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雑貨の終わり

2019年6月3日 雑貨の終わり

べつのポートランドで

著者: 三品輝起

衣食住のあらゆるものが「雑貨」となり、消費されてゆく――。東京の西荻で雑貨屋を営んで十四年、その移り変わりを眺めてきた店主が「雑貨化」について考現し、「物」と「雑貨」のはざまで揺れ動く人間模様をつづるエッセイ。

「うまい反逆方法を考えるにも、この街では難儀する。広告代理店や資本主義的アルチザン会社、ローカル週刊紙は、誰かが人の注意を惹きつけようものならすぐさま取りこんでしまうからだ。アンダーグラウンドのムーブメントはキノコに似ていて、成長するには冷暗な環境が必要だ」(CD『サッド・ホース』スウィート・ドリームス・プレス、エリック・アイザックソンによるライナーノーツより)

 多くの場合、多様性にひらかれた都市について語るということは、そのひとが見たいものをその都市のなかに見つけることだ。だから、あるひとにとって便利で安全で楽しい街は、べつのだれかにとって醜悪で不自由な街だったりする。その逆もしかり。たとえば、ポートランドという都市をめぐるブームの興亡なんて題目はすでに、ひとつのちっぽけな価値観にすぎない。だから、私はすぐさま「ジェントリフィケーション? 安全できれいな街になるんだしいいじゃない」という言葉のまえで立ちすくむことになるだろう。ひとは都市に見たいものを見る。眼に映るどれもが真実であるならば、いま都市を語ることは、なんとむなしい営みなんだろう。

 オレゴン州ポートランド。それは私の知る雑貨界において、今世紀にはいってしばらくして発見されたフロンティアだった。見つけられてから十年くらいたつとポートランドはアメリカでもっとも環境とひとにやさしくて平等で自由で創造的でDIY精神に富み、なによりお洒落な、つまり理想のリベラルな都市として光が当てられた。そんな場所があろうはずもなかったが、あらゆる先進的な市民運動のこころみや企業誘致の成功談にまぎれて、レコード、コーヒー、古書、ジン、自転車、クラフトビール、スケートボード、活版印刷……といった、すぐにでも雑貨化できそうなスモールビジネスの活況さが漏れつたわってくると、雑貨界は動いた。この商機をのがすまいと、たくさんの輸入業者が二〇一〇年ごろから本格的にポートランドへのりこんでいって、さまざまな工房やメーカーを訪ね歩いては契約書をかわし雑貨を仕入れてくる。保存のきく食料品を中心に、キッチン用品、工芸、服飾、美容、ハンドプリントしたあれやこれや……かならずパンフレットにはエコだのDIYの手仕事だのと書いてあって、髭をはやし腕にタトゥーがはいった職人が、無骨でさっぱりした工房で物づくりにいそしむイメージ写真があった。いまでも謎なのは、商品名の多くに、長体のかかったフェルトペンで手書きしたような英字フォントがつかわれていたことだ。あれはなんだったのだろうか。しかもよく見るとポートランドとは関係ない、カリフォルニアのセレブたちに愛用されている健康グッズや、ニューヨークの高級店に卸されているというふれこみの生活用品なども、みんないっしょくたになってパンフレットに掲載されていた。もちろんあの謎のフォントをつかって。どうせアメリカ国内での産地のちがいなんてわからないだろう、ということなんだとそのとき理解していたが、もうしばらくすると、ヒップなアメリカ風雑貨をアジアで自社生産するところもでてきて、ますますカオスになっていった。
 そんなこんなで、いまやポートランドの雑貨をあつかうメーカーなんて腐るほどあるわけだが、私はブームが萎えてきた現在でも、そのうちの一社の営業マンのことが忘れられずにいる。男はポートランドに出張に行ったあと、雑貨界からすがたを消した。

