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やりなおし世界文学

2019年6月22日 やりなおし世界文学

(7)変節をめぐるシルヴァーとジキル――スティーヴンソン『ジキルとハイド』

著者: 津村記久子 100%ORANGE

 いきなり別の本の話から始めて申し訳ないのだが、『宝島』で印象に残るのは、海賊たちが本当にその場その場で変節を辞さないことだった。一日どころか、なんだったら一時間を切り抜けたり、目先の利益を得るために、トリローニ側とシルヴァー側のどちらの側にでも付き、なんの躊躇もなく裏切る。そもそも海賊たちのリーダーといえるシルヴァー自身がそういう人間なのだ。まずはコックと身分を偽ってヒスパニオーラ号に乗り込むし、トリローニたちに敵対するようになった後も、子供のジムには危害を加えない。シルヴァーが物語上の有名な悪漢として好意的に語り継がれているのは、おそらく「ジムには害をなさない」という部分だけが終始一貫しているからだと思うんだけれども、それ以外は目まぐるしいほどに状況によって何者にでもなる。驚くほど柔軟というか、理解できないぐらい簡単に行動も味方も変えてしまう。個人的には、シルヴァーの手練れの海賊としてのロマンティックな側面以上に、この変わり身の早さというか、何の逡巡もなく何者にでもなる様子に、すごく世俗的なリアリティを感じて感心したのだった。最終盤のシルヴァーの変節はもはや突き抜けており、そこに海賊としての生き方の爽快感があるのだが、中途半端なところに留まっていたらただの何の一貫性も感じられない怖い人だっただろう。
 一方、『ジキルとハイド』は、薬の力である人物が全然違う人物になってしまうという話である。シルヴァーと海賊たちが何の苦もなくやっていたことを、薬を使って無理矢理やるという話だ。本書のジキルは、社会的成功を成し遂げた清廉な人物だと一貫して記述される。ほとんどしつこいほどに、ジキルとしてのジキルは「同じ人」だ。ジキルとしての変節はありえない。何者にでもなるシルヴァーと、何者かであることを絶対に降りないジキルは対照的だ。前者は変節の怪物で、後者は一貫した生き方にとらわれすぎて怪物になったといえる。「人間が変わる」ということについての両極端なアプローチを、スティーヴンソンという一人の作家が描いていることに驚く。
 明るく見られたい人は明るく振る舞うし、親切だと思われたい人は人に親切にする、というように、だいたいの人は「自分はこんな人間でいたい」というような像を持っていて、それに従って生きていると思う。ただ、明るく見られたい人でも人の見ていないところでは落ち込みやすかったり、親切に思われたい人でも道を聞かれるのは大嫌いだったりするかもしれない。そういういろんな側面を、それぞれに按配のいいところで折り合いをつけて人間は生きていると思うのだが、ジキルはその折り合いの付け方がわからなくなった人で、運悪くというか医学博士だったりしたせいで、功成り名を遂げた立場でありながらも捨てられない不適切な欲望を満たすために、別の人間に変身する薬を作り上げてしまう。ただの変装ではなく、基本的には不可能な「高い身長を低くする」ということを可能にしている点で、もう本格的に「別の人間」なんである。よく考えたら、画期的な他人になる方法だと思う。
 背の高い品の良さげな紳士であるジキルが、自分とは生命しか共通点がない悪人ハイドに変身する。ジキルはあまりにも自分で自分の悪い部分を受け止められず、分離という形でしか表出できないがために極端な行動に走った。「私は裕福な家庭に生まれ、才能にも恵まれ、生まれつき勤勉な性質(たち)で、賢く善良な人々に尊敬されたいと思い、そのことを愉しむ人間に育った。そんな私には令名に恥じない傑出した将来が約束されている、と多くがそう思っていたことだろう」。これだけのギフトの自覚がありながら、ジキルはハイドの部分を持て余している。というかもしかしたら自覚があるからこそ、ジキルはハイドという別の人間に変身することにしたのかもしれない。自分の最悪の欠点として「無性に快楽を求めたくなる性向」を挙げるジキルは、べつにそれがあっても幸せに生きている人はいるだろうと認め、実際に二重生活をおくっていたのだが、五十をすぎて自分の社会での経歴や地位を振り返ってみると「その二重生活はもはや抜き差しならないほど深いものになっていた」という。不品行でもべつにそれを吹聴する生き方もあっていい、と了解しながらも、ジキルは「自らに設けた精神の高みのせいで、病的と言えるほどの羞恥心を覚え」苦しむことになる。興味深いのは、ジキルが自分に起こった悲劇について「自分の悪い部分が悪くて仕方なく……」じゃなく、自分の「生来の飽くなき野望」が原因であると分析できているところだ。
 自分の嫌な部分を切り離したつもりで、自分の体を使ってハイドを作り出したジキルだったが、だんだんとハイドの存在がジキルの中で支配的になってゆく。ジキルはハイドを気にかけていて、戻れなくなってしまったら遺産をやろうとか、ハイド活動の拠点を作ってやろうとかいろいろ考えているのに対して、ハイドはジキルのことはどうでもいい、という不均衡もとてもおもしろい。もしかしたら、ジキルが良い人間であるのと同じぐらい悪い人間だったら、こんなことにはならなかったのかもしれないと思う。ハイドはジキルの一部であり、半分ではなかったからこそジキルは苦しんだのではないか。
 理性的に善良でありたいと願うがゆえに自分の悪を切り離したいと思うこと、本能のままに善も悪も混ぜ合わせて提示すること。ジキルとシルヴァーが象徴する前者にも後者にも、それぞれの恐ろしさがあり、スティーヴンソンはそれを理解していた。ジキルとシルヴァーのことを考えていて、ふと思い出したのは、同じ田口俊樹さん訳の『郵便配達は二度ベルを鳴らす』の男女だ。彼らの究極に不定形で一貫しない心と行動は、シルヴァー以上に自分に不安をもたらしながら、その一方で著者としてのケインは「何を考えているかわからない人」の心のありようを忍耐強く説明してくれたような気がした。そして、シルヴァーの変節もジキルの苦しみも、フランクとコーラのわけのわからなさも、最初は小説として書かれたのだということに改めて驚く。ジキルはハイドのことを気にしているが、ハイドはジキルのことをまったく気にかけない、という非対称にも似て、小説は言葉というおそらく理性に属するものの側から両方を書く。
 だから、ジキルみたいに我慢したり苦しんだりしたって仕方がない、ハイドみたいにやりたい放題生きなきゃ、ということはたぶんない。ジキルの身の上に起こったことが、手記という本人の言葉を使った形で説明されることに、それは象徴されているのではないか。ハイドは結局ジキルだった。自分の悪い部分に好きなだけ苦しめられていいけど、理性的な良い人間でありたいと思うことも諦めるべきではない。わたしにはジキルが身をもってそのことを示したように思えた。

