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デモクラシーと芸術

2019年5月30日 デモクラシーと芸術

第5回 「ボヘミアン」シューベルトの〈死〉の意識

著者: 猪木武徳

※文中の曲名をクリックすると、曲の一部を試聴できます。
※ナクソス・ミュージック・ライブラリー(NML)非会員の方は冒頭30秒ですが、会員の方は、全曲を試聴できます。

シューベルトはロマンティックな古典派?

 ルネサンス以降のクラシック音楽の歴史は、バロック(17世紀初頭~18世紀中頃)→古典派(18世紀中頃~19世紀初頭)→ロマン派(19世紀初頭~20世紀初期)と、通常は大まかに区分けされる。しかし音楽の内容や形式の変化は必ずしも直線的に進むわけではない。バロック以前、そしてバロックから古典派へ移行する過程で、対位法から和声中心のモノディ(単声)のスタイルがあらわれたことがある。
 バッハはメンデルスゾーンの『マタイ受難曲』の再演によって、突然プロの音楽家の間で復活したわけではない。むしろ専門的な作曲家の世界では、バッハは「知る人ぞ知る」存在であり、バッハには探求し汲み取るべき多くの可能性が秘められていることは十分に認識されていた。つまり伝統技術の継承という意味では、バッハの技法と堅牢な理論は、綿々と、脈々と伏流水のように音楽世界の中で生き続けているのだ。コンサート・ホールに集まる中産階級に属する大勢の聴衆たちは、バッハの対位法に強い関心を示さなかったとしても、それがロマン派から現代音楽の初期に至るまで、作曲家が拠り所とする重要な技法であり続けたことは確かなようだ。
  このような歴史的事実を踏まえると、フランツ・シューベルト(1797-1828)というある種「ボヘミアン」のような作曲家が、多くの点で特異な存在に見えてくる。それは彼の生きた時代の芸術家の経済状況の特異性とも関係しているのかもしれない。彼の経済生活を家計の情報から知ることはできないが、定収入のない不安定な家政であったことは間違いない。M.J.E.ブラウンはシューベルトの評伝(Schubert: a Critical Biography)の中で彼の経済的苦境を断片的ではあるが具体的に示している。定職の無いシューベルトは、死の2年半ほど前、オーストリア帝国皇帝フランツ1世に宮廷副楽長のポストに就きたい旨の手紙を書き、安定的な生活のもとで己の芸術のゴールに到達できるようご配慮いただきたいと訴えている。歌曲の作曲やコンサートからの収入はわずかであり、エステルハージ家の娘たちのピアノ教師としての謝礼と、ショーバーをはじめとする友人たちからの援助によって辛うじて生活を支えるという状況であった。パトロンを持たない自由独立の「ボヘミアン」だったのだ。

フランツ・シューベルト

  アルフレート・アインシュタインはこのシューベルトの苦境を、ウィーンに移ってからのモーツァルトの困窮と比較し、似ている点もあるが、違いもあるとしている(Music in the Romantic Era)。似ている点は、二人とも芸術家としての「独立と自由」を求めていたが、経済的にはそれを実現することができなかったこと。モーツァルトには、ウィーンの人々が、ヴィルトゥオーゾ・ピアニストとオペラ作曲者として、自分を熱烈に求めているという自負はあった。しかしフランス革命前のウィーンの貴族社会はほとんど瓦解状態であっただけでなく、モーツァルトの芸術自体が人々にとって理解の範囲を超えるような高みへと進化していたとアインシュタインは言う。モーツァルトにとっては外的条件が不運であったのだ。それに対してシューベルトは、決してピアノの名手とは言えず、社交を厭い、自分は「この世のものではない」という感覚を持つ人物だったと見る。つまりシューベルトは封建制から共和制への移行期にあらわれた、自由を欲し、かつ経済生活の基盤を持たない生来の「ボヘミアン」ということになる。
 経済的苦境の中でもシューベルトは数々の名曲・傑作を残した。600以上の歌曲は言うに及ばず、交響曲、ピアノ・ソナタ、弦楽四重奏曲、ピアノ・トリオをはじめとする室内楽曲、そして宗教曲と文字通りオールラウンドの作曲家であった(例外として、オペラに手を染めてはいるが、上演されることは滅多にない。筆者もいくつかLPやCDで聴いてみたが、人気が出ないのが分かるような気もする。また彼はピアノ協奏曲やバイオリン協奏曲にも手を染めていない)。シューベルトの「謎」は多々存在するが、わたしがかねてから興味深く思っていた問題のひとつが、シューベルトが、単なる感情の表現者としてのロマン派の作曲家ではなかったとしたら、彼はなぜ対位法を取り入れた曲を書かなかったのか、という疑問であった。

