間違いないだろう。さらに、揺らぐ松明の明かりで見ると動物たちが動いているように見えたのではないか、などという意見もあって、決して原始的で初歩的な落書きなどではない。

このような壁画はいくつもあるが、最近、スペインのラパシエガ洞窟の壁画はネアンデルタール人が描いたものだという説が出た。事実だとすると、絵を描いた動物は我々だけではないことになる。クロマニヨン人は現代人そのものと言ってもいいが、ネアンデルタール人はクロマニヨン人より古い時代から出現した、我々に極めて近縁な別種あるいは亜種だ。別に旧タイプの劣った人類というわけではなく、クロマニヨン人とは兄弟のような関係にある。

第一、現生人類にもネアンデルタール人の遺伝子は受け継がれており、クロマニヨン人と混血していたと考えられている。さらに言えば、ネアンデルタール人のいた時代、アルタイ地方にはデニソワ人という人類もいた。デニソワ人とネアンデルタール人の混血らしい化石が見つかっているので、現生人類がデニソワ人の血をも受け継いでいても、不思議ではないだろう。ホモ・サピエンスという同一種の中で人種がどうの、混血がどうのと騒ぐようではご先祖様に顔向けできない。


化石人類の創作物といえば、石器もある。ネアンデルタール人はルヴァロワ式の打製石器を作った。ハンドアックスと呼ばれる手に持って使う石器もあれば、やじりと思われるものもある。ハンドアックスにはさまざまな大きさや形のものがあり、獲物を狩る以外に、ナイフとして獲物を解体する目的などにも使われたのだろう。

その中には、現代人の目から見ても非常に美しいと感じられるラインを持ったものがある。左右も対称なら裏表も対称、まるで測ったように同じ曲線を描く石器は、両面同じように使えて便利という意味もあったかもしれないが、実用性から離れて「わざわざきれいに作った」ようにも思われる。そして、何万年も隔てた現代人にとっても、石器の尖端に向けて絞られた角度、曲線と直線の組み合わせ、まるで水滴のように整った形状といったものが、妙に「美しい」というツボにはまるのである。


さて、ではその「ツボ」って、何?

左右対称性への好みは、動物にわりと普遍的なものかもしれない、という考えはある。例えば、クジャクの尾の目玉模様について、数が多いだけでなく、左右対称でシンメトリーな方がメスにモテる、とした研究がある(クジャクが広げているのは、正確には尾羽の一部と上尾筒だが)。逆にわずかにシンメトリーからズレている方がいいとか、平均からちょっとだけズレている方がよくて、かつそのズレ方が左右均等な方がいいとか、実に様々な理論がある。なんにしても、大胆に左右対称を崩した方がいい、という例はない。そもそも、そこまで非対称な動物というのがあまりいない。片方の鋏だけが巨大なシオマネキくらいか。

対称性への好みが存在するとしたら、もともとは繁殖相手を選ぶためだったかもしれない。体が左右均等であることは、「発生過程で大きな怪我や障害を持たなかった」という指標にはなり得る。対称性の高い繁殖相手を選ぶ個体は、結果として生育の良い相手を選ぶことになり、子孫の生存に有利だった、というような例はあり得るだろう。その結果、生まれつき「対称性が好き」といった傾向が進化したなら、その好みは動物の体内に脈々と受け継がれ、しまいにはネアンデルタール人が石を叩き合わせた時に「む、これは他の石器よりもなんかイイ!」と考える原因になった、かもしれない。

いや、あくまで「かもしれない」だけなのだが。


少なくとも鳥にとって、目玉模様と輝くばかりの色彩はかなり「ツボ」なようだ。キジの仲間には目玉模様を身にまとってメスを呼ぶものがしばしばいる。セイランというキジ科の鳥では、単なる目玉模様に止まらず、円形の模様に陰影がついて、立体的に見えるようになっているものまである。インパクトはあるが、水ぶくれのようで少々気持ち悪い。

どう考えてもやりすぎなのはカタカケフウチョウだ。パッと見ると胸元に青いエプロンのような飾り羽があるくらいで、あとは全身漆黒のどうということもない鳥だが、頭の後ろに畳まれた飾り羽を開くと、その姿は一変する。まず、飾り羽が巨大な襟を広げたようになり、真っ黒な楕円形(半開きだと三日月型)が出現する。しかも、本当の目の少し上にも飾り羽が隠れており、鮮やかなセルリアンブルーに輝くスポットが二つできる。さらに胸の飾り羽を全開すると「にかっ」と笑った口のような、やはり青く輝く模様が出る。「黒ベタの楕円の中で、輝く目玉と口が笑っている」としかいいようのない姿になってしまうのだ。そして、この状態でメスを誘うためにステップを踏んで踊るのである。

カタカケフウチョウ(撮影 松井淳)

ただし、クジャクもフウチョウも、自分で自分の体をデザインすることはできない。方向性のない、デタラメな突然変異の中でメスの審美眼に叶うものだけが子孫を残す、という受け身なやり方で進化してきたものである。選ぶ側が見定める時に発揮される「美意識」であり、いわば鑑賞者の目の問題だ。

