考える人

シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。
知の楽しみにあふれたWebマガジン。
 
 

雑貨の終わり

 心臓から送りだされた血が、黒い穴から噴きこぼれる。酒井は震える手で、友人に空いてしまった小さな穴をふさいだ。音もなく血はあふれ生成色の開襟シャツをゆっくりと染めていく。さっきまでいた兵舎は燃え、遠くの格納庫がゆっくりとくずれ落ちた。滑走路の先の管制塔は硝煙にはばまれもう見えない。待避壕のまえで静かに耐える間宮の顔を見ていると、じぶんが少しでも目をはなしたら、その途端に死んでしまうんじゃないかという恐怖がとりつき動けなくなった。気づくと傷口から手をはなしていた。もう一度体に目をやったときには、酒井の手も間宮の服もべったりと血に染まっていて、どこに穴があるのかわからない。敵機から放たれた弾は体をつらぬいたらしく、横たわる地面もおなじ色に染まっていった。「水」。間宮は苦しそうに目を動かし、そしてまた「水」とうめいた。酒井は通りかかった食堂のおばさんに「軍医を」と大声で伝えた。
 一匹の油蝉が鳴きかけてすぐにやめ、あたりは静かになった。海風が煙を運んでいくと、飛行機乗りの習慣から空をあおいで天候を確かめる。まばゆい八月の青空に、敵機はもういない。酒井はぼうぜんと、早朝の飛行場で友を抱いているじぶんを空から眺めた。やがて兵舎の消火活動がはじまり、その人だかりからぬけでるかたちで軍医が走ってやってくる。間宮に低い声で話しかけ傷口に触れたあと、医者は首を横にふって「内臓が破裂していて、もう助からない」といった。「水をあげてください」。酒井は水筒からゆっくりと水を注ぐ。いったん間宮の口にたまり、一呼吸おいて、ごくりと音が鳴って水が喉を通りすぎていった。
 間宮くんはおいしそうに水を飲んで、静かに息をひきとりました。戦争が終わり、酒井は友の遺族をたずねたときに最期のようすを泣きながらそう語った。その二年後、彼は間宮の妹と結婚することになる。あまり苦しまず最後はおいしい水を飲んで逝った、という柔弱な救いをふくんだ記憶だけを、念仏をとなえるようになんども反芻してきた。頭の奥にこびりついたほんとうの惨事には鍵をかけ、しっかりと口をつぐんだまま、その後の人生を生きた。
「死んでしもたそいつの目を指で閉じてやるとな、わしの目が覚めるんや。いまでもおじいちゃんは夢を見てるんよ。部隊で一番親しかった友だちが、抱きかかえた腕のなかで血がとまらへんくなってる夢がな、ずっとずっとくりかえすねん。そやし、あいつとおじいちゃんとなにがちごうたんやろう、っていまも考えさせられんねん。それぞれ逃げこんだ避難壕もな、一メートルほどしかはなれてへんかったのに、なんであいつは死んで、じぶんは生きてるんやろう、って。おかしいやろ? 五十年たっても忘れられへんなんて。でもほんまのことなんや。あの日のことは一度も忘れられんねん」

