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デモクラシーと芸術

2019年7月31日 デモクラシーと芸術

第7回 ショパンにおける望郷のナショナリズム

著者: 猪木武徳

※文中の曲名をクリックすると、曲の一部を試聴できます。
※ナクソス・ミュージック・ライブラリー(NML)非会員の方は冒頭30秒ですが、会員の方は、全曲を試聴できます。

 モーツァルトが、ドイツ語オペラの作曲に強い熱意を示したことについてはすでに述べた。ジングシュピール(Singspiel 歌芝居の一形式)の伝統上にある「後宮よりの誘拐」(Die Entführung aus dem Serail)(K.384)は、彼がコロレード・ザルツブルク大司教と決裂した翌年、1782年にウィーンで仕上げた作品だ。ウィーンのブルク劇場(Burgtheater、1748年完成)においてドイツ語で初演され、大成功を収めた。

ブルク劇場(ミヒャエル広場に面した旧ブルク劇場の写真。1880年頃撮影)

 ブルク劇場は、王宮(Hofburg)北東の一角の祝祭ホールを劇場とすることを、マリア・テレジア「女帝」が1741年に許可して誕生した。18世紀半ばまでのドイツ語圏の劇場の演目は、イタリアとフランスのオペラ、バレー、演劇が中心であり、ドイツ語によるオペラや演劇の上演はまれであった。その後、劇場が経営難に陥ったこともあり、1776年、皇帝ヨーゼフ2世がブルク劇場を「王宮に隣接する国民劇場」であると宣言する。この1776年が記念すべき「国民劇場」誕生の年とウィーンの人々は考えているようだ(M. Dietrich)。
 国民劇場所属の歌手や俳優は、「国家公務員」あるいは「宮廷公務員」の地位を得、老齢年金が支給されるという制度も生まれた。上演プログラムも、18世紀末にはドイツ語で書かれた劇、ないしは「優れたドイツ語に翻訳された」出し物に限定されるようになった。
 モーツァルトの「後宮よりの誘拐」の劇中会話は、レチタティーヴォ(朗唱)で歌われるのではなく、セリフとしてドイツ語で交わされる。このジングシュピール形式は、もちろんモーツァルトにとって初めてのスタイルではなかった。12歳の時に書いたオペラ『バスティアンとバスティェンヌ』(K.50)でも用いられている。しかしウィーンでコンスタンツェ(将来の妻)の近くに住めることになって、26歳のモーツァルトの心意気は異なっていたはずだ。「国民劇場」用のリブレットを渡されて作曲に取り組もうとしたとき、「ドイツ語のオペラだ」というナショナリスティックな感情が湧きあがったことは想像に難くない。
 このエピソードからも、オペラでの音楽表現と「言語」が実は深く関わっていることが見て取れる。こうした「言語とナショナリズム」、「国民感情の表われとしての民謡」などの問題について本章では考えたい。もちろん、作曲家が自分の国や地方で長く歌われてきたメロディー(音階)、リズム、あるいは和声を用いることを、そのまま「ナショナリズム」に結びつけることはできない。そうすれば恐らくほとんどの作曲家は「ナショナリスト」になってしまう。すでに、18世紀の音楽の中に、イタリア協奏曲、フランス風序曲、あるいはドイツ舞曲というスタイルははっきり意識されている。
 「国民楽派」とか「ナショナリズムの作曲家」とは何を意味するのか。民謡(folk song – Volkslied)などから霊感を得た作品の中で、優れた芸術品として人々に愛好されるのは、どのような作品なのか。おそらく、その「ナショナル」な要素が確実に「普遍性」の域に達した音楽が、真のナショナリズムの音楽と言い得るのであろう。この「普遍性(universality)」という概念は、中世以降のヨーロッパにおける形而上学の一大テーマであったことは言うまでもない。「普遍」が、歴史や思想の問題として論争されたのは18世紀に入ってからである。この点については後の章で改めて考えてみたい。
 ではナショナルなものが普遍的なものへと昇華される道を準備するのは何なのか。共通感覚を前提としていることは確かだ。あるいは、人が誰しも抱く「懐かしさ」「過ぎ去った時間と場所への思い」「異郷から故郷を想う」という感覚と結びついているのかもしれない。「美」というイデアには「ノスタルジア」という要素が含まれているように感じる。ちなみに、ノスタルジアはhomesicknessと訳される。nostosは「家に帰ること」、algosは「痛み」であるから、ノスタルジアは「病」なのだ。 

