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デモクラシーと芸術

2019年1月30日 デモクラシーと芸術

第1回 芸術からレジームを読む

著者: 猪木武徳

※文中の曲名をクリックすると、曲の一部を試聴できます。
※ナクソス・ミュージック・ライブラリー(NML)非会員の方は冒頭30秒ですが、会員の方は、全曲を試聴できます。

芸術と社会体制

 読者にある程度の見通しを持っていただくために、この連載のねらいと、始めることになったきっかけをまず簡単に記しておきたい。
 中学生以来、わたしは音楽に魅せられ続けてきた。趣味の良い同好の友人が数人いたことも幸運だった。高校時代に校内のクラス対抗の合唱コンクールで、モーツァルトのモテット「アヴェ・ヴェルム・コルプス」(K.V.618)を歌って、何かが心に沁みわたるような感覚を味わったことを憶えている。それまで自分でも気づかなかった感情を呼び起こされたのである。
 そして感動から覚めると、なぜ自分が音楽というものに魅せられるのか不思議に思ったものだ。音楽とはいったい何なのだろう。空気の振動がなぜ自分の心を「共振」させるのか。もちろんこの漠たる問いに、美学や脳と心の「科学」を学んだことのないものが答えられるわけはない。
 答えのないまま、結局、職業として社会研究の道に進むことになった。しかし長く歩んできた道もいつか細りはじめ、気が付いてみるとおぼろで荒涼とした景色を前にして、立ち往生するような歳になってしまった。そんなとき、60年も昔に自分が発した問いをもう一度考え直してみようという気持ちになった。悠々ではないものの自適の生活に入り、数年前から音楽の世界に深入りするようになって、芸術と社会の関係についてヒントになるような考えが去来するようになったからだ。
 音楽作品は本質的に建設的かつ創造的な人間の活動の産物である。それを演奏や鑑賞のために再現するには、多くの人の共同作業を必要とする。しかし作品そのものは基本的に「個人」のアイディアと技によって生み出される。だが、「個人」の美という価値意識を作り上げる要素として、その「個人」が現実に生きた社会体制を無視できるのか。社会風土(mores)、慣習や伝統を知ることなしに、芸術を単に「個人」の技として切り取りその価値を云々はできない。生まれた土壌から抜き取ることは,芸術の「いのち」を傷つけることになりかねないからだ。
 18世紀以降の西洋音楽に限っても、作曲家たちはどのような政治経済体制のもとで、何をテーマに、いかなる様式の作品を創造し、注文主やパトロン、同業者、あるいは楽しむ人々(「受け手」)側からの評価を意識していたのか。その点を考慮せずして芸術活動を論ずることはできないのではないか。そうした反省から、芸術家たち(「送り手」)の職業生活と、芸術を享受する人々(「受け手」)の趣味(tastes)の世界を、社会体制の影響を読み取りながら、芸術という人間の精神性と深くかかわる活動として、捉え直してみたいと考えたのである。
 この連載で書き記そうとしているのは、「美の本質」を正面から論ずる芸術論や、美学理論ではない。そのような形而上学的な試みはわたしの身の丈には合っていない。本連載は芸術(主として西洋音楽)という創造の世界を、政治体制や経済システムとの関連から捉える試論にすぎない。芸術家が遺した作品を生んだ社会体制(regime)を通して、人間の「影」のようなものを分析することになるかもしれない。だが、それが「美とは何か」という問題に近づくひとつのルートではないかと考える。

