Webマガジン「考える人」

シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。
知の楽しみにあふれたWebマガジン。
 
 

リアルRPG 草原の国キルギスで勇者になった男の冒険

 牧場の所有者に羊泥棒だと疑われたおれは、すぐに羊たちの元オーナーに電話をした。

 羊の所有証明書というものは聞いたことが無かったが、羊は乗用車のトランクに積み込んで簡単に盗むことができるから、そういった物が必要なのかもしれない。また、ここに来るまでの間に何度か「その羊、買ったの?」と聞かれることがあったが、いま思えばおれを盗人ではないかと疑っていたのかもしれない。通常キルギスで群れで飼われている羊たちの体には、所有者ごとにそれぞれ違った部位にペンキのようなもので目印が付けてあり、それで誰の群れなのかを見分けている。アカシュとサナは尻の辺りに前のオーナーが付けた色がまだ残っているため、傍から見ると印があるのに2匹だけ孤立しているように見えて、そのせいで疑われているのかもしれない。

 「もしもし? 羊の所有証明書を見せろって言われてるんだけど、ありますか?」

「ああ、証明書ね。もちろんあるけど」

 元オーナーはあっさりとそう言った。十中八九、おれがこうなることが分かっていたかのような口ぶりだ。嵌められた気分だが、証明書がいるという事に気付けなかったおれのミスでもある。

 元オーナーに繋がった電話を牧場の所有者に渡して話してもらい、すぐに誤解は解けた。しかし、こんな事を毎日繰り返すのはあまりに面倒だ。できれば明日、元オーナーの家へ行って所有証明書をもらいに行きたい。

 その後、牧場に併設されている詰所のような小さな家に泊まらせてもらえる事になった。牧場の従業員であろう若い男が2人と女が1人いて、採れたての牛乳をどんぶりに並々と注いで「良かったら飲みなよ」とおれに渡してくれた。ありがたく一気飲みをする。

 ……ああ、美味い!

 牛の体温がまだ残っているぬるい牛乳が、濃厚な甘みと共に舌に絡みつく。おれは卵に次いで牛乳が大好物だ。子供の頃、夏など多い時では1日に2Lの牛乳を飲んでいた。間違いなく、この牛乳の新鮮さや濃厚さはパック牛乳では味わえないだろう。

 

 そしてその次の日の朝、アカシュとサナにバケツで少量の水をやる。水の量を抑えているのは、彼女らの健康を考えての事だ。

 2匹とも山で遊牧されている状態からいきなり下山させられ平野で暮らすことになったので、周りの草の質が大きく変わってしまっている。現地の人々曰く、遊牧地にある水分豊富な草とは異なり、この辺りの平地の草は乾いているので水分が少ないらしい。

 羊たちが遊牧地と同じ感覚で食事をしてしまうと枯れ草が腹を埋め尽くし、それに加えてこれまで通り水を飲むと草が水分を吸い込むことになる。すると腸の許容量をオーバーして、最悪の場合死に至る。

 これは結構デリケートな問題らしく、現にキルギスでもこれが原因で羊が死ぬことが 時々起こっているらしい。水分摂取時に膨張して危険なので猫にスルメを与えてはいけないという話があるが、原理としては同様のものだろう。羊たちは足元に生えている草をどんどん食べてしまうので食べる草の量を制限するのはほぼ不可能だが、しばらくの間は1回に与える水の量を少なくしてようすを見るべきだろう。羊の腹がどんどん膨れてくるというのが前兆なので、注意深く観察し、お腹の張りを触診していれば防ぐことができるはずだ。

 また、さらに注意しなければならないのは、腐蹄症だ 。蹄が腐ったような見た目となり痛みを伴って削れていくという感染症で、数日以内に他の羊の群れが通った場所を歩くことで感染する。回避は困難であり、一度感染すると完治させるには最短で3日ほどかかるので、これも早期に発見して治療できるようにしたい。

 さて、アカシュとサナへの水やりを終え、所有証明書をもらうべく元オーナーの家へ向かう。

 羊たちは牧場で少しだけ預かってもらえる事になったが、バスなどは通っていないのでヒッチハイクで向かうことにした。こちらへ来る車の速度や乗っている人数、そして運転手のおおよその雰囲気などを見てから、手を伸ばして合図を送る。

 ヒッチハイクはリスクが高いのであまりやるべきではないが、元オーナーの家までは数十キロはあったし、歩いて行くとなると時間がかかり過ぎる。早く戻ってこないと牧場に預けている羊たちに何か起こるかもしれない。