どんな体制からも生まれ、どんな体制をも生み出す   

  モーツァルトのナショナリスティックな姿勢とは具体的にはどのような情念(passion)なのか。そもそも「ナショナリスティック」とは何を意味するのだろうか。政治思想の分野でも、ナショナリズムに関する議論は多い。しかしその情念があまりに本源的なため、それが何かについての定説や唯一の定義が存在するわけではない。その社会の構造、知的・文化的伝統、地理的条件などによってナショナルなものの現れ方も異なってくる。
  作曲家のナショナリズムが劇的に噴出した例としてしばしば引かれるのは、F・ショパン(1810~1849)の「革命のエチュード」(『練習曲』Op.10-12 )だ。ショパンの生まれたポーランドは、当時、ロシア、プロシア、オーストリアによって3分割されており、「ポーランド」という国家は存在しなかった。ウィーン会議の後、ロシア帝国の強い支配に対する不満と怒りが、ポーランド社会の特に上層部に鬱積し、1830年11月29日、ロシア帝国陸軍がフランスの7月革命を鎮圧するためにポーランド軍を投入しようとしたことに対して、ワルシャワの若き下士官たちが蜂起するという事件が起きる(Cadet Revolution)。この「ロシア・ポーランド戦争」には、リトアニア、ベラルーシ、右岸・ウクライナの兵士達も加わった。ポーランド将兵らが善戦した地域もあったが、17万の兵力を投入したロシア帝国陸軍の前に蜂起は鎮圧される。
 すでに作曲家・演奏家として成功をおさめ、ヨーロッパ全土へと活動の場を広げようとしていた20歳のショパンは、蜂起の勃発する約4週間前の11月2日にオーストリアに向けて旅立っていた。この「ロシア・ポーランド戦争」の敗北が決定的となった翌年秋、ドイツ・シュトゥットガルト滞在中の9月8日にショパンが記した慟哭のメモが残されている。「モスクワが世界を支配する。おお、神よ、あなたは存在するのか?あなたはそこにいるのに復讐しようとしないのか。さらにどれほど多くのロシアの犯罪を望むのですか? あるいはあなた(神)もロシア人なのですか!」(Chopin’ s Letters, No.68, Dover)と痛嘆し、その怒りと悲しみの中から生まれたのが「革命のエチュード」だと言われる。

ロシア・ポーランド戦争

 時期的にはつじつまが合っているが、それほど直接的な感情をぶつけて作曲されたのかどうかは定かではない。しかしこの時期のショパンの精神状態を反映していることは確かであろう。少し後に作曲された「スケルツォ 第一番(ロ短調)Op.20」(1833年)、あるいは「前奏曲」(Op.28-24)(1836~39年)の音楽からも、同じような「ナショナリスティック」な激烈な心情と、政治状況への苛立ちが読み取れるような気がする。ショパンのナショナリズムは、故郷(ワルシャワ)を離れた外国で生まれたという点も重要だ。
 ポーランド独立への蜂起が敗北に終わったのは、このナショナリズム革命が、ワルシャワのロシア帝国陸軍士官学校というポーランド社会の上層部から巻き起こったという事情も大きい。農民が大勢を占める一般民衆の参加はあったものの、むしろ、彼らの多くは地主や都市のインテリ層に強い反発を抱いていたとも指摘されている。19世紀前半のナショナリズムは、「エリート」のナショナリズムであり、「大衆運動」ではなかったのだ。
 歴史的に見ても、ナショナリズムは、バラエティーに富んでおり、デモクラシー、ファシズム、共産主義、いずれの体制の下でも現れる。しばしば19世紀のヨーロッパは「ナショナリズムの時代」とも呼ばれる。確かに1815年以後の中欧、東欧、南欧の政治地図はナショナリズムによって書き換えられていく。しかしポーランドが、再び国家として再生するのは、第1次大戦でプロシア、オーストリア、ロシアの三つの「帝政」が姿を消すまで待たねばならなかった。
 ナショナリズムは20世紀に入ると、ヨーロッパを越えてさらに広がり、「汎ナショナリズムの時代」と言われる世界に広く浸透する。特に途上国では、「社会主義革命」という衣をまといつつ、ナショナリズム運動が爆発的エネルギーを発揮するケースが目立ち始める。