シューベルトの対位法

  シューベルトの評伝と作品論に関しては近年いくつか名著が出版されている。筆者も堀 朋平氏の作品からは多くを学んだ。シューベルトの伝記や年譜を調べると、1828年、死のわずか1か月前に、当時対位法の権威と言われたジーモン・ゼヒター(1788-1867)に対位法の教えを乞うている(前出のシューベルト研究家M.J.E.ブラウンは、11月4日にレッスンを受けるようアレンジしているが、実際レッスンが行われたかどうかは不明としている)。
  2018年の春と秋、京都でシューベルトのピアノ・ソナタ全曲演奏会を7回に分けて敢行したイタリア人ピアニスト、クリスチャン・レオッタ氏と、当時の京都府立文化芸術会館の館長の下田元美氏と会食する機会に恵まれたので、この点を是非問うてみたいと思った。レオッタ氏は、筆者が最も尊敬する現代のピアニストである。ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲ディアベリ変奏曲などのCDを欧米の批評家たちのレビューで知った。彼のベートーヴェンのピアノ・ソナタは、シュナーベルの全曲録音とともに筆者の愛聴盤となっている。

クリスチャン・レオッタ氏のコンサートのポスター

 例えばシューベルトのピアノ曲『さすらい人幻想曲』(D760)でも、最終楽章(Allegro)の冒頭部分では対位法的なスタイルを試みてはいる。しかしそれはうやむやのうちに終わっている。なぜだろうかという疑問が生まれる。むかし対位法の手ほどきを受けた先生から、『さすらい人幻想曲』最終楽章は、主題があまりにもリズミックでメロディーがはっきりしすぎているから対位法的展開に向かないと、説明されたことがあった。その点を確かめたくて、レオッタ氏に、シューベルトがなぜ対位法を使わなかったのかと尋ねると、「そうではない。彼は対位法的な作曲に稀有な才能を示しているのだ」と教えられた。例えば、シューベルトが死の年に書いた最後のミサ曲 変ホ長調(D.950)のCredoの中の Et incarnatus est の楽譜を見るとその対位法的な要素に驚くはずだと言われた。

  シューベルトの死の年、1828年の6月に作曲されたこのシューベルト最後のミサ曲(D.950)は、説明の難しいいくつかの特徴を持っている。ひとつには使徒信経(Credo)は、これまでの彼のミサ曲同様、Et unam sanctam catholicam, et apostolicam ecclesiam (一、聖、公、使徒継承の教会を信ず)が省かれていること。そしてこのミサ曲からはバロック時代以来伝統の低音弦楽器と同じパートで書かれてきたオルガンが省かれていることである(相良憲昭『音楽史の中のミサ曲』)。これがミサ曲の非典礼化、あるいはコンサート・ミュージック化を意味しているという推論にも説得力があるように思う。実際、ハンス=ヨアヒム・ヒンリヒセン『フランツ・シューベルト』(邦訳・堀朋平)にも、「シューベルトが特定の教義ドグマをシステマチックに省いたこと、とりわけ制度としての教会に対する信仰告白を一貫して拒絶した」ことを指摘している。

ミサ曲の構成(通常文)
1.Kyrie(キリエ:求憐誦、あわれみの賛歌)
2.Gloria(グロリア:栄光頌、天には神に栄光)
3.Credo(クレド:使徒信経、信仰宣言)
4.Sanctus(サンクトゥス:三聖頌、感謝の賛歌)
5.Agnus Dei(アニュス・デイ:神羔頌、神の小羊)