合理性の行き過ぎと反社会性

 以上のような問いは、既存の学問によって解き明かされるのだろうか。現代のほとんどの学問は、問題の設定の仕方であれ探求の方法であれ、人間の思考や行動の合理性(consistency―無矛盾性)を前提としている。正確かつ確実なことを「真理」とみなし、それを厳密に「記述する」ことをその必須条件とする。
 しかし例外もある。人間の精神世界を扱う人文学、例えば歴史学、哲学、思想史、政治学などは、理性による「論証」や説明を必ずしも目標としているわけではない。論証する(verify)というよりも探求する(explore)こと自体が学問であるような研究領域があるのだ。いつまでも問い続けなければならないという性格の学問である。
 特に文学は、「人間は謎」だという事実をいかに示すか、「謎」そのものをどのような形であぶり出すのかにひとつの大きな役割がある。この作業は数学的な「論証」の枠には納まらない。ヴィーコー(1668-1744)の言葉を使えば、デカルト(1596-1650)の言う確実な真理を「記述する」だけではなく、「真らしい」ことがらについて、想像力をめぐらして事細かに「物語る」方法の学問である。
 ドストエフスキーやトーマス・マンの小説の粗筋を要約したところで、そこに新たな発見があるわけではない。むしろ細部の観察や予期せぬ感情の動きに、読む者は「そうだったのか」という不思議な共感を覚えるのだ。言い換えれば、18世紀以降の近代科学が前提とする「合理性」や、「数少ない要素でできるだけ多くの現象を説明する」という理論の効率性の原則に固執する限り、人間と人間感情の謎に迫ることは難しい。
 改めて考えると、人間というのはおかしな動物だ。人間社会は、「個人」という意識や概念の発生よりもはるかに古くから存在する。ミツバチやシロアリなどのように群生動物であった人間は、他の生物が生み出しえなかった複雑な言語を用いながら、法や、交換の正義を保証するための貨幣を創り出して社会秩序を築く過程で、徐々に「個人」を発見してきたのだ。「個人」は社会、あるいは社会体制の中から生まれ出たと言えよう。音楽家でもあり、写譜業を生活の足しにしていた思想家ルソー(1712-1778)がモデル化したような、「個人間の契約」によって社会が生まれたという方向だけを見るのは一面的で不十分だ。社会体制が「個人」を生み出すという側面は無視できない。
 また厄介なことに、人間はつねに「社会的動物」であるわけではない。「反社会性」も併せ持っている。ときに憎悪や報復感といった「反社会的」な感情を抱き、それが行動にあらわれる。党派的になりやすい、利己的な態度になる、法を破ろうとする、独断的で協調しようとしないなどの性向は、人間の「反社会性」の具体的な現れである。「合理性」と「社会性」だけで人間を理解できないとすれば、伝統的な学問は必ずしも人間の理解に強い力を発揮できないということになる。
 確かに人間が真理を求めたがり、知ることを欲するとしても、ではなぜ虚構(fiction)である神話や小説、そして冗談や機智を好むのか。あるいはなぜ規則や約束事、あるいは形式に縛られた音楽や絵画を創作し、それを鑑賞することに喜びを感じるのかを十分に説明することはできない。
 さらに、音楽や絵画を熱烈に愛好するとしても、その愛好の「理由」が同じというわけではない。たとえモーツァルトの崇拝者と意気投合して、オペラ『コジ・ファン・トゥッテ』(K.V.588)の素晴らしさを語りあっても、「いやあれは『フィガロの結婚』(K.V.492)や『ドン・ジョヴァンニ』(K.V.527)には及ばない」と一蹴されることがある。好みは慣習や流行によって影響を受けるだけでなく、同世代であっても人によって微妙に異なるのである(De gustibus non est disputandum)。しかし『コジ』の第1幕の小三重唱(Terzettino)、 Soave sia il vento の美しさに文字通りウットリしないものはいないだろう。共通感覚というものはあるのだ。
 このような人間の複雑な性向や好みの一致不一致をめぐる問題を解きほぐす試みは、多義的かつ多様な解釈を許す芸術の本質そのものを探求することにもなろう。人間の「反社会性」の克服と「非合理性」の理解の可能性も、この多義的で多様な解釈を許す芸術に潜んでいるのではなかろうか。合理性を前提とする科学的な学問だけではこの難問の解は得られない。
  「芸術は人を穏やかにする」と指摘されることがある。技芸の洗練と進歩は、人々を寛容かつ温和にすると哲学者D.ヒューム(1711~1776)も述べている。
 昔、知人が怒り狂うような事柄に遭遇し、精神の激しい動揺を来したとき、夫人にパッヒェルベル(1653-1706)のカノン(in D)を聴かされて、魔法にかかった動物のように平静を取り戻したという経験を話してくれたことがあった。論理的思考と(経済)合理性は容易に行き過ぎる。その行き過ぎは、時に人を凶暴にする。理性以外のすべてを失った人間はどうなるのか、その例を身近に見つけることはそれ程難しくはない。人間を、そうした怒りや冷たさから護り、心を穏やかにしてくれるという機能が芸術にはある。芸術にはときに魂の救済ともなりうるような力があるのではなかろうか。
 こうした芸術と人間(感情)の関係を、社会体制(regime)の視点から少し立ち入って考え、「デモクラシーと芸術」についてあれこれ考えてみたくなったというわけだ。