 安全の為にできるだけ運転手が1人、できれば雰囲気の柔らかい女性が乗っている車に声をかけるようにして、元オーナーの家まで往復して所有証明書を入手した。言うなれば、この冒険を継続する為に必要な重要アイテムだ 。これがあれば、羊泥棒だと疑われて足止めされることなく次の町へ行くことができる。

 羊たちを預けている牧場へ戻り、アカシュ、サナを連れて出発。昨日で追い立てるコツがかなり掴めたので今日はさらにスムーズに進めるだろう。

 と、思っていたがその数時間後、初めて大きめの町を通過した時に問題は起きた。

 なんと、何の前触れもなくいきなり、羊たちが右へ方向転換して、ショーウィンドウのガラス目がけて突進をし始めた。

 危ないっ!

 予想外の行動に一瞬反応が遅れつつ、何とか手綱を目いっぱい引くことで衝突は免れたが、羊たちは尚も興味深そうにガラスを眺めている。

 ……なるほど、どうやらガラスに映った自分たちが仲間の羊の群れに見えたらしい。

 羊たちは中々ガラスから離れてくれず、その後も何度か別のガラスへ突進しようとしたので、町を抜けるのにはかなり時間がかかってしまった。一定以上の距離があると突進しないようだったので、今後はガラスや鏡とは距離を取って進むべきだろう。さもないとガラス代の弁償で借金だらけになってしまうかもしれない。

 夕方、村で出会ったロシア人と仲良くなり、羊たちを一晩家畜小屋で預かってもらえる事になった。キルギスの村でロシア人が暮らしているというのはこれまでの経験上稀だったが、どうやらこの辺りには外国人が多いらしい。

 アカシュ、サナを夜間安全な場所へやったのは、野良犬やオオカミを警戒しての事だ。トロク村では夜中に野良犬に襲われて瀕死の重傷を負ってしまうヤギを実際に見ていたし、オオカミによって羊が殺されることもあると多くの人が言っていた。今回の冒険では自分の安全より何より、アカシュとサナが危険の無い場所で寝られるようにしなければならず、そういった意味でも難易度が高い。

道中出会ったヤギに挨拶をするアカシュとサナ(写真、以上すべて©Gotaro Haruma)

 この日はロシア人が家畜小屋のスペースを貸してくれたから快適に過ごせたものの、次の日はそううまくはいかなかった。

 次の日は昼ごろから小雨が降り出していて、夕方から更に勢いを増し土砂降りになった。野宿予定の村には到着していたので、あとは羊たちの安全な寝床を探すだけだったが、なんだか村のようすが少しおかしい。人々の目線や動きから閉鎖的な雰囲気が感じられ、少し警戒されているような気がした。

 いくつも家を回って、羊たちを塀の内側の庭に繋いでおいてもらえないかと交渉したが、皆「羊はダメだ」と答え、すぐに家の中へと戻って行った。

 雨は更に強くなり視界が悪くなってきた頃、前方から1人の少年が歩いてきたので声をかける。

 「こんにちは! おれは日本人で、羊と一緒に野宿旅をしている者だけど、君名前は?」

 「僕はイスラムだけど、こんなところに居たら濡れちゃうよ。僕の家に来る?」

 「ありがとう! この羊たちなんだけど、夜の間、安全な場所に繋がせてもらうことはできない?」

 「あー、羊はダメだと思うけど、食事だけなら。家においでよ」

 羊の寝床が確保できないのなら、ここで食事をしてしまうと時間のロスになってしまう。寝る場所を見つける前に暗くなるという危険がある。しかし、この村の妙な雰囲気についても情報が得られるかもしれないので、ここは一旦イスラム君の家で食事をして話を聞いた方が良いかもしれない。

 こうして、おれはイスラム君の家へ行くことになったが、食卓に並んだ料理もやはり少し変だった。米を炒めたパローというキルギス料理がメインにはなっているものの、これまでおれが見たパローよりも少し色が黄色っぽく、周りにはフルーツがたくさん並んでいる。家庭ごとに味付けが違うというだけなのかもしれないが、室内の壁一面に彫られた青く細い線の模様といい、これまでのキルギスの家庭では見かけなかったものだ。

