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デモクラシーと芸術

2019年2月27日 デモクラシーと芸術

第2回 ハイドンのミサ曲はなぜオペラ化したのか

著者: 猪木武徳

※文中の曲名をクリックすると、曲の一部を試聴できます。
※ナクソス・ミュージック・ライブラリー(NML)非会員の方は冒頭30秒ですが、会員の方は、全曲を試聴できます。

定義の議論は避ける

 「芸術とは何か」、「芸術家とは誰なのか」という難問が控えていることは確かに気になるところではある。しかしこの問いに正面から向き合うのはそれほど得策ではない。そもそも「芸術とは何か」を論じることができたとしても、芸術家か否かの区別は凡そ灰色で、境界がはっきりするわけではない。芸術が日常生活を超えたもので、芸術家がそうした別世界に入りうる人間であることは確かだとしても、そうした人間がどのように生まれるのかは謎でしかない。その道の一人前になるために教育施設(例えば音楽学校)や徒弟的な訓練を経て、その技能を証明する「修了証書」がある分野は存在する。しかし全くの独学・独習でその道の技量を身につける場合(autodidact)もありうる。
 「わたしは詩人だ」と言えば詩人とみなされることもあるように、「わたしはアーティストだ」と言えば、アーティストになりうるケースもあろう。したがって、こうした定義と本質(いわゆるDas Wesen)を云々することや、アーティスト(芸術家―artist)とアーチザン(職人―artisan)を分けること、あるいは芸術と芸能を区別するような議論は、いわゆるred herring(燻製ニシン)となりかねない。狐の通った跡を燻製ニシンを引いて横切ると、狐のにおいが消えて猟犬が迷う。概して「本質論」はred herringになることが多い。先に述べたように、こうした問題には概念を定義して定理を命題として打ち立て、それを証明するというような数学的な論の進め方は適さない。
 この点は、プロとアマチュアをどう区別するのかにも関わってくる。プロとアマの境界が、現代社会、特に日本社会でははっきりしなくなっている分野が少なくない。もちろん一般にはプロはその技能を職業として経済生活を組み立てているもの、アマは趣味としての芸術活動を行うもの、と一応区別はできる。しかし問題は、それが技能面からの区別と一致するかどうかというところにある。
 プロとアマチュアについては、ロシアの名ソプラノ、ガリーナ・ヴィシネフスカヤ(チェリストのロストロポーヴィチ夫人)が、「アマチュアが自分の歓びを求めるのに対して、芸術家は舞台にひかれて観衆に訴えかけたいと思う。このように他人のために演じたいという願望を、天職と呼ぶことができるのよ。」と、鋭く指摘している。(M・ロストロポーヴィチ、G・ヴィシネフスカヤ『ロシア・音楽・自由』より)

 日本では、分野によっては「プロ的アマ」(プロ並みの技能をもったアマ)が大量発生し、「自分の歓びを求める」アマと「観衆に訴えかけたい」プロの区別がつきにくくなっている。「プロ的アマ」が特に日本に多いと感じる統計的な根拠は残念ながらない。こうした現象のひとつの要因は、この連載でも後で問題にするが、電子技術や複製技術の驚異的な進歩があげられる。身近な例で言うと、芸能界で活躍するプロの歌手と、カラオケで腕を磨いた素人歌手の実力の差はどれほどあるのだろうか。「歌手」として芸能界で活動するには、「歌える」という技能以外の要素(例えば、アイドルとしての資質など)が要求される場合が多く、歌自体の実力にプロとアマの差がないと感じさせる例がある。カラオケによって、みんなが「歌い手」という意識が広がったとも言える。ブログを書くことで、みんなが作家気分を味わえることとも共通する。
 これはデモクラシーの精神が広く染み込んだ社会に特有の現象であろう。「機会の平等」が与えられている社会では、身分に縛られることなく誰でも芸能や文筆の世界にエントリーできる。参入者が増えると、競争が激しくなり技能水準の高いものが選抜される確率が高まる。しかし試験による選抜という「資格に基づく供給制限」がない世界では、参入者の増加は質の低下を招きやすい。それは、近代までの芸術・芸能の世界において、身分制度をベースにした専門家(職人)集団内の教育・訓練制度によって供給を制限し、職人たちの技能の低下を防ごうとしたシステムと好対照をなす。
 こうした問題の複雑さと難しさを考えると、むしろ、具体的な例を取り上げて検討してゆくほうが、はるかに問題の核心に迫れるように思う。そこで音楽作品に対する「需要と供給」の世界を、「受け手」と「送り手」の二つの立場に分けて考えることにする。もちろん音楽は、実際その作品が教会、宮廷やサロン、あるいは劇場で演奏される場合、演奏する側と聴く側双方が同じ空間にいるため、そこで気持ちが相互に交差することがある。したがって、誰が聴いているのかによって演奏が異なるということも起こりえた。聴衆が演奏への共感を持つか否かが、演奏そのものを変えてしまうこともありうるのだ。そういう意味では音楽作品の演奏は、演奏家と聴き手との共同作業によって成り立つという面もあろう。しかしここでは歴史上の作曲者や演奏家が「誰を、そして何を意識して」作曲し、演奏したのかという点に問題をまず絞ってみたい。