郷愁(Heimweh)と平等思想

 このナショナリズムという概念に、日本語として定着した訳語はない。重要な用語ほど、厳密に定義できないのが歴史学や社会科学の常である。概念そのものが無いわけではないが、日本語では、国家主義、愛国主義、国民主義、民族主義と、そのコンテキストによって適宜使い分けられており、書き手によって込められた意味にはズレがある。
 ナショナリズムの「過剰」を意味する類語は、「国粋主義」のように、負の価値を込めて用いられる。19世紀初頭のフランスの陸軍兵士(実在したかどうかは不明)、ニコラ・ショーバン(Nicolas Chauvin)の名前に由来するショービニズム(chauvinism 行き過ぎた愛国主義、排他主義)、ジンゴイズム(Jingoism 対外政策での感情的対外強硬論)もその例だ。ちなみに、“Jingo”とは、何か不思議なもの、神秘的なものが出現するときの「掛け声」として用いられる言葉らしい。手品師が帽子から鳩を出すときの掛け声は、“hey, jingo”だ。
  こうしてみると、それが「極端」なのか、適宜性があるのかによって、ナショナリズムへの評価は分かれる。あらゆる徳が中庸を意味するように、「過剰な攻撃性」(exaggerated bellicose)は、名誉、品位、価値などを傷つける不徳なのだ。
 「…とは何か」という方向に少し話がずれてしまったが、ナショナリズムを「自己のルーツに対する適度な愛情」と考えると、これを否定することは、人間の根源的な感情を否定することになる。人は自国の同胞に対しては、見知らぬ他国の民に対するのとは異なった特別の愛着(fellow-feeling)を持つ。同胞が住み、懐かしい山河のある故郷をいとおしむ気持ち(郷愁―ドイツ語のHeimweh)と言ってもよい。シューマンのLiederkreis Op.39の最初の曲、In der Fremdeに、「望郷」の思いは見事に歌われている。それは、「過ぎ去った時間と場所への異郷からの思い」とでも言おうか。

ロベルト・シューマン

 人々が抱く、こうした郷愁は、自己愛と人類愛の中間的な存在と位置付けることができる。人は個別の人間を愛することはできる。しかし「人類を愛する」ということには、偽善や虚偽とは言わないまでも、観念的な不確かさが付きまとう。すべての人間は平等だというデモクラシーの思想にも似たような事実と理念の混同を生む危うさがある。
 こうしたナショナリズムとデモクラシーの類似性を、19世紀のヨーロッパ社会という視点から見ると、少なくとも二つか三つの関係が指摘できる。
(1)デモクラシーは人間すべてに同じような自由を与えるという理念を最高価値としているから、生まれや出自を同じくする者たちが、集団を形成して、その利益を主張することは力を生み出す。したがって「平等の原理」こそがナショナリズムを刺激するという面。
(2)先に挙げた、ポーランドの「11月蜂起」が示すように、デモクラシーという体制ではなくても(専制政治の下でも)ナショナリズムは生まれ、ナショナリズムがデモクラシーをもたらす可能性があるという歴史的な事実。
(3)デモクラシーの「境遇の平等化」が人々をアトム的な存在と化し、個人主義を徹底するとすれば、それは「集団」の結束を求めるナショナリズムにとって阻害要因となり得るという関係。
  言葉の意味を云々する話に終始したが、ナショナリズムの問題は、「政治的共同体の範囲」と「文化が共有される範囲」をどう考えるのかと単純化する立場もある。その場合、「文化」とは何かという厄介な問題が立ち現れる。具体的には宗教、言語、生活慣習、そして「人種」の違いが関わってくる。