平等と「多数者の支配」という体制 

 では現代の慌ただしい産業社会に生きるわれわれは、いかなる政治と経済の体制(regime)のもとで生活しているのであろうか。それはデモクラシーと市場経済を中核とする体制と要約することができよう。政治も経済も「数」が、そして「数だけ」が、物事の最終的な決定原理となっている。現代の芸術世界について考える場合も、この「多数者の支配」という事実を軽視することはできない。
 演奏会や音楽業界も資本という「分量」の力が市場を支配する(クラシック音楽の業界で寡占的に市場を支配している”Arts Management”会社〔たとえば Askonas Holt など〕が、いかに人々の「好み」に影響を与えているのかを後で考えてみる)。経済的な力を持つ国のアーティストが市場で成功しやすいという傾向も近年指摘される。世界で多くの中国人演奏家の活躍が目立ち始めたのは、中国の資本力の増大と無関係ではなかろう。そうした「多数の支配」体制に「順応」するのであれ「対応」するのであれ、「送り手」である芸術家が創作行為にたずさわるとき、市場や資本を中心とする経済力と切り離すことはできないはずだ。
 では政治体制としてのデモクラシーは、いかなる類型の人間を生み出すのだろうか。「デモクラシーは祖先を忘れさせるだけでなく、子孫の姿を見えなくし、一人一人を同時代の人々から引き離す」(トクヴィル『アメリカのデモクラシー 第二巻(上)』松本礼二訳、岩波書店)と言う。また、死者が投票権を持たないデモクラシーという政体は、伝統と親和的であることは難しい(チェスタトン『正統とは何か』)とも言われる。伝統の中で形成された美意識や美的な作品は、デモクラシーという政体のもとではとかく忘れ去られやすいのではないか。
 近代デモクラシーの歴史を振り返りながら、デモクラシーという体制の中で芸術はいかなる運命をたどってきたのかを知る必要がある。そして衰弱しつつある伝統的な芸術活動を公共的に支える政策の必要性をどう説明するか。伝統芸術を保護するとすれば、そのためにどのような補完的な装置の導入が望ましいのかについても検討されねばならない。
 衰退傾向が顕著な一部伝統芸能は、いかにして生き延びればよいのか。生物世界では、絶滅種の保護運動の根拠が話題に上る。芸術の世界でも「国家による伝統芸能の保護」を求める議論が出てくる。伝統芸術(芸能)が「完全に」消滅するということはありうるのか。ここにも国家と国民の選択問題が伏在している。ただ、社会を「バラバラの個人」と「国家」という二項対立で把握するだけではこの問いへの十分な答えは得られない。個人は独りではあまりにも弱い。だからこそ個人の連携、職人たちの「結社」(同好の人々あるいは利害が共通する者たちの連携)がもたらす力を、芸術の場でも生かさなければならないのではないか。
 経済体制としての市場システムも、結局は「多数」の好むものを選び抜く。政府の干渉を認めつつ、経済合理的な力を発揮できる市場制度が社会主義計画経済よりはるかに優れていることを、20世紀の歴史的「大実験」を通して学んだ。しかし市場メカニズムが完璧なシステムであるとは言い難い。したがって市場とデモクラシーを無条件で礼賛するだけでは疑似的な宗教になりかねない。それらの長所と欠点を正確に理解しつつ、さらに「善き社会」の生成に結び付くように修正を加えなければならない。
 だとすれば、競争とは何か、市場競争の美点と限界はどこにあるのかを見極めなければならない。そうした作業があって初めて、独占や国家の市場への干渉の是非について論ずる視座が定まる。具体的には、芸術活動に対する国家からの奨励や保護の根拠をどこに求めるのかを問い直すということだ。芸術への大きな財政支出がモーツァルトやゴッホを必ず生み出すわけではない。
 また芸術に関わる産業の市場が世界的規模で拡大する中で、リベラル・デモクラシーとナショナリズムをいかに調和させるのかという問題も、芸術における民族性や国家意識と深く関わってくる。自国の文化的な価値とその固有性をどの程度、どのように保持しながら共存の知恵を探り、普遍的な美しさへの共通感情を見出していくのか。この難問にも芸術の世界が関わっている。この種の問いに対して、先人たちはいかに立ち向かってきたのか、過去にも厳しい議論があったはずだ。