 割烹着を着たおばあさんが、江戸の茶運び人形みたいな足どりで、黒々とした玉こんにゃくを運んでくる。驚くほど暗い店内に目がなれてくると、お通しの玉こんよりもさらに黒い重厚な木のカウンターがコの字型にあって、ほぼ満席であることがわかった。そのまわりを日本民藝館にでもならんでいそうな漆塗りの棚や大ぶりの雑器が囲んでいる。老舗っぽいのだが、でもなにかがおかしい。抽象的なジャズピアノが天井の瓢箪から流れ、トイレの入口には小さな提灯と「厠」と染めぬかれた暖簾がかかっていた。コンセプトがしあがりすぎている。なぜなら、この店はできて間もないはずなのだ。
「店主の息子は厨房にいるんです。で、割烹着を着てるおばあさんが彼のお母さん。でもほんとうにお母さんなのかわからない。友人によれば、コンセプチュアルなパートのおばあさんだって噂です」
「コンセプチュアルな、パートのおばあさん」
「そう。先代がやってた居酒屋を、ベルギーだかスイスだかに留学してた息子が継いだんです」
「フレンチじゃなくて」
「料理ではなく、経営の大学に通ってたらしくて」
「なんで息子に、そんなくわしいわけ?」
「友人がその先代の居酒屋で料理人してて、帰国した息子に解雇されたんです。だから、そいつからいろいろ。居酒屋では、お母さんなんて一度も見たことなかったって」
 BGMがピアノに電子音と虫の音がはいったアンビエントに変わった。雑貨の輸入代理店で営業をしている石木には、三年前から店でおせわになっていて、そのモデルのような背格好の男のはれぼったい下唇には、うっすら白い傷があった。年に一、二回のペースでこうやって会って、彼の会社の経費でおもてむきは雑貨界の情報交換したり、新入荷した雑貨をどこよりもはやく仕入れさせてもらったりしている。どこよりもはやく、なんてきっと嘘なんだけど。私より五歳くらい若い石木はずいぶんもてるらしく、会うとだいたい女の話ばかりしていて、去年は、いまよりもっと寒い季節に軍鶏の鍋をつつきながら、長く連れそった彼女とはやく別れて職場の女の子とつきあいたい、と打ちあけられた。どうなったんだろう、彼女とは。だがその夜の石木は、ちょうど日本で流行りはじめていたポートランドの出張からもどってきたばかりで興奮していたのか、女の話はあまりでなかった。
「ポートランド、ぜんぜん雰囲気ちがいましたよ」
「やっぱ、雑誌で喧伝されてるイメージとちがうんだ」
「いや、そのイメージはいっしょなんです」
「え?」
「ちがうのは、グーグル・ストリートビューのイメージで。ほら、事前にこっちで、おたくの雑貨を輸入させてください、って営業したいメーカーさんとか工房とかに目星つけて行くじゃないですか。でグーグルマップにピン打って、ストリートビューでひととおり歩いてみたんですよ。ダウンタウンのホテルから出発して、ピンとピンのあいだを、こうクリックしてぐんぐん」と石木は私の目を見すえたまま、招き猫みたいに手を動かした。
「でもグーグルカーで撮影された風景って、だいたい春か夏なんです。なぜかわかんないけど。で行ってみたら、ぜんぜんちがうんですよ。光も弱くて、道はどこもかしこも落ち葉で埋まってて」
 そういうと石木は日本酒をあおり、お猪口をもったまま目をつぶった。「カナダに近いんでしょ? 秋のオレゴンなんてよさそうだけど」と聞いてみたが返事はなく、しばらくするととつぜん「ところでグロサリーって知ってます?」といった。
「小さなスーパーみたいなやつ?」
「いや、カルディをもっとお洒落にしたようなやつです。これからグロサリーきますよ」
 石木は大きなあくびをした。寝不足なのだろうか。カウンターのうえの甕に生けられたもみじの枝を物珍しそうに見ながら「ほんとうの定義は知らないですけど、お洒落な食料雑貨店っていうんですかね。ポートランドにも、いろんな店にジャムとか焼菓子とかティーバッグとか日持ちする食品をあつかったスペースがあって。そこを視察してたら、いずれ日本でもあらゆる店に食料雑貨の売り場がくっつく日がくるだろうって思いましたよ。本屋にコーヒースタンドが併設するのとおなじ感覚で」といった。
「みんなブーランジェリーだのブラッスリーだの、横文字好きだね。雑貨界のつぎなるターゲットは、グロサリーを和製外来語化してブームをつくるんだ。そして石木さんはポートランドで、お洒落な食料品をしこたま仕入れてきたと」
「そうです」
「つまり、今日はそれを買いませんか、って話だよね」と笑った。
「いや、もう買わなくていいっすよ」
「すこしは買うよ」
「いいですよ。ぼくもう会社、辞めるんで。だからこれが最後の挨拶です」と石木は困ったような笑顔をつくって、またあくびをする。「どういうこと?」という私をおいて石木は立ちあがり、トイレの暖簾をくぐった。

