Webマガジン「考える人」

シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。
知の楽しみにあふれたWebマガジン。
 
 

雑貨の終わり

 村上春樹氏の書斎がじつにかわいく雑貨的であることを知ったのは、ニューヨークにあるペンギン・ランダムハウス社がホームページ上につくった彼の紹介ページをたまたま開いてからである。いつも執筆している仕事部屋の写真が公開されていて、その部分ぶぶんをクリックするといろんな雑貨の細部を覗くことができる。かつては新潮社によるウェブ企画「村上さんのところ」でも、おなじころに撮ったとおぼしきデスクまわりの画像がアップされていたように記憶しているが、書籍化したときに、これらの写真はぜんぶきれいに省かれていた。近年だと『カーサ・ブルータス』(マガジンハウス)の特別編集された「ア・ルーム・ウィズ・サウンド」というムックでも自室のオーディオ類を披露していたものの、そのスペックに関する説明がなされていただけで、雑貨についてはふれられていない。ホームページにもどる。
 彼の部屋ではじつに雑多な物たちがきれいに整頓されていた。一万枚のレコード・コレクションが壁一面にあるにもかかわらず、ここまで嫌味なくまとめるのはなかなかむずかしい作業だと思う。棚や机の要所要所に、海外の旅先で買いもとめたとぼけた置物がちょこちょことリズミカルに飾られている。その雑貨のあつかいかたが、これ見よがしな大人の趣味をうまく解毒することに成功しているのかもしれない。ともかく彼は、雑貨屋のひとつやふたつを余裕で切り盛りできるくらいの、かなり高度な雑貨感覚の持ち主であることがうかがい知れる。
 まずマックが鎮座する机のうえに、ムーミンの漫画が描かれたマウスパッド、赤地に白十字のスイス国旗が印刷されたマグカップ、アルフレッド・A・クノップ社の犬のマークの文鎮などが見える。マイルス・デイヴィスの『リラクシン』と『クッキン』のジャケの絵が描かれたグラスに、アメリカの量販店で買ったらしい三十本以上の鉛筆が立っている。どれも几帳面にぴんと削られた状態だ。短くなったやつは『リラクシン』、まだ長いやつは『クッキン』。机の右奥には、唐突にヤクルトスワローズのピッチャーである小川泰弘の首ふり人形がいて、そのとなりに南瓜(かぼちゃ)を抱いたかわいいお化けの筆立てが写りこんでいる。このあたりの気のぬけた雑貨のはさみかたは、作家のゆるく巧妙なエッセイの語り口とつうじていて、部屋の間口を大衆にむけて押し広げることに貢献しているはずだ。
 デスク中央に置かれたライトスタンドのまわりに目を移すと、とりわけ個性的な物が集まってきている。北欧で買った雀蜂(すずめばち)がくっついた大理石の彫刻、ラオスの木でできた呪術的な足のオブジェ、丸いふたつの石が入った落花生型の蓋物。それらは私の護符なのです、と英語の説明文にある。タリスマン。とくに神物としてつくられたわけではない小さな置物を、手に入れた者の想像力でお守りに見立てて愛玩する。私がかつてフロイトの机上にも見た、雑貨愛好家にとって、ひとつの理想的なすがたをとどめている。雑貨を個人的なルールだけにしたがって偏愛する。フェティッシュとして。これは消費される宿命をしょいこんだ物たちにとっては、なけなしの救いとなっているだろう。もちろんコーヒー豆を挽いたり、ヴァイナルをターンテーブルにのせたりする彼の日常を彩る儀礼性ともつながってくるはずだ。大切なことは、儀式をじぶんの意志で、じぶんだけのやりかたで、ひとしれずやらなくちゃならないってことだ。呪物はむやみやたらにシェアしないほうがいい。SNSという集合意識に囲われて、あるかないかもわからない他人の視線につねに意識しながら生きる、という仮想の快楽を一度でもおぼえてしまうと、かけがえのないフェティッシュはだれかの欲望とともにゆれはじめ、まじりあい、いずれたんなる消費財へと脱してしまうだろうから。
 机の正面の大きな窓からは、青々とした美しい山なみが見える。その壁ぎわに茶色いタンノイのスピーカーが左右に置かれていて、それぞれのうえに羽根のはえた一対の陶の猫が座っている。どうやらロンドンの骨董市で出会った物らしく、この部屋の雑貨たちの主役といってもいい逸品かもしれない。となりには鼠や白熊の置物も写りこんでいた。壁いっぱいにそなえつけられたレコード棚の反対側にある、こちらもまたレコードを収納した箪笥のうえに、ジョニー・ウォーカーの人形や鴨のデコイのブックエンドなどがのっている。他の資料をつきあわせて探していくと、まだまだかわいい雑貨がでてくるのだが、そろそろ終わりにしよう。彼に高度な雑貨感覚がそなわっていることはじゅうぶん伝わったはずだから。いままでインタビューもほとんど受けず、プライベートをエッセイ以外ではほとんど明かすことのなかった作家が、ここ最近、立てつづけにメディアに自室を公開しはじめたことには、なにかしらの心境の変化があるのだろうか。