 おれが不思議そうにパローを食べていると、イスラム君が声をかけてきた。

 「どうして羊と歩いて旅をしているの? 車は使わないの?」

 これは、ここまでの道中様々な人々に聞かれた質問だ。

 「歩くとその分だけ多くのキルギス人に会えるからだよ。優しくて素敵なキルギス人とたくさん知り合いたいんだ」

 おれがそう言うと、イスラム君は小首をかしげてこう言った。

 「そうなんだ。まあ、この辺にはキルギス人いないけどね」

 「え、えぇっ! イスラム君、外国人なの? なら、この料理もキルギス料理じゃないの?」

 「うん、僕はウズベキスタン人だよ。この料理はウズベキスタン料理」

 なるほど、この村の独特の雰囲気についてようやく合点がいった。イスラム君によるとこの村は、主にウズベキスタン人などの外国人が移住してできている町らしい。キルギスで外国人が暮らす村としてある種孤立しているが故、おれのように外部から来る者に対して敏感になっているのかもしれない。

 また、ウズベキスタンで暮らしている日本人の友人に聞いた話だが、ウズベキスタンというのは非常に規制が厳しい国らしい。ドローン等の国内への持ち込みは禁止されていて、友人の家であっても民家に泊まるのは禁止であり、何よりウズベキスタンで暮らす外国人の家の多くは内務省によって定期的に「盗聴」されているらしい。

 ウズベキスタンの家庭には盗聴器が仕掛けられている、と言うとなんだか現実離れしているが、友人の話によると事実のようだ。ただし、盗聴が始まる前に特定の機械音が鳴るらしく、内務省に会話を聞かれているというのは一応分かる仕組みになっているらしいので、厳密には盗聴と言えないかもしれないが、中々すごいシステムだ。

 食事後、改めて羊たちが寝られる場所を探す。やはりこの村では羊たちを庭に繋いでおいてもらうのが難しそうなので、一般家庭への交渉は諦め、敷地内に家畜小屋のある家を探して声をかけることにした。

 その家が家畜を飼っているかどうかというのは、家畜の餌となる草で出来たブロックをどれだけ備蓄しているかでおおよそ見当が付く。これから冬になるので越冬の為に大量の餌が必要であり、家畜を飼育している家の多くは塀の外から見ても分かるほど空高く草のブロックを積み上げている。

 そうして家畜を飼っている家を探すこと数十分。敷地内でたくさんの馬を飼っているシャミンという中国人の男の家へとたどり着き、遂に泊めさせてもらえる事になった。おれは大雨の中家を探し歩いていてずぶぬれだったので、シャミンは温水シャワーが浴びられる店へ連れて行ってくれた。キルギスの一般家庭にはシャワーや風呂が無いが、それはこの村でも同じようだ。

 温水シャワーの有り難さに感動しつつ、しっかりと時間をかけて体を綺麗にし、その後は家の客間にて就寝。

 大雨に加えて家探しに難航したのでどうなるかと思ったが、これで一件落着だ。ひとまず今はしっかりと寝て、明日に備えた方が良いだろう。

この記事をシェアする

MAIL MAGAZINE

8

2

(Fri)

今週のメルマガ

柴田元幸「亀のみぞ知る」、春間豪太郎「草原の国キルギスで勇者になった男の冒険」連載スタート! (No.779)

8月1日更新さあ、冒険をはじめよう! 春間豪太郎 8月1日更新四十五 科学技術と道義心 池田雅延 8月1日更新 […]

「考える人」から生まれた本

もっとみる

テーマ

  • くらし
  • たべる
  • ことば
  • 自然
  • まなぶ
  • 仕事
  • 思い出すこと
  • からだ
  • こころ
  • 世の中のうごき

考える人とはとは

何かについて考え、それが「わかる」とはどういうことでしょうか。

「わかる」のが当然だった時代は終わり、平成も終わり、現在は「わからない」が当然な時代です。わからないことを前提として、自分なりの考え方を模索するしかありません。

わかるとは、いわば自分の外側にあるものを、自分の尺度に照らして新しく再構成していくこと。

“Plain living, high thinking”(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)*を編集理念に、Webメディア「考える人」は、わかりたい読者に向けて、知の楽しみにあふれたコンテンツをお届けします。

*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

春間豪太郎

はるま ごうたろう 1990年生まれ。冒険家。行方不明になった友達を探しにフィリピンへ行ったことで、冒険に目覚める。自身の冒険譚を綴った5chのスレッドなどが話題となり、2018年に『-リアルRPG譚-行商人に憧れて、ロバとモロッコを1000km歩いた男の冒険』を上梓。国内外の様々な場所へ赴き、これからも動物たちと世界を冒険していく予定。

連載一覧


ランキング

イベント

テーマ

  • くらし
  • たべる
  • ことば
  • 自然
  • まなぶ
  • 仕事
  • 思い出すこと
  • からだ
  • こころ
  • 世の中のうごき