 遠くで銃声が鳴ったような気がして、石木はイヤホンをぬいて少し身をかがめた。しかし、ひとびとはなにごともなく落ち葉をふみしめ、暗い林道を行き交っている。ポートランドはアメリカでもっとも犯罪が少ない街なんだから、といいきかせて近くのベンチに座りなおし、たしかひとにも環境にもやさしいと書いてあったではないか、とガイド本を膝にのせてぱらぱらめくってみたが、かたむいた日差しのなかでもう字を追うことができなかった。目のまえの針葉樹にかこまれた広場には、馬にまたがった男のひなびたブロンズがあり、なぜか石木の頭には、故郷の北海道大学の植物園が浮かんだ。植生が似ているのもあったが、日が落ちるころに手持ちぶさたで座ってる感じが、小学校のころ、授業が終わり親類の家で時間をつぶしたあと、植物園の冷たい縁石で母を待つじぶんをひきよせた。札幌の女子高校を卒業してからずっと道庁につとめつづけた母は、石木がいまの会社に就職してすぐに心疾患で亡くなった。ふたたびイヤホンを耳にいれる。目だけ知らない風景を見て、耳は日本にいるときと変わらない音楽に満たされていると、じぶんがいまなにをやっているのか一瞬わからなくなった。そろそろ、今日最後の営業先であるレコードショップにむかう時間だった。腰をあげ、公園の坂をくだる。途中に、もの派の作品のようなCの字に湾曲した巨大な石板があって、ワシントン公園にきて一枚も写真を撮っていなかったことに思い当たると、なんとなくスマホのシャッターボタンを押した。
 去年、石木は十年ちかくつきあった彼女と別れてから、夜にうまく眠ることができなくなった。眠りにつく瞬間、不安な気持ちが押しよせるのと同時に、かならず青白い光がまぶたの奥をふっと横切り目が覚めてしまう。市販の睡眠薬を飲みはじめたころ、その副作用による錯覚なのだと思うが、ときおり通過する光のなかにとどまることがあった。ある夜、石木は真夜中の住宅地の路上で空からまぶしいスポットライトに照らされて、その謎の光源を見上げたまま突っ立っていた。気づくとさ、そんなじぶんのようすを遠くからおれ自身が見てるの。あたり一帯が霧におおわれてて、さだかじゃないはずなんだけど、家の窓枠とか芝生とか車のバンパーの感じから、じぶんがいまアメリカにいるってことを自然と受けいれてて……わけわかんないでしょ? そう友人に話すと、ぜったい石木は宇宙人にさらわれたんだって、なんか最近へんだもん、と笑われた。「てか体調だいじょうぶなの?」。日に日に、なにかによりかかることなしに立てなくなっていった心は、そんな馬鹿ばかしい考えにさえ手をのばして、ふらふら近づきたがっているみたいだった。青白い光が通り過ぎて眠れなくなった真夜中に、宇宙人にさらわれるなんてこともあるかもしれない、とベッドのうえでうずくまることもあった。石木は彼女と別れてすぐに、まえの会社で上司だった女と付き合いはじめたのだが、不眠のせいか、もともとそうだったのか、退屈なデートをくりかえしているうちに連絡がとだえてしまった。もうふた月以上も声を聞いていない。