 十月末日。朝起きると、昨晩吹いた風は木枯らし一号でした、と老齢のニュース・キャスターが話している。知人から『アルネ』(イオグラフィック)という小冊子をごっそりともらった。私が店を開く三年まえの二〇〇二年から二〇〇九年まで発行されていた同誌は、まるで付録のような判型と厚み、背のない簡易な造本、普及しはじめたばかりのデジカメのスナップショット、幼子みたいな手書き文字、ひらがなの多いやさしい文章、赤と白と黒を基調としたかわいい誌面づくり。かつての『暮しの手帖』の切実さをすっかり漂白したような、まさに雑貨的な雑誌ともいえる。企画、編集、イラスト、写真撮影、取材、すべてをイラストレーターの大橋歩氏が手がけていて、暮らし系のリトルプレスの嚆矢と称されるゆえんでもある。
 急に冷えこんだせいか、お客はほとんどこない。うす暗い店内でアルネの山からてきとうに一冊をつかんだ。その秋はじめてのヒーターをつけながら、ぱらぱらめくっていると手がとまる。なんのまえぶれもなく、村上春樹氏の自宅写真が十ページにわたって掲載されていたからだ。表紙のどこにも村上春樹という文字はなかった。画像の数は五十枚以上。発行は二〇〇四年十二月。同誌の十号めにあたる。「山の上に村上さんのおうちはありました」というキャプションのついた小さな外観写真からはじまり、一階の居間、食堂、台所、奥さまの仕事部屋、二階の書庫、仕事部屋、自転車の置いてある玄関先、地下の収納部屋へとつづく。世のハルキストに聞いてみないとわからないが、ここまで家の全貌を公開したのは最初で最後ではないだろうか。
 大橋氏と春樹氏の交友は、雑誌『アン・アン』(マガジンハウス)で連載された「村上ラヂオ」というコーナーで挿絵をてがけたことがきっかけのようだ。その後、単行本化された際に、さらに描きたして計百種類の銅版画を刷り、そのうちの何枚かを額にいれてプレゼントしたのだという。ちなみに大橋氏が世に知られるきっかけとなったのは『平凡パンチ』の表紙絵の仕事で、この『平凡パンチ』を出版した会社はその後、マガジンハウスと名前を変える。高校生だった春樹氏も毎週買って読んでいたらしい。八〇年代のなかばには『ブルータス』や『ポパイ』といった雑誌に人気の座をうばわれていき休刊するが、大橋氏とマガジンハウスはつねに親密なつきあいをたもってきた。そして同社と雑貨の歴史には切っても切りはなせない蜜月関係があり、その事実と、村上春樹という鋭い雑貨感覚をもつ国民的な作家が、いまも『ポパイ』でTシャツのコラムを書いていたり、特別編集された『カーサ・ブルータス』でオーディオ一式をおしげもなく披露したりすることは無関係ではないだろう。