ジキルとハイド

ジキルとハイド

ロバート・L・スティーヴンソン/ 田口俊樹 訳 

2015/1/28発売

とにかくうちに帰ります

とにかくうちに帰ります

津村記久子

2019/09/20発売

うちに帰りたい。切ないぐらいに、恋をするように。豪雨による帰宅困難者の心模様を描く表題作ほか、それぞれの瞬間がはらむ悲哀と矜持、小さなぶつかり合いと結びつきを丹念に綴って、働き・悩み・歩き続ける人の共感を呼びさます六篇。

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考える人とはとは

何かについて考え、それが「わかる」とはどういうことでしょうか。

「わかる」のが当然だった時代は終わり、平成も終わり、現在は「わからない」が当然な時代です。わからないことを前提として、自分なりの考え方を模索するしかありません。

わかるとは、いわば自分の外側にあるものを、自分の尺度に照らして新しく再構成していくこと。

“Plain living, high thinking”(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)*を編集理念に、Webメディア「考える人」は、わかりたい読者に向けて、知の楽しみにあふれたコンテンツをお届けします。

*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

津村記久子
津村記久子

1978(昭和53)年大阪市生まれ。2005(平成17)年「マンイーター」(のちに『君は永遠にそいつらより若い』に改題)で太宰治賞を受賞してデビュー。2008年『ミュージック・ブレス・ユー!!』で野間文芸新人賞、2009年「ポトスライムの舟」で芥川賞、2011年『ワーカーズ・ダイジェスト』で織田作之助賞、2013年「給水塔と亀」で川端康成文学賞、2016年『この世にたやすい仕事はない』で芸術選奨新人賞、2017年『浮遊霊ブラジル』で紫式部文学賞を受賞。他の作品に『アレグリアとは仕事はできない』『カソウスキの行方』『八番筋カウンシル』『まともな家の子供はいない』『エヴリシング・フロウズ』『ディス・イズ・ザ・デイ』など。

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100%ORANGE

イラストレーター。及川賢治と竹内繭子の2人組。東京都在住。イラストレーション、絵本、漫画、アニメーションなどを制作している。イラストレーションに「新潮文庫 Yonda?」「よりみちパン!セ」、絵本に『ぶぅさんのブー』『思いつき大百科辞典』『ひとりごと絵本』、漫画に『SUNAO SUNAO』などがある。『よしおくんが ぎゅうにゅうを こぼしてしまった おはなし』で第13回日本絵本賞大賞を受賞。

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