 石木が会社を辞めたあと、彼が販路を切りひらいた雑貨を後任の黒岩という男からしばらく買っていた。輸入された食品はラベルが貼りかえられていて、でかでかと「メイド・イン・ポートランド」と書いてある。無農薬でフェアトレードで環境負荷も少ない。それがポートランド流、ということなんだろうけど、もちろん雑貨脳をわずらう私にだって、地上にそんな楽園が存在しないことぐらいはわかっている。なぜなら私の店には、ブームのまえからポートランドを見知っていたお客が少なからずいたからだ。彼らはみな世界中のインディ音楽の愛好家で口々に変わりゆく街を嘆いていた。ノーフォーク&ウェスタン、ユメ・ビツ、マイケル・ハーレー、ジャッキー・オー・マザーファッカー。いろいろ教えてもらったけど、どれも知らないミュージシャンばかりだった。近所の同業者にたずねると「いやいや、ポートランドといえばポイズン・アイディアでしょう。八〇年代には独特なハードコアの文化が根づいてた街なんですから」とうれしそうに断言した。
「そういう情報ってどうやって集めたんですか?」
「レコードっすね。あとは……雑誌とかジン。ネット以降でも、ポートランドには『キンフォーク』っていう雑誌があって。もちろん現地のやつですよ。日本版なんて読んだことないんで」
 なんだかまるで、時流とは関係なく音楽を聴きつづけてきた彼らの記憶をつなぎあわせていくと、ポートランドの自由なエートスが音楽の瞬間瞬間にだけ宿り、生きながらえてきたような気がしてうれしくなった。とはいえ、それもたくさんある偽史のうちのひとつにすぎない、という可能性を考えはじめると頭は混乱し、めんどうなことから逃れるように「ポートランド」と刻印された革小物やレターセット、スーパーフード入りのオーガニックなグラノーラなんかをせっせと売りつづけた。