 以前、美術家の村上隆氏が、雑貨についてつづった私のエッセイを読んでこんな仮説をとなえた。SNS上に記されたラフな短文を私なりに補足してまとめると、それはまず、インターネットがひとびとの生活に入りこんでいき激変する商いのなかで、みずからの憂鬱をかみしめる著者の筆致が村上春樹氏の初期作品の主人公とつうじているという雑感からはじまる。おそらく隆氏は、バブル崩壊後の日本の工芸史をどう現代美術の世界に位置づけられるか、という強い関心をもっており、一九七四年に二十五歳の春樹氏がジャズ喫茶「ピーターキャット」をひらき、また現代陶芸を語るうえで欠くことのできない立役者、桃居(とうきょ)の広瀬一郎氏も八二年に青山でバーをはじめたことに注目する。ちなみにふたりはほぼ同世代だ。つぎに彼らより十歳から二十歳ほど若い生活工芸系の作家たちの美学にジャズが深い影響をあたえてきたことを指摘しながら、その山すそにあらわれた、さらに下の世代の器屋、骨董屋、そして私のような雑貨屋などまでもふくめた店主たちをつらぬく、洒脱な都市生活者たちの系譜というものを幻視する。彼らはみなジャズや村上春樹といった記号で語りうるような、おなじ種族の人間であり、この三十年以上つづいた円環はいま閉じつつあるのではないか、という結語で終わる。創作において、お洒落である、という薄弱な身ぶりに脱することをつねに警戒し、一定の距離をたもってきた現代美術家による、愛憎をともなった手荒なカテゴライズともいえるかもしれないが、私自身は身につまされるものがあった。そしてこの理路を、ずいぶんむかしに途中まで歩いたことがある気がした。雑貨店をはじめるちょうど一年半まえ、冬構えがはじまったばかりの軽井沢の山小屋に私はいた。