技術革新と政治的自由の問題

 リベラル・デモクラシーと市場経済の進展に歩調を合わせつつ、19世紀以降の産業化(industrialization)は新技術を体化した巨大な資本設備に支えられ多くの富を創出してきた。政治・経済体制が芸術活動にいかなる変化をもたらしてきたのかを考える視点は、以上述べたようにいくつかあったが、いまひとつ重要な視点として、この産業化に伴う複製技術の進歩が創作活動や鑑賞へ与える影響の問題、そして作品を評価する専門家集団の問題の二つが挙げられよう。
 高度な複製技術の発達によって、芸術作品の「受け手」の鑑賞スタイルも変化してきた。レコードに始まり、YouTubeなどのインターネットによる鑑賞に至るまで、再生技術と複製技術は高度化し進化を遂げた。「聴衆」が通う音楽ホールでの演奏会だけでなく、「独り」で自分の部屋に閉じこもって演奏を楽しむという鑑賞スタイルが常態化した。さらに複製技術によって量産体制に入った音楽産業界は、数々の「スーパースター」を生み出し、芸術家の間の所得格差を拡大させたことを経済学の研究は示している。
 また、作品の評価システムが「多数の支配」の体制でなされない場合は、どのようなことが起こるのか。端的には芸術と独裁体制の関係として現れる。この問題への答えは一筋縄で得られるものではない。政治的自由が奪われた社会主義国家にも優れた芸術作品は生まれている。音楽の世界でも、革命後の旧ソ連では当局からの干渉は激しかった。韜晦や擬態はあったと推測されるが、スターリン体制下のソ連でもプロコフィエフやショスタコヴィッチをはじめ、優れた作曲家や演奏者は多く生まれている。他方、自由に創作活動に携われるリベラル・デモクラシーの社会で、偉大な芸術家が多く輩出しているかというと、必ずしもそうではなさそうだ。
 プロコフィエフは1918年3月、革命後のロシアを離れ、6月に日本を経由して9月初旬にニューヨークに到着する大旅行を試みなければならなかった。しかし彼はその後ソ連へ戻り、1937年には『10月革命20周年のためのカンタータ』(作品74)、1939年には『スターリンへの祝詞』(作品85)を、そして戦後も、1947年に『花咲く力強き国』(10月革命30周年記念序曲)(作品114)など、スターリン体制への応援歌を作曲している。
 こうした活動は彼の他の多くの傑作の音楽的価値を貶めるものではなかろう。この種の政治と芸術の問題は、音楽だけでなく絵画をはじめ、芸術のあらゆるジャンルにかかわっている。文学においてはかなり明確な形で現れた。政治と芸術の結びつきは容易に批判の対象となるが、芸術が政治に奉仕することが必ずしも芸術の劣化に結びついてきたわけではない。しかし「社会主義リアリズム」といわれる様式に魅力的な作品が少ないことは事実だ。体制が才能を殺すこともあれば、逆に弾圧が芸術的技巧を高めることもありうるだろう。
 連載初回の最後に、2、3の断り書きを加えておく。先に述べた通り、本連載は芸術という「創造の世界」を経済システムや政治体制との関連で考察することにあり、「美の本質」を論ずることにあるわけではない。分析のフレームワークは筆者が長年親しんできた経済学の知見をベースにすることが多い。もちろん、すべてこのフレームワークにとらわれるわけではないが、「受け手」(需要側)と「送り手」(供給側)の区別は、経済学の最も基本的な枠組みであり、価値の決定、評価のメカニズム、 仲介者(いわゆるパトロン、マネージャー、音楽事務所, arts management companies)の役割等々、経済学の思考方法は問題を切り分ける上で多くのヒントを与えてくれる。
 また、以下の文章で「芸術」という言葉を使う場合、ときに絵画を含む芸術一般を指すこともあるが、ほとんどの場合、西洋音楽、いわゆるクラシック音楽を意味している。それは筆者にいささかの知識と経験があるのは、この分野だけだという事情による。この連載の隠れた目的は、よく耳にする、芸術は「役に立たない」、「無駄だ」という杜撰な通説に反駁することにある。芸術は人間の魂の問題と深く関わると考えるからだ。

※この連載は、ナクソス・ミュージック・ライブラリーに全面的にご協力いただいています。
※参考文献については、単行本刊行時にまとめて表示いたします。

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考える人とはとは

何かについて考え、それが「わかる」とはどういうことでしょうか。

「わかる」のが当然だった時代は終わり、平成も終わり、現在は「わからない」が当然な時代です。わからないことを前提として、自分なりの考え方を模索するしかありません。

わかるとは、いわば自分の外側にあるものを、自分の尺度に照らして新しく再構成していくこと。

“Plain living, high thinking”(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)*を編集理念に、Webメディア「考える人」は、わかりたい読者に向けて、知の楽しみにあふれたコンテンツをお届けします。

*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

猪木武徳

いのきたけのり 1945年、滋賀県生まれ。経済学者。大阪大学名誉教授。元日本経済学会会長。京都大学経済学部卒業、マサチューセッツ工科大学大学院修了。大阪大学経済学部教授、国際日本文化研究センター所長、青山学院大学特任教授等を歴任。主な著書に、『経済思想』『自由と秩序』『戦後世界経済史』『経済学に何ができるか』など。

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