  レオッタ氏の言うとおり、シューベルトの譜面にまで立ち入ってみると、この最後のミサ曲には対位法が多用されていることに改めて驚く。特にEt incarnatus estは、ソプラノと二人のテナーの三重唱であり、聖母マリア、イエス・キリスト、そして聖霊という3つの声である。この3声の、聴くものの目頭を熱くさせるような美しい「やりとり」を聴くと、自分の耳の分析力の無さを思い知るばかりであった。確かに、アインシュタインの『シューベルト』(SCHUBERT: A musical portrait)を読むと、「シューベルトは彼一流の対位法作曲者であり、いわば、自分で知ることなしに本能的に多声音楽を書いているのだ」と巧みに表現されている。
 シューベルトのこの最後のミサ曲は、技術的にはバッハの技法とバロック的な器楽構成を採っている。しかし旋律は極めて高い抒情性を持つという点では初期ロマン派的特性の強いミサ曲である。つまり、旧体制と革命的精神がいぜん緊張関係の中にある時代背景を、そのまま反映していると言えるのではなかろうか。
  いずれにせよ、対位法、多声音楽という技法・スタイルは、前回述べた垂直上方の天へ心を向けるという精神のありようと深く結びついており、「父、子(イエス)、聖霊」の交わりを描いていると筆者は考える。それはデモクラシーのもとでの、「わたしは…」とモノディ(単声)で人々に己の悩みや苦しみの感情を語る、水平方向に向かう精神とは異なるのだ。
  この点は多声音楽とキリスト教理の関係という問題にもつながる。それはさらに、シューベルトにとって宗教とは何かという難解な問いとなって立ちあらわれる。筆者にはこの難問を論じ切る力はないが、ひとつヒントとなるような手がかりは指摘できる。それは「死」がシューベルトにとって何を意味したのかという問いである。
 モーツァルトは、父に宛てた最後の手紙(1787年4月4日)の中で、死は「われわれの一生の真の最終目標」であり「人間の真の最善の友」と書いた。恐らく、シューベルトも死の3年前に父に宛てた手紙(1825年7月)に記したように、常に「死」は、「友」であったに違いない。死が、若きシューベルトにとってやさしい友であることは、歌曲「死と乙女」(D531)においても歌われている。病の床で「死(der Tod)」に「あちらに行って!」と懇願する乙女に対して、「死」は「お手をこちらに、わたしは友だ、あなたを罰するために来たのではない、勇気を出しなさい、わたしの腕の中で安らかに憩うのだ」と語りかけるクラウディウスの詩への共感から生まれた音楽に違いない。この7年後に作曲されたニ短調の弦楽四重奏「死と乙女」(D810)の第2楽章の響きにもこの気持ちははっきりとあらわれているように思う。先に筆者はボヘミアンという言葉を用いたが、「さすらい人」と言い換えてもよい。シューベルト研究家が、彼の音楽の核心は「さすらいと死」にあると言う意味を、筆者は十分に感じ取ることができる。

あのヘーゲルはバッハの美をどう表現したか

 社会的変動の時代、激しい政治の季節を生きた知識人たちはこの時代の音楽をどのように受け止めていたのであろうか。当時の知識人の反応を覗いておくために、「密林の聖者」と呼ばれたアルベルト・シュヴァイツァーの『バッハ』(邦訳・浅井真男・内垣啓一・杉山好、上巻)に少し滑稽なエピソードが記されているので紹介しておこう。
 メンデルスゾーンによる『マタイ受難曲』の再演は先にも記したように、シューベルトの死の翌年の1829年3月11日であったが、10日後の3月21日のバッハの誕生日にも再上演された。その晩、バッハ愛好家の「選り抜きの連中」たちの食事会の際、ある婦人が横に座った気取り屋そうな男が気になったので、近くにいたメンデルスゾーンに「私の隣にいる間の抜けた男の人は誰なの、教えてちょうだい」と小声で尋ねたところ、メンデルスゾーンが「あなたのお隣にいる間の抜けた男は、有名な哲学者ヘーゲルですよ」とささやいたというエピソードだ。外見で人を判断することは危うい。G.W.F.ヘーゲル(1770-1831)は、バッハの音楽に短いが鋭い見事な省察を加えているのだ。

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル

 メンデルスゾーンはヘーゲルの美学の講義を受けていた。そのヘーゲルはバッハに強い関心を持ち、自分自身の『美学』の中で、しばしばバッハに言及し、「その壮大で、真にプロテスタント的な、しんの強い、しかもいわば修練をつんだ天才性は、やっと近頃になって再び完全な評価を受けるようになった」と述べている。ヘーゲルの鋭さは、バッハの音楽の、「単にメロディー的なものから性格的なものへ」、「メロディー的なものが支持統一する魂として保存されている」ことに、「真のラファエル的な音楽美を見出している」とみている点だ。決して「間の抜けた男」ではない。バッハの技法自体が、情緒的なもの以上の、魂に関わるような物事へと人を引き込む理知的な美しさを持っていることを見抜いており、それが単声のメロディーだけではなし得ないことに注意を促しているのは、実に鋭いと思わざるを得ない。

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「わかる」のが当然だった時代は終わり、平成も終わり、現在は「わからない」が当然な時代です。わからないことを前提として、自分なりの考え方を模索するしかありません。

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"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)*を編集理念に、Webメディア「考える人」は、わかりたい読者に向けて、知の楽しみにあふれたコンテンツをお届けします。

*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