 京都の洛北にあった祖父の家に泊まりに行ったのは、私が思いつきで雑貨屋を開店して二カ月ほどしかたたぬ秋口であった。風呂からあがると、橙色の常夜灯だけがともる仏間のふとんのうえで、祖父があぐらをかいて待っていた。頭も肩も尻も肉厚でずんぐりしていて、暗がりで見ると『地獄の黙示録』のカーツ大佐のようで、大きな手の指を一本二本とおりながら「もうできてだいぶたったんとちゃうか。店、土産もん屋さんやんな」とたずねた。いやそうやなくて、と雑貨屋という業態について説明しようと試みたが、話せば話すほど祖父は苦いものを口にふくんだような表情のまま固まっていき、「それを、土産もん屋さんというんとちがうんか」と口をひらいた。そのころまだ「雑貨化」などという言葉をもたなかった私は、あらゆる物を雑貨としてとらえ、セレクトし、観光地でもなんでもない都会の片隅にならべ、そこを通りがかっただれかにむけて売る、といった砂上の楼閣のような小商いの意義を祖父に伝えられなかった。「昔からそんなんやりたかったん? まあ、お父さんもいろんな商売やってはるしな」と優しくいった。「いや、なんとなく。これならできそうやって、思っただけやけん」
 床の間のとなりの違い棚のうえに仏頭があった。幼いころから変わらずおいてある、ウェービーな髪をなでつけ鼻筋がとおった奇妙な釈迦。うっすらとほこりがつもった彫りの深い顔の下から細い鉄の棒がのびていて、大理石の台座とくっついている。
「これ、ずっとここにあるね」
「そやで。わしが仏彫るきっかけになったガンダーラの仏頭や。むかし古道具屋で見つけてな。首から下は、のちに侵入したイスラームのひとが破壊したんかもしれへんわ。目が細くて、パンチパーマの大仏とはまったくちゃうやろ。美男や。これが仏像の起源なんやて。それまでひとは釈迦の姿かたちをかってに彫ったらあかん、って思ってはった」
「もうそれまえも聞いたわ。よう知っとるけん」
 二世紀ごろにアフガニスタンやパキスタンのあたりでつくられた青黒い石彫にはヘレニズムの色濃い影響があり、角ばった目鼻立ちはまさにギリシャ彫刻のようだった。祖父いわく仏教美術のはじまりにはギリシャ文明のみならずヘブライズムの影響があるらしいのだが、正直よくわからない。ともかく、その自説はかならず芸術を介したさまざな世界宗教の蘊蓄へとそれていき、最後は「わしは信仰で仏を彫ってたわけやない」というせりふにたどりついた。祖父は釈迦の教えより仏像のもつ美の細部に、大乗仏教よりも人類がさまざまな神を信じてきた歴史に興味があった。書斎にはあらゆる宗教と古代美術に関する本があり、とりわけ井筒俊彦のイスラーム研究の著作がたくさんあったのをおぼえている。なぜか京都大学にかかわった学者をひいきにする傾向があって、会うたびに「このひとはむかし京大で教えてはって」などと説明しながら、ほんとうにいろんな本をくれた。きっと祖父の身のまわりで、そういった抽象的なものごとに関心ある若者は、私くらいしかいなかったのだと思う。
 残された手記によれば、一九八一年十一月のページに「木彫りを習いはじめて三年」という記述がでてくる。ということは祖父が彫刻刀をにぎったのは七八年、五十代のなかばのころだ。そのときの祖父は某大手酒造メーカー傘下で、業務用の酒類の卸しなどをてがける会社を経営していたので、おそらく多忙な仕事の合間をぬって市内の仏師のもとにかよい、少しずつすこしずつ学んでいったのであろう。かんじんなガンダーラの仏頭といつ出会ったかは記されていない。シャープペンシルか、先の尖ったHの鉛筆で書いたような、細くて几帳面な字をたどる。八十年六月、アメリカのウィズ家へ、八一年十二月にはハンター・セツ子氏へそれぞれ観音像を送った、とある。仕事で海外との取引もあったので、祖父は外国人とのつきあいも多く、小学校のころ、夏休みに洛北の家に行くと、庭で背の高い中国人に鹿威(ししおど)しの説明をしているのを見たことがあった。そんな仏像彫りも、学びはじめて十年くらいがすぎたころに突如、終わりをむかえた。心筋梗塞でたおれ、後日、病院で検査したときにはすでに心臓の半分が壊死していた。一命をとりとめたあと、医者は息を止めて力む行為をけっして許さなかった。

 その夜の仏間の記憶がありありとひっぱりだされたのは、数年後の夏休みに訪れた、ロンドン郊外のフロイト博物館であった。当時、私の店は開店から三年が過ぎ、深刻ないきづまりをむかえていた。伝統を守ったり、アイロニカルだったり、地球にやさしかったり、高尚だったり、かわいかったり、便利だったり……あらゆる使命をおびて店におしよせる雑貨の濁流のなかで憔悴しきっていた。いま思えば身勝手な観測でしかないが、数年まえまでは、そんな奇態な雑貨業界のゲームに片足だけつっこんで対価をえつつ、もう片方の足でどうにかすれば心は自由でいられる気がしていた。しかし自意識だけがでかくて、就職もろくにできないような人間がはじめた自営において、仕事とプライベートの区別などあるわけがなかった。
 気がおかしくなるまえに、雑貨とはなにかをつきとめなきゃならない。ときどき店がうまくいって心に余裕ができると、そそくさと高い場所にのぼって雑貨世界を俯瞰しては、地図に情報を書き足していった。じぶんのことは棚にあげて、その丘から分けへだてない階層のひとびとが、自身の理想のライフスタイルと現実のあいだの差分を埋めあわせるかのように雑貨を買いつづけるようすを見下ろしていた。しかしあるときから、そんな国は日本だけなんじゃないかという疑念がふくらんでいくと、物だらけの店で座っていることも、雑貨の手中に落ちた物たちで満ちみちた街を歩くことも、安いアートピースや動物の置物なんかをちまちまならべた自室で過ごすことも、そして雑貨について考えることさえも苦しくなっていった。小麦アレルギーになってしまったパン屋のように、雑貨屋をやりながら、あらゆる物が雑貨として存在している現実に耐えられなくなった。そして私は長い夏休みをとって海の外へでた。