匿名から個人の名前へ

 もともと芸術作品を生み出した人々には、その作品と上演を(神事の折に)神さまに捧げるという姿勢があった。楽器の製造についてもこの「捧げる」という慣習が存在した。誰のために作ったのかが重要だとして、楽器の製造者の名前は多くの場合匿名であった。オルガンは13世紀には教会の楽器としての地位を確立していたが、バロック期に大型化する前から、製作者の名前はなく、soli Deo gloria(ただ神にのみ栄光あれ)とだけ記されていた。匿名の慣習は、個人の名とは無関係に、オルガンの善さが神に向けられていたことを意味していた。中世は社会の中に個人が埋没していた時代とも言えよう。「個人」はまだ発見されていなかったと言ってもよい。
 この慣習は音楽や美術の世界だけではなかった。作家、学者、パンフレット作者、役人、そして建築家も12、3世紀あたりまで、作者は多くの場合匿名であった。あのストラスブールの大聖堂を設計建築したのが誰なのか、また中世(13世紀末)の多声音楽の重要な理論書の作者は(AnonymousIVと呼ばれ)誰なのか、全くの匿名であった。現代の大都市に置かれた巨大なオブジェの製作者の名前が明示されているのとは対照的である。
 かつてスウェーデンの映画監督のI. ベルイマン(1918-2007)は、彼の作品、「第七の封印」の目指すところはどこにあるのかと問われて、次のように述べた。

イングマール・ベルイマン

 ――シャルトル大聖堂が落雷で瓦解したとき、多くの建築請負師、芸術家、職人、労働者、百姓、貴族、僧侶、多くの市民たちが、瓦礫と化した聖堂のまさに四方八方から蟻の大行列のごとく集まり、長い労働の末、大聖堂を再建した。彼らはすべて無名であり、誰がこのシャルトルの大聖堂を建設あるいは再建したのかは今日でもわからない。(中略)今日では個人というものが芸術的創造にとって最高の形式となると同時に、実は芸術にとって最大の毒(bane)と化して来ている。エゴのどんな小さな傷も痛みも、あたかも永遠の重要物が隠されているかの如くにおしつけがましく語られる(The Seventh Seal, a film by Ingmar Bergman〔Simon and Schuster,1960〕のIntroduction より)。
 近世以降の芸術家が、自己の孤立、主観性、個人主義を神聖視しているとベルイマンは指摘するのだ。近代デモクラシーと商業主義が浸透した社会では、個人の尊重が強調され、ひとりひとりの「個性」が重視され、その「個性」が芸術を生み出すという点にのみ関心が集中するようになった。
 18世紀末までは、教会、王侯貴族が音楽を注文し、職人としての音楽家がその注文に応ずるという形で音楽作品が生み出されていた。作品番号(Opus)を付して作品が出版されるのは、モーツァルトやハイドンの時代にはまだ確立された慣行ではなかった。モーツァルトの場合、父レオポルドが息子の作品の出版をライプツィヒの楽譜出版社Breitkopfに売り込む手紙をしばしば書いている(1772年2月7日、1775年10月6日、1781年2月12日)。ベルリンのGeorg Ludwig WinterがC.P.E.Bachの作品を出版していることに触れ、Winterから出版の可能性も考えると書いて、相手の出方を探っている。個人名での出版の競争状況を示している点で興味深い。ちなみに、作品が出版された順序を示す「作品番号(Opus)」と、のちの研究者が作品の作曲順序を調査して作成した「作品目録番号」や「整理番号」(例えばバッハのBWV(Bach-Werke-Verzeichnis)、モーツァルトのケッヒェル番号(K.V.)、シューベルトのドイッチュ番号Dなど)とは性格が異なる。作品番号は作曲者の個人名とともに出版される。この慣行はベートーヴェンのころほぼ確立されたと考えてよい。ただしベートーヴェン以後の作曲家でも、(ロッシーニ、ヴェルディ、マーラーのように)作品番号を付けない作曲家も少なくなかった。したがって作品番号を付けているか否かという形式的な問題ではなく、誰の作品かが同定できたかどうか、その楽譜の出版・売買が作曲者に収入をもたらしたか否かが問題となる。
 デモクラシーと商業化が社会の基本制度となると、音楽の「生産」過程と、音楽が演奏され鑑賞される場所にも次第に変化が生じて来る。この変化の特質は、西欧における政治と社会生活におけるキリスト教の位置づけの変化とともに進行した。音楽が、キリスト教教会のミサなどの典礼(Liturgy)のための「実用の音楽」としての位置だけでなく、宮廷の王侯貴族の気晴らしや遊び、あるいはブルジョワジーの日常生活や特別な行事のための付随物としての役割が大きくなり、人々の生活の中で占めるキリスト教の重みが失われ始めると、音楽も教会から劇場へと、その創作目的や演奏の場所を移し始めるのである。