 ちょうどひまだった時期に、私はポートランドを特集した雑誌や本を過去にさかのぼって調べたことがある。ざっと出版年を見渡すと、日本におけるブームのピークは二〇一五年ごろかもしれない。『ポパイ』(マガジンハウス)が特集「ポートランドに行ってみないか?」をだしたのが二〇一四年。この深いところから浅いところまでバランスよく調べあげた、ある意味ひとつの完成されたポートランド案内がでた翌年に、『スペクテイター』(エディトリアル・デパートメント)の「ポートランドの小商い」が発刊されている。当時すでに他州からの入植により地価も上昇し、貧しいアーティストたちは徐々にべつの街へ脱出しはじめたころらしく、あえて、そんな商業主義に対抗する意味で「小商い」という朴訥とした言葉をつかったのだと思われる。先行する街のマスイメージを払拭するかんじで、自営業の舞台裏に徹底して密着したまじめな記事ばかりだった。
 じつは『スペクテイター』は二〇〇九年十二月にも「フロム・オレゴン・ウィズ・DIY」という特集をやっていて、これは雑誌におけるポートランドの紹介としてはかなりはやい部類のものにはいる。前口上からして六年後のものとはトーンがちがっていて、新鮮なおどろきに満ちている。どうせ七〇年代にカリフォルニアあたりからやってきたヒッピーたちの時代錯誤な街だと思って行ってみたら、ニューシネマの舞台に迷いこんだかのような時間のとまった街に、先進的で自立していて反権力的でDIY精神をもった変わり者たちがいっぱいいたぞー、という無邪気な興奮がつたわってくる。この一度めの純朴さは、その後の苛烈なブームのなかで失われていき、だからこそ二度目の「ポートランドの小商い」は、その隆盛に関わってきたメディアとしてのけじめだったのではなかろうか。
 さらにちょびっとさかのぼった二〇〇九年十月、スウィート・ドリームス・プレスという知人の音楽レーベルから『オレゴン州ポートランドの音楽と人とレコード』という小冊子がでている。そこに登場するのは濃ゆい地元ミュージシャンがほとんどで、残りもレーベルオーナーやレコード店主といった音楽関係者ばかりだ。よって、ずいぶんひねくれたインタビュー集になっていておもしろい。日本ではまだ各分野の好事家たちだけが知る街だったが、アメリカにおいてはトレンドの発信地としてすでに注目されだした時期で、数年前にブティックホテルの代名詞ともいえるエースホテルが中心街にできたころを、いまとむかしをわける境目だと考える友人もいた。『オレゴン州ポートランドの音楽と人とレコード』では、前述のジャッキー・オー・マザーファッカーというバンドの中心人物であるトム・グリーンウッドが、「ポートランドの悪いところは?」という質問に「多様性の欠如」や「エンターテイメント産業がポートランドに進出して、クリエイティブ・ヴァンパイアがたくさんやってきたこと」などをあげている。先日、スウィート・ドリームス・プレス主宰の福田さんに「日本ではかなり初期のポートランド特集だったと思いますけど、これよりまえにポートランドを特集した雑誌って知ってますか」とたずねてみた。「あれをつくったときは情報源がほぼなくて」とすこし考えたあと、「あるとすれば文芸誌だけど『コヨーテ』のオレゴン特集ぐらいかな、レイモンド・カーヴァーとかガス・ヴァン・サントとか」と教えてくれた。
 さっそくとりよせた二〇〇八年六月号の『コヨーテ』(スイッチ・パブリッシング)の特集名は「ゴー!ゴー!オレゴン」。野村訓市による、あのじつにケルアック的な濃厚な文章ではじまっていて、なんだかなつかしい気持ちになった。野村は二十代をバックパッカーとしてすごし、九〇年代の東京において、もっとも洗練されたかたちでストリートにヒッピー文化を注ぎこんできた張本人であろう。彼が主催した真夜中の辻堂海岸のイベントに、学生だった私も毎夏通った。サークルの先輩のシュガープラントというバンドを見に行くのが目的であったが、田舎からでてきた私にとっては、バックミンスター・フラーの小型ドームやスケートランプのある浜辺で、故郷の海とはまったくちがい、轟音でうねりつづける真っ黒い太平洋を見ている時間が夢のようだった。同誌では、そんな野村が「ビートからは遅すぎ、ヒッピーには早すぎたミッシング・リンク」としての作家、ケン・キージーをめぐってオレゴン州を旅していく。
 かつてサマー・オブ・ラブに熱狂したカリフォルニアの若者たちの一部は、時代の変遷とともに浮ついていったシスコやロスを捨て、北へ北へと、つまりオレゴンの大自然のなかへとわけいった。ビートニクからヒッピーたちをへて、アメリカのあらゆるインディペンデントな芸術に流れこむ自由な精神の栄枯についてもふれながら、野村がポートランドに着き、映画監督のガス・ヴァン・サントに会う約束をとりつけたところで最初の記事が終わる。ページをめくると、つづいてポートランドのアーティストたちにとっては守護天使ともいえるガスのインタビューがはじまり、それをゆっくりと読みながら気づく。ちょっとまえまでの私にとって、ポートランドの印象といえば、高校時代に背伸びしてなんども見たガスの『マイ・プライベート・アイダホ』だったことに。最近まで、その一作しか知らなかったのだ。
 いま私は、あの浮浪者と男娼と泥棒がたむろし、荒廃し、ドラッグや暴力や差別にあふれた街並みをフィルムに焼きつけた三十年まえの映画と、そういったヒッピーたちのミームを忘れまいとする十年ちかくまえのいくつかの雑誌、それらを忘れていった後追いの雑誌、そしてフェルトペンの手書き文字と雑貨にかこまれた能天気なパンフレットのあいだを、さまよっている。すると、店を開店してまもないころ、とある知人の男が冬のフィンランドに古道具を買いつけにいって、たいした仕入れもできずにもどってきたとき、街がずいぶんちいさくてびっくりしましたよ、暗くて地味で『かもめ食堂』の影なんてどこにもなくて、アキ・カウリスマキの『過去のない男』みたいでした、と話してくれたのを思いだした。いままさに私も、彼とおなじように都市の多面的なすがたにまどわされているのだ。