 理性は無意識に支配されているのかもしれない、という不穏なフロイトの著作は一九三三年、ナチス党がドイツで政権の座についてすぐに発禁となり、ドイツのほうぼうの街で本が焼かれた。彼の長い人生には、娘の死が、孫の死が、姪の自殺が、藪医者による数十回にわたる顎の手術の失敗が、あらゆる友人知人との決別があった。一九三八年、祖国オーストリアはヒトラーによる領土拡大の最初のえじきとなり、八十二歳の彼は老体に鞭打ってドーバー海峡を渡った。新しい住まいでも、すぐに診療所をつくると患者の分析治療を再開し、その翌年、遺書ともいうべき『モーセと一神教』を書きあげる。だがすでに末期をむかえた口腔がんは堪えがたい苦痛をフロイトにあたえつづけ、第二次大戦が幕開けた九月、主治医に多量なモルヒネの投与を頼んで死んだ。いま、その終の住処に私は立っていた。
 一階の診療室には、革装の本がぎっしりつまった書棚が左の壁一面に、有名なペルシャ絨毯にくるまれた寝椅子が右手においてある。その奥の白い棚には、いっさいの神を信じることなく生涯集めつづけた古代の神々の小さなオブジェにまじり、仏頭があった。石の色はちがって白かったけど、あれはガンダーラの鼻筋だとすぐにわかった。この煉瓦づくりの屋敷に入ってからずっと、綿や羊毛にうっすらほこりと黴がまじったような、なつかしい香りが漂っている。
 二階にあがると肩幅より広い巨大なノートが置いてあり、あなたの夢をしるしなさい、と娘なのか孫なのかさだかではなかったが、アンナ・フロイトによる指示書きがあって、はっとした。というのは、ロンドンに着いてから毎晩、奇妙な夢に悩まされつづけていたからだった。世界中からフロイト詣でにやってきた者たちが、いろいろな言語で昨夜見た夢を残している。

「私は古い日本家屋のふとんのうえに座っていました。夕闇が冷たい夜気のなかに溶けていき、障子が開け放たれた縁側のむこうに、群青色に沈んだ森の影が見えました。ぼんやりと青く光る部屋の間取りから、おそらくここは岐阜の曽祖父の家だとわかりました。私は一度しか訪れたことはありません。ただ、あるはずのないシーリングファンがゆっくりまわっていました。サマーハウスにあるようなやつです。なぜか上京してから知り合った数人の男女が、暗い廊下からひとりずつでてきて私と挨拶をかわしました。おお、ひさしぶり。元気ですか。みな一様ににこやかで優しく、ひさびさに胸の奥底がゆるんでいるのがわかりました。こんな時間がずっとつづけばいいのに、などと考えながら相槌をうっていたのですが、ちょっとずつ、この夢の登場人物たちと私は、現実の世界においてすでに縁が切れていることを思い出していきました。そのときは変だと感じませんでしたが、山奥の家にいるはずなのに大きな船の汽笛がひびき、それが消えるのと入れかわりで、瀬戸内の海のような穏やかな潮騒が聞こえてきました。ホテルの隣室から漏れる、鼾だったのかもしれません。いつしか知人たちの気配も消えてなくなっていました。すると、彼らは私と疎遠になって去っていったのではないことに気がつきました。そうじゃない。そうではなくて、みんな遠いむかしに死んでしまったひとたちなのだ、と頭に浮かんだ瞬間、私は目をさましました。胸が激しく拍動していて、ベッドからしばらく動けませんでした。ブラインドカーテンのむこう側で、弱い雨が降っています。その理不尽な想念はいつまでも頭のなかに居残り、ホテルのラウンジで朝食をとりながらも、ひとりの人間の記憶のなかで、もう会わなくなったひとたちと不帰の客のあいだに、いったいなにが横たわっているのだろう、などとつらつら考えていました。日本の旅行者より」