思考の器官(organ)としての言語

  多様なナショナリズムではあっても、そこに認められる共通要素はある。ひとつには「民族自決」という言葉が示すような、政治的な「自己決定」、文化的な「自己決定」である。だが、その場合「自己」とは何か。その決定が個人から集団へと移行するにつれて、前節の(3)の、個人の自由と民主的決定の間の対立関係が問題となる。
 この点をはっきりと意識し問題としたのはJ・S・ミル(1806~1873)であった(“Vindication of the French Revolution of February , 1848”)。ミルは、ナショナリズムが過剰になり始めると、集団の自己決定に強く傾斜するため、言語や民族という要素以外の個人の権利や利害について人間は無関心になりやすいと指摘する。「ナショナリティ」という感情が、自由への愛を上回り、自分たちの自由と独立を圧倒するように支配者をけしかけるような野蛮な状態を招来する危険性があると説くのだ。

J・S・ミル

 ミルが批判したのは排他的なナショナリズムであり、先ほど触れたような、「過剰」なナショナリズムであって、ナショナリズム自体の否定ではない。その点に留意すると、「文化的自己決定」についての重要な論点は最終的には人種や宗教よりさらに奥にある「言語」の問題に収斂すると考えてよかろう。その徹底した具体例は、後段で考えるモラヴィア出身の作曲家ヤナーチェクの「発話旋律」の問題だ。
 言語の問題に、近代、最も早い段階で根本的な視座を築いたのはドイツの文人J・ G・ヘルダー(1744~1803)であろう。彼は「創造的な仕事は自己自身の方言・通俗語(Volkssprache)においてのみなされる」と直感し、偉大な芸術は、常に、自然な民族精神(Volksgeist)の表現であり、その精神から生まれる」と考えた。ヘルダーの考えは、当時主流とみなされていた理性中心の普遍性を前提とする「啓蒙主義」とは相反する方向性を持つものであった(I. Berlin)。

J・ G・ ヘルダー

 ヘルダーの思想は、音楽とナショナリズムの問題を考えるとき――特にヤナーチェクのそれを考える場合――重要な示唆を与える。ヘルダーは、言語は、それが使用されている共同体が、考え、感じるための枠組みやパターンを形成することに寄与するとみなす。つまり言語は「思考の器官(organ)」と捉えるのだ。普通、われわれは「言語はコミュニケーションの手段だ」と安易に言うことがある。確かにそうした「手段」的な性質はあるが、人間が他者と共に考えるための創造力の表現形でもあるという点にヘルダーは注目する。そして、言語と文化伝統を、国家・国民を作り上げる「絆」と捉える。その絆には、フォークロア、ダンス、音楽、そして絵画などの文化現象が重要要素として含まれる。
  Volk(民族・国民)という概念を深めるために、ヘルダーは民謡(Volkslieder, folk songs)の収集に没頭する。この「民謡集」は1778-9年に刊行される(Stimmen der Völker in Liedern)。ちなみにこのヘルダーの大著は最近邦訳が出版された(嶋田洋一郎訳『ヘルダー民謡集』九州大学出版会)。手に取ると、その浩瀚さに驚くと同時に、「こういう仕事こそ学問だ」と感激するばかりだ。
 デモクラシーが浸透して行く19世紀ヨーロッパで盛んになったロマン派の音楽には、「愛国的な(patriotic)」感情が、言語を中心に「民族精神(Volksgeist)」として強く表現されている。ボヘミア知識人たちは、彼らのサークルの中ではドイツ語を話し、チェコ語を完全に操れるものは多くなかったという実情は、後で論ずるようにカフカやヤナーチェクの文学や音楽に反映されている。複数言語という環境、言語による統一という点を抜きにしては、普遍性に至るチェコのナショナリズムを理解することは難しい。その一端を知るために、ボヘミア、モラヴィア、そしてロシアの音楽における19世紀のナショナリズムの多面性を振り返ってみたい。

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*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

猪木武徳

いのきたけのり 1945年、滋賀県生まれ。経済学者。大阪大学名誉教授。元日本経済学会会長。京都大学経済学部卒業、マサチューセッツ工科大学大学院修了。大阪大学経済学部教授、国際日本文化研究センター所長、青山学院大学特任教授等を歴任。主な著書に、『経済思想』『自由と秩序』『戦後世界経済史』『経済学に何ができるか』『自由の思想史』など。

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