では、「作り手」としての美意識はどうだろうか。ちょっと面白いのが、ニワシドリの仲間である。アズマヤドリと呼ばれるのも同じ仲間。

ニワシドリはメスを呼ぶために飾り立てた「庭」や「通路」を作り、ここで踊る。これは巣ではなく、メスの気を惹くためだけにある。つまり、オスたちはメスの審美眼に叶うような構造を、自分で作り上げなくてはいけない。そのためにオスたちは心血をそそぐ。

アオアズマヤドリという鳥は、自分の庭を青くすることにこだわる。タイル、ガラス片、ペットボトルの蓋など、とにかく青いものを拾って来て敷き詰めるのである。本来、自然界に「青」はそんなにある色ではない。花やザリガニなどには青系のものがないわけではないが、どちらかというと希少なものだったはずだ。そういった「宝物」を持っている個体は、探索に時間をかける余裕があり、拾って来たものを守りきる力もある、ということになる。つまり、宝物を介して自分の能力をアピールしているわけだ。ちなみにこの仲間は他人の庭から良さそうな飾りを盗んで来ることがある。ライバルの庭をぶっ壊して妨害する奴までいる。芸術家肌かと思ったら、やることが割とえげつない。

アオアズマヤドリ(撮影 松井淳)

もっとも、最近は人間がいろんな「青いもの」を作り出して捨てるので、青の希少価値が下がっているような気はする。それでもやめないところを見ると、「青がいい」という性質は遺伝的に刷り込まれて修正できないのだろう。

他のニワシドリの仲間の作る庭には、ワンポイントで色味を入れたり、地色を白にして赤を混ぜたり、本人が頑張ってデザインしたのではないか? と思いたくなるような例もある。地色を敷き詰めておくのは、差し色のコントラストを強調するためだろう。これが生まれつきの能力なのか、学習して身につけるものなのか、個体差がどれほどあるのか、そういった点はまだ研究途上である。

最近わかったことだが、オオニワシドリはなんと遠近法を利用する。大きな飾りほど庭の奥に置かれる傾向があり、これによって、全ての飾りが同じ大きさに見えるようにしているのではないかという。

ところが、より遠近法に叶うように研究者が並べ替えると、元に戻してしまったという話である。ということは、なんだかよくわからない理由で「これはここに置かなくてはならない」というコダワリ、「理想とする形」というのが、どうやらあるのだ。それがニワシドリの美意識なのか、彼らなりの理詰めのメソッドであるのかはわからないが。さらによくわからないのは、飾りの配置が幾何学的な方が、求愛の成功率が高いと報告されていることだ。オスの独りよがりではなく、メスもちゃんと審査を行っているのである。

オオニワシドリ(撮影 松井淳)

さて、お約束として、カラスの話題を振ろう。カラスは凝った構造物を作ったりはしないし、巣作りにあたってもハンガーの配色にこだわったりはしないようだ。だが、彼らは貯食、つまり餌を隠しておくことに関しては、こだわりを見せることがある。

カラスはしばしば、落ち葉の下などに餌を隠す。ハシブトガラスでは雑に枝の上に置いて行くだけ、といった場合もあるのだが、ハシボソガラスはとにかく「餌を完全に埋めてしまうこと」にこだわる。まず落ち葉を一口ずつ取り除けて5センチくらいの深さまで穴を掘り、そこに餌を入れる。そして、その上に落ち葉を1枚かぶせる。それから、取り除いていた落ち葉をまた戻す。戻した跡はちょっと盛り上がるので、くちばしでつついて押し込む。

それから2、3歩下がって確かめ、またチョイチョイとつつき、くちばしで地面をならして、また下がって確かめる。そうやって出来栄えを確認して、「うむ、これでよし」と飛び去るのである。その出来栄えは恐ろしいばかりで、たとえ埋めるところを観察していても、絶対に見つけられない。

この行動は、考えてやっているというよりは「この動作をしないと行動が終了しない」といった、いわばコンピューターのプログラムが走っているような状態なのかもしれないが、何かこう、「理想とする状態と現状を見比べて、理想に近づける」といった行動であるようにも見える。

これを、美意識に似た何か、あるいは美意識に繋がる何かかもしれないと考えたら、妄想のしすぎだろうか?

実用的

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何かについて考え、それが「わかる」とはどういうことでしょうか。

「わかる」のが当然だった時代は終わり、平成も終わり、現在は「わからない」が当然な時代です。わからないことを前提として、自分なりの考え方を模索するしかありません。

わかるとは、いわば自分の外側にあるものを、自分の尺度に照らして新しく再構成していくこと。

“Plain living, high thinking”(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)*を編集理念に、Webメディア「考える人」は、わかりたい読者に向けて、知の楽しみにあふれたコンテンツをお届けします。

*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

松原始

まつばら・はじめ 1969年奈良県生まれ。京都大学理学部卒業、同大学院理学研究科博士課程修了。専門は動物行動学。東京大学総合研究博物館の特任助教。研究テーマはカラスの行動と進化。著書に『カラスの教科書』ほか。もちろん悪だくみなどしていない。心に浮かぶ由無し事を考えているだけである。ククク……

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