 中学生レベルの英語で今朝の夢を書きつけているとき突然、この建物に漂うなつかしさの原因がわかった。祖父母の家とまったくおなじ匂いだったのだ。
 フロイト研究の第一人者、ピーター・ゲイの著作名にもあるように、『神なきユダヤ人』として精神分析を打ち立てたフロイトは、あらゆるものとの戦いを恐れなかった。エスや超自我の発明により人間の理性を葬り、完全な無神論者として神々を否定した。案内板には、ファシズムに対してさえフロイトは超然としてひるまなかった、と書いてある。入口にもどり、ミュージアムショップをのぞく。すると、その小部屋では不屈のフロイト博士がさまざまな雑貨に分裂し、死後の生を謳歌していた。アメリカから診療をもとめて押しよせた金持ちたちを「ドルの国(ドルリア)」と呼んで毛嫌いした男が、人形となり、文具となり、カードゲームとなり、腕時計やエコバッグやマグネットとなっていた。あの彼の愛したペルシャ絨毯さえもミニチュア化してコースターとして売られている。死んで七十年がたち完膚なきまでに雑貨化された世界を、彼ならどう分析するだろう。たとえば心の内側からつきうごかされる蒐集癖であればフェティシズムとして説明可能かもしれないけれど、からだの外側にある、目に見えぬ資本の大河に流され雑貨を買いもとめるわれわれを、どう論じただろう。
 もちろん私もいそいそと売店で買い漁った。会計のおりに店員は、両手いっぱいに物品をかかえた東洋人を見て、首を左右にふりながら「アー・ユー・サイコロジスト?」と苦笑した。いったいこのミュージアム・ショップでいくら金をつかったのか。じぶんの土産物以外に、フロイトの肖像写真が転写されたマグカップを山ほど仕入れた。けがらわしいものを見るような目つきで、コップをもつ者を睨んでいる。フロイディアンであることを公言している音楽家に手渡すつもりです、といって私の店でマグカップを買った奇特な編集者がいた。フロイディアン? フロイトの精神分析を予見的なメディア論として、アクチュアルに読み替える作業は現在もすすんでいるようだが、世間一般ではやはりもう、ある種の文学としてしか見なされなくなった。彼のテクストはいまでも、世界中の芸術家たちの想像力を刺激しつづけているのだろうか。私をふくめ、売店で本などだれも買ってなかった。

 いつもの祖父ならとっくに寝ている時間だったが、その夜はふとんのうえで自作の木彫をならべていた。その教えよりも仏像の細部にやどる美をもとめた祖父の作品に如来はほとんどなく、かわりに横笛をふいたり雲にのったり獅子にまたがったりした愉快な菩薩が多かった。いくつかある大作もぜんぶ観音菩薩で、「やっと、今度これを知覧の特攻基地におさめんねん」と、狐のような手のかたちで蓮華の花をもった観音を見せてくれる。どの仏も祖父そっくりの骨太体型で、ずんぐりしていた。首も足も短く、丸顔。なぜ犬と飼い主が似てくるのかはわからないが、仏像と作者が似るのはとうぜんのような気もする。一体だけ飛行機乗りの格好をした自画像があった。現実の祖父と、祖父が彫った仏のちょうど中間にあるような顔つきをしていて、もしかしたら最初につくった作品なのかもしれない。ヘルメットにゴーグル、落下傘のベルトをしめて短刀をにぎりしめた十九歳の祖父。三十センチほどの人形を手にもつと、火星隊、陸軍航空隊、見習い士官、特別攻撃隊、第三一三隊……つぎつぎと堰き止められていた過去があふれ、しだいに話の脈絡は戦中の霧のなかで離散していった。うなずくことをやめても、祖父は壊れたロボットのように話しつづけ、私はただ、じぶんの商いのことをぼんやり考えていた。
「死んだら好きなんあげるわ」という声ではっとわれにかえった。私は迷うことなく祖父の自画像を指さす。
「これがいいんか。仏やなくて」
「仏、飾るとこないけん」
「そやな、仏なんかええんよ。おじいちゃんは忘れられへんから彫ってきただけやから。こうやって木をな、息止めて」。大きな手で見えない彫刻刀をふとんに突き刺した。
「なにを忘れられんの?」
 作品を箱にしまいはじめた祖父が、うつむいてできた暗い影のなかで動かなくなった。長い沈黙があり、海風がふいた。あの朝の飛行場を硝煙が北に流れていった。

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考える人とはとは

何かについて考え、それが「わかる」とはどういうことでしょうか。

「わかる」のが当然だった時代は終わり、平成も終わり、現在は「わからない」が当然な時代です。わからないことを前提として、自分なりの考え方を模索するしかありません。

わかるとは、いわば自分の外側にあるものを、自分の尺度に照らして新しく再構成していくこと。

"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)*を編集理念に、Webメディア「考える人」は、わかりたい読者に向けて、知の楽しみにあふれたコンテンツをお届けします。

*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

三品輝起

みしな・てるおき 1979年京都府生まれ。愛媛県にて育つ。2005年より東京の西荻窪で雑貨店「FALL」を経営。著書に『すべての雑貨』(夏葉社)がある。
Photo © 本多康司

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