 「ケーズ・バー」という名前のバーがあらゆる場所に存在することに大鶴さんが気づいたのは、秩父で店をはじめて十年くらいたってからだった。バーといってももともとは夜中までやっているジャズ喫茶で、その後はただのジャズのかかる喫茶店となり、世紀をまたぐ直前に店をたたんで妻の地元である軽井沢に移り住んだ。インタビューの最後に、ジャズ喫茶とジャズのかかる喫茶店ってなにかちがうんですかと私は聞いたが、「だれのせいでもないんだけどね、世のなかだいぶ変わっちゃって……」といったきり口ごもってしまった。スピーカーのまえでカップ片手に目をとじて黙考するような輩が山ほどいた時代は終わり、そうじゃない客層に開かれざるをえなかったということなのだろうか。
 残された写真を見せてもらうと、信楽の壺の横にパリの街角を描いた油彩画があり、そのとなりに小さなトーテムポールと漢詩の掛け軸が、そのうえにアルバート・アイラーのレコードが飾られている。なぜここにこんな物が置いてあるのか、という理由がない、あるいは理由はかつてあったのかもしれないけれど、本人もまわりのひとも思い出せない自生的な空間。珈琲ミルやレコード盤の手入れをしたり、テーブルを整えたり落ち葉をはいたり、日々の雑事に気をとられながら、買った物やもらった物を空いているスペースにてきとうにならべていく。それが何十年とつみかさなり、いつしか物の来歴もすべて忘れてしまう。このデザインというものを介さない、無意識のディスプレイ術に秀抜な秩序がやどっているのはなぜだろう。世のミニマリストたちの、物がほとんどない部屋をめざした凡庸な理性とくらべると、まるで精巧な蟻の巣のような神聖さすら感じる。写真のはしのほうで、カウンターのなかに立つ若い大鶴さんが笑っている。目つきも、頬のこけかたも、髭のはやしかたも、みなみらんぼうにそっくりだ。おそらく数年まえに亡くなった奥さんが、彼のとなりでうつむきながらコップかなにかをふいている。
 当時、私とおなじ出身地で、上京して経営者になったひとに話を聞いて記事にまとめる、という仕事をしていたのだが、二年が過ぎ、五十人くらいを超えたあたりから条件にあうひとがぱたりと見つからなくなった。そのころのインターネット網は穴だらけで、同郷の人間を探すのも一苦労、そこから経営者という種族を探しだし、さらに連絡先までつきとめるというのは至難のわざであった。編集部に相談すると「もう社長じゃなくてええよ。ほら教授とか、芸術家とかならおるでしょう。文化人っていうんかいね。え、それもむずかしい? こまったな……ほしたら、東京じゃなくて首都圏でもええけん。もう個人事業主でええわ。あと農家でも漁師でも。とりあえず記事を書いてください」といってつきかえされた。というわけで私がインタビュアーをやっていた最後の半年間は、中小企業の社長たちとはまたちがった特殊なひとたちの、苦渋に満ちた人生を拾い集めては食いつないだのだった。
 いろんなひとに出会った。売れないオペラ歌手、ケン・ウィルバーといういささかスピリチュアルな思想家を信奉する探偵、いまでも私の店でお世話になっている陶芸家の親子、インドのダウリー殺人を研究する学者……。もちろん大鶴さんもそのひとりだ。彼を紹介してくれたのは、ドストエフスキーの『地下室の手記』をもじった『地下室の趣味』という自著がある風変わりな社長だった。彼は地下室専門の施工業者をしており、主力商品はなんとスイス製の核シェルターで、「すでに世田谷の住宅で数多くご利用いただいています。もちろん値ははりますよ。でも、あなたもつくっておくとぜったい安心です。地震がおきようが、ミサイルが飛んでこようが、食料さえもちこんでおけば清浄された空気のなかで一年間籠城できますので」といった話をえんえん聞かされた。長いインタビューを終えたあとに、取材先がなくてこまっていることをあかすと、高校の同級生で、むかし埼玉でジャズ喫茶を経営していて、いまは長野でレコード屋をやってる男がいるから、と連絡先をもらった。「そいつの防音室は、わたくしがつくりました。あんな密室、まあ核シェルターにくらべたらおもちゃみたいなもんですな」といってがはがはと笑った。ところが実際の大鶴さんはレコード屋などやっていなかった。ただ長年買い集めたレコードを、お金にこまるとネットにアップしては細々と売って、余生を過ごしていただけであり、彼の孤独な暮らしむきはどこか、じぶんの未来を暗示しているようでみょうに寂しかった。
 ジャズ喫茶がもっとも盛り上がった時期は、まだ輸入のレコードがきわめて高価だった時代、つまり六〇年代から七〇年代のなかばまでであり、七八年にはじめた大鶴さんは後発の部類に入るのかもしれない。大鶴さんのいうことが正しければ、ケーズ・バーという名前の店はその後、全国に山ほどできるわけだが、多くはマスターの名前の頭文字にKがつくパターンだったらしい。一方、彼の場合は、ウィントン・ケリー、菊地雅章、スティーヴ・キューン……といったKのつくジャズ・ピアニストが好きだったから、という理由なのだが、帰りぎわ「一番好きなピアニストは?」と質問をすると、なんの迷いもなく「アンドリュー・ヒル」と即答していたのでほんとうのところはわからない。奥さんか、だれかのイニシャルかもしれない。インタビューをさせてもらった彼の山荘でも、エリック・ドルフィーが参加した『ポイント・オブ・ディパーチャー』のレコードをかけてくれた。つんのめった知的なピアノが薪のはぜる音や大鶴さんの低い声とともに、雨でけぶった表の林のなかへ溶けだしていく。