 石木はワシントン公園の石板をてっきり現代美術かなにかだと思っていたが、帰国後に調べたらそれはホロコーストの記念碑であった。そこを訪れる者が記憶するべきなのは、大虐殺から生きのびポートランドに移住したユダヤ人だったのか、殺されたポートランド出身のユダヤ人だったのか、よくわからないまま、東京の暮らしのなかですぐに忘れてしまった。なによりも先に、石木は彼女に別れを告げ、会社を辞めなくてはならなかった。
 無職になった石木はときおり、ストリートビューでポートランドを散策した。もちろん灌木から落ちた葉っぱでどの遊歩道もおおわれた、あの静かな街は存在しない。それでもめげずにクリックして前進をつづけていると、ある日、夏、夏、夏、秋、夏、春、夏、秋……と、ところどころバグみたいに紅葉した季節の画像がはさまれた住宅街を、サウスイースト地区に数か所だけ発見することができた。石木は忘れないようにピンを打って、何十分もその街区を歩いた。歩きすぎて、目が疲れるまで。
 いまも履歴書を書くのに飽きたので、コーヒーをすすりながらグーグルマップで旅をしている。ポートランドと北緯が近い、世界のいろんなところ。モントリオール、ブライトン、ミネアポリス、ミンスク、もちろん札幌も。でも頭のなかにある幻影の街はいっこうに見つけられない。窓から、むかいの一軒家で檸檬の木によっかかって休憩する庭師が見えた。梢が風でわずかにゆれているのがわかる。最近は処方された睡眠薬が体にあったのか、よく眠れるようになった。石木は来年もポートランドに行ってみようかと考えている。

 私はここまでポートランドという都市をめぐるブームの興亡、などという大げさな題目をかかげてあれこれ書いてきたが、これはあくまで、遠いアメリカ大陸における新しい文化からでてきた事物が、てごろな商品となって海を渡り、極東の島国でよくわからないまま消費しつくされていく過程での浮沈であって、なにも実際のポートランドが衰退してしまったわけではない。もちろんヒッピーやパンクスくずれのわけのわからない音楽家やアーティストたちはすがたをくらましたけど、都市は次の段階に悠然と進んでいった。そしてリベラルな市民や政治家や企業の不断の努力により、経済的な発展がつづいている。生活水準も犯罪率も環境パフォーマンス指数も、あらゆる数値がそのことを証明している。
 二〇一一年からアメリカで放送されているテレビ番組『ポートランディア』なんかを見ると、すでに視聴者のあいだにポートランドのヒップなひとびとにたいする戯画的な視線が共有されていて、裏をかえせば街のブランドが記号化され、スモールビジネスの楽園から、より大きくてしっかりした消費文化に脱皮しつつあることがわかる。それはわが国で二〇一五年以降に出版されたポートランド本の、びみょうな論調の変化からも読みとれる。そこには、クリエイティブな都市、創造的なコミュニティ、自由に暮らす街、都市デザイン、世界一住みたい場所……といった希望の言葉であふれている。これらはポートランドが、もう個人に立脚した泥くさい文学や音楽をもとめる変わり者たちの街ではなくなり、大勢の健全な幸せを願うような大舞台に変わったことをしめしているはずだ。
 ポートランドのことを考えるとどうしたって、私が東京にでてきて最初に住んだ街、吉祥寺のことを思いださずにいられない。「世界一住みたい場所」であるポートランドとはくらぶべくもないが、「日本一住みたい街」などといわれつづけ、吉祥寺は私がいた八年間のあいだにちょっとずつちょっとずつ、べつのだれかの街になっていった。指を折りながら、いまはもうない、好きだった店をいくらでも数えることができる。だけど、そのたびに私はじぶんにこういって聞かせないといけない。ひとは都市に見たいものを見る。それは私だけが生きた、べつの吉祥寺だったのだからと。

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考える人とはとは

何かについて考え、それが「わかる」とはどういうことでしょうか。

「わかる」のが当然だった時代は終わり、平成も終わり、現在は「わからない」が当然な時代です。わからないことを前提として、自分なりの考え方を模索するしかありません。

わかるとは、いわば自分の外側にあるものを、自分の尺度に照らして新しく再構成していくこと。

“Plain living, high thinking”(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)*を編集理念に、Webメディア「考える人」は、わかりたい読者に向けて、知の楽しみにあふれたコンテンツをお届けします。

*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