教会から劇場へ

 場所の変化は、曲の形式、そして演奏形態にもあらわれてくる。ただ変化は一気に起こったわけではない。音楽がどこに行けばよいのか、迷い、躊躇しているような移行期間があったのだ。それを見事に示しているのがフランツ・ヨゼフ・ハイドン(1732-1809)とヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791)の作品群であろう。例を挙げてみたい。
  ハイドンは、モーツァルトとほぼ同時代に、ほぼ同じ地域で活動した。そのためにモーツァルトに比べ少し影が薄い(overshadowedされた)感がある。確かに彼はモーツァルトのような傑作オペラを書いたとは言い難い。しかし、弦楽四重奏曲や交響曲の分野で古典主義的ソナタ形式を確立し、和声や旋律でも多くの新機軸をもたらした点では、モーツァルトに比肩しうる大作曲家だ。モーツァルトとベートーヴェンがハイドンから受けた影響は大きく、自作をハイドンに献呈している。(もっとも、ウィーンでハイドンを直接に師と仰いだ時期のあったベートーヴェンと師ハイドンとの間には、ピアノ三重奏(Op.1-3)の出版をめぐるエピソードが示すような複雑な個人的感情のもつれがあったようだが。)

F・J・ハイドン
W・A・モーツァルト

 興味深いことに、この老ハイドンと若者モーツァルトは、24の歳の差にもかかわらず、相互に強い尊敬の気持ちで結ばれていた。偉大な音楽家が必ずしも同時代の同業者や音楽の「受け手」によって正当に評価されるとは限らない。それどころか無理解な連中から嫉妬され排斥されたりすることもある。しかし偉大な芸術家は、同時代の他の偉大な芸術家を的確に評価する眼を持っている。モーツァルトとハイドンはまさにそうした関係にあった。
 この事実を知るとき、何となくうれしく思う人は多いはずだ。その点を少し具体的に述べておこう(以下はモーツァルト一家の手紙からの情報を再構成した)。
 1785年2月中旬、モーツァルトの父、レオポルド(66歳)は、息子アマデウス(29歳)のいるウィーンへの旅に出た。到着後、旅装を解く十分な余裕のないまま、アマデウスが前晩に大急ぎで完成させたピアノ・コンチェルト(K.V.466)のコンサート(Mehlgrubeで行われた)に行き、息子の作品の素晴らしさに圧倒され大満足だとの手紙(1785年2月11日付)をアマデウスの姉、ナンネルに送っている。コンサートの翌日の夜、ハイドンはモーツァルトの新しいアパート(Grosse Schülerstrasse)で開かれた室内楽のコンサートに招かれている。モーツァルトはゲストの演奏家を交えて、彼自身の新しい弦楽四重奏曲3曲(K.V.458K.V.464K.V.465)を披露した(ヴォルフガングはビオラを、レオポルドはバイオリン・パートを受け持ったようだ)。
  このコンサートの名誉ゲストであったハイドンが、レオポルドに「神の前で、そして正直な一人の人間として申し上げます。あなたの息子さんはわたしが直接あるいは評判で知っている中で最も偉大な作曲家です。彼は優れたセンスだけでなく、作曲に関する最も包括的な知識を持っています」と伝えている。その6か月後、モーツァルトは先の3曲に、それより前に作曲された3曲を加えた全6曲の弦楽四重奏をハイドンに献呈している。いわゆる『「ハイドンセット」弦楽四重奏』である。
  そのハイドンが、モーツァルトを凌ぐような作品を残した分野はミサ曲ではなかろうか。もちろんモーツァルトにも、12歳で作曲した「孤児院ミサ(ハ短調)」(K.V.139)、自らの発意で作曲に取り掛かったが未完成に終わった「大ミサ曲(ハ短調)」(K.V.427)のような傑作はある。しかし質量ともに優れたミサ曲を残したのはハイドンの方だと思う。そのハイドンのミサ曲は、音楽が教会と劇場の間を彷徨う姿を、見事に、そして極めて麗しい形で示してくれている。