 ちょうど大鶴さんが店を開業した四年後、おなじ名のジャズ・バーが青山にできる。先ほどもふれたが、その店のあるじは、のちに現代陶芸を語るうえではずすことのできない器専門のギャラリーをつくる広瀬一郎氏だ。バーと並行するかたちではじめた桃居は一九八七年、西麻布に誕生する。それまでの産地主義、伝統工芸の公募展、人間国宝制度、百貨店の美術画廊といった巨大な販売システムにのっかった陶芸界からはなれ、作家とギャラリストが一対一の個人でつながり、もっと実生活に近い場所で、じぶんがつかいたい物だけを売り買いする、というしごくまっとうな食器の世界をきりひらいてきた名店のひとつである。大鶴さんもなんどか東京にでてきたついでに立ちよっては、マグカップなどを買ったことがあるらしい。広瀬氏の店はいまや大御所となった黒田泰蔵や川淵直樹といった孤高の陶芸家たちを最初期からささえ、赤木明登、三谷龍二、安藤雅信など、その後の生活工芸の隆盛を担った作家たちの重要な活動の場ともなった。一級の工芸品を日常にとりもどさんとする桃居の哲学はじわじわとすそ野をひろげ、やがて大衆化していく。そうやって広がった平原に、昨今の暮らし系のムーブメントが芽吹いていき、気づくと美しい生活がどうしたこうしたと大義名分をかかげた商売人がどんどんと集まってくることになる。彼らに踏みかためられ、工芸と雑貨の境目もすべて曖昧になってしまったアスファルトのごとくまっ平らの土地に、おそらく私の店が建っているのだろう、と大鶴さんのインタビュー記事を読みかえしながら考えた。
 この島国にだけに生まれ栄えた、あらゆる物を雑貨に変容させては売りさばく雑貨屋、わびさびの伝統と現代の暮らしをむすぶ器屋、ダンス・ミュージックを身じろぎもせず座して聴くジャズ喫茶……村上隆氏が拙著への感想のなかで、おなじ洒脱な人種だと喝破したひとびとであるが、彼の一文を読んでから、私は一見なんの関係もないような三者をつなぐ隘路を手にいれることができた。いま、その道をたどたどしくさかのぼり、大鶴さんの心境にすこしずつ近づいていく。そしておなじ時代に生まれていたら、ジャズの蘊蓄をためこんで彼とおなじような生きかたをしていたかもしれないと思った。私をふくめ、芸術文化に淫したモラトリアムな若者が自意識の発露として店をひらく、というライフスタイルのはじまりには、七〇年代なかごろに全国で六百軒を数えるまでにふくれあがったといわれるジャズ喫茶があるのはたしかだろう。そこから春樹氏のように物書きに転じる者もいれば、広瀬氏のように他分野で独創的な商いをはじめる才ある者もいた。あくまで集団には属さない、孤立した個人プレーヤーとして、彼らはオルタナティブな生きかたをもとめ、大きな資本の濁流から離反した一本の美しい支川(しせん)をつくった。しかし時代がくだっていくと、社会をドロップアウトすることや就職しないで生きることの意味はおのずと変わり、反骨のしるしもどこへやら、自己表現としての自営業の譜系もずいぶんお気軽なものになっていった。村上隆氏が、円環が閉じつつあると書いた意味を、私はジャズ喫茶からはじまったミームが三十年の月日をかけて希釈され、やがて力つきる歴史としてとらえてみたい誘惑にかられてしまう。清らかな支流は、いま泥まみれの大河へと還っていく。つまりそれを、長いながい雑貨化の道程だったと考えてみたいのだ。

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考える人とはとは

何かについて考え、それが「わかる」とはどういうことでしょうか。

「わかる」のが当然だった時代は終わり、平成も終わり、現在は「わからない」が当然な時代です。わからないことを前提として、自分なりの考え方を模索するしかありません。

わかるとは、いわば自分の外側にあるものを、自分の尺度に照らして新しく再構成していくこと。

"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)*を編集理念に、Webメディア「考える人」は、わかりたい読者に向けて、知の楽しみにあふれたコンテンツをお届けします。

*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

三品輝起

みしな・てるおき 1979年京都府生まれ。愛媛県にて育つ。2005年より東京の西荻窪で雑貨店「FALL」を経営。著書に『すべての雑貨』(夏葉社)がある。
Photo © 本多康司

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