  ハイドンは、ハンガリー国境近くの(当時はハンガリー領であった)アイゼンシュタットにあるエステルハージ侯爵家の宮廷楽長としてその生涯の大半を過ごした。そのため、多作な彼の作品カタログ(100を超える交響曲、80を超える弦楽四重奏……)の中で宗教音楽が占めるウエイトは比較的低い。オペラは13曲が現存するが、生前に出版されたのは2曲にすぎない。ハイドンがエステルハージ家という辺境で仕事をしていたため、そもそもウィーンなどの大劇場での上演の機会があまりなかったことが、彼のオペラへの熱意を生まなかったとも考えられる。彼の作曲したミサ曲14曲(うち1曲は紛失)のうち、特に晩年に作曲された6曲は宗教と音楽の関係を改めて示唆するような感動的な作品であると同時に、その感動が、宗教的なものであるのか、劇場的なものであるのか、戸惑いを覚えさせる格好の例となっている。
  ちなみに、相良憲昭『音楽史の中のミサ曲』(音楽之友社、1993年)では、ハイドンのミサ曲を彼が50歳(1782年)までに作曲した8曲(そのうち1曲は紛失)と65歳(1797年)以降の最晩年に作曲した6曲とに分けて論じている。相良氏は、この二つの作品グループの間に約14年もの開きがある事情は明らかではない、としつつ、「当時のオーストリア皇帝ヨーゼフ二世はカトリック教会に盛んにくちばしを突っ込み、典礼を簡素化するために楽器伴奏つきの荘厳ミサを規制しており、そのためにハイドンが嫌気がさしたのだともいわれている」と推量している。
 確かに一世代前のバッハの時代から、教会の音楽は長くならないように、そしてオペラまがいにならないように、という項目がカントール(教会音楽の指導者)の契約書に記されている。ハイドンの時代の宮廷における楽長の仕事は、雑用係と現場監督を兼ねたようなものであり、決して社会的地位の高い仕事ではなかったことがわかる(西原 稔『音楽家の社会史』音楽之友社、1998年)。
  さてハイドンのミサ曲のうち、 第一の作品群の中にも、長大な「聖セシリア・ミサ」のように、すでに教会から劇場への移行を遂げてしまったような名曲もある。しかしその動きがよりはっきりするのは第二のグループに属する晩年のミサ曲であろう。そのうち特にわたしが好む「戦時のミサ(ハ長調)」(Missa in Tempore Belli)(1796)のGloriaの中のqui tollis peccata mundi, miserere nobis(世の罪を除きたもう主よ、われらを憐れみたまえ)では、バリトン歌手がチェロのオブリガートで歌う。このメロディーを切り取ってオペラのアリアだと言えばそう信じる人は多いであろう。
 さらにハイドン晩年の「テレジア・ミサ Theresienmesse」(1799)におけるCredoのEt incarnatus est de Spiritu Sancto はソプラノ・ソロで歌われる。先に述べたモーツァルトが、自発的に(依頼されたものではなく)1783年に作曲した大ミサ(K.V.427、未完)のCredoのEt incarnatus est de Spiritu Sancto も同じような劇場的な雰囲気を持つ作品だ。聴くものは次のように思うはずだ――「これはオペラのアリアではないか !?」。
 こうした声楽曲をオペラ的だと思わせるひとつの重要な要因として、オーケストレーションが交響曲のそれに近くなったことがあげられる。彼の発展させた交響曲の作曲技法の向上が、教会内で演奏されるミサ曲を劇場へと導いたという側面もあったのではないか。ハイドン晩年のオラトリオ「四季」が典礼音楽とオペラを融合させた作品だといわれるのも頷ける。

※この連載は、ナクソス・ミュージック・ライブラリーに全面的にご協力いただいています。
※参考文献については、単行本刊行時にまとめて表示いたします。

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*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

猪木武徳

いのきたけのり 1945年、滋賀県生まれ。経済学者。大阪大学名誉教授。元日本経済学会会長。京都大学経済学部卒業、マサチューセッツ工科大学大学院修了。大阪大学経済学部教授、国際日本文化研究センター所長、青山学院大学特任教授等を歴任。主な著書に、『経済思想』『自由と秩序』『戦後世界経済史』『経済学に何ができるか』『自由の思想史』など。

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