考える人

シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。
知の楽しみにあふれたWebマガジン。
 
 

デモクラシーと芸術

2019年8月28日 デモクラシーと芸術

第8回 ドボルザークとチャイコフスキーを結びつけた「絶対音楽」

著者: 猪木武徳

※文中の曲名をクリックすると、曲の一部を試聴できます。
※ナクソス・ミュージック・ライブラリー(NML)非会員の方は冒頭30秒ですが、会員の方は、全曲を試聴できます。

故郷は遠きにありて思ふもの

  19世紀のロマン派の音楽をナショナリズムとの関連で考える場合、いくつかの「区別」が必要になる。たとえばショパンのマズルカポロネーズなどの作品は、ポーランドの民族舞曲を素材としており、「ナショナリスティック」な感情のあらわれであることは否定できない。だが、それらの作品をナショナリズムの観点からのみ論ずるのは妥当ではなかろう。
 ヨハネス・ブラームス(1833-1897)の「ドイツ民謡集(Deutsche Volkslieder)」についても同じであろう。ブラームスに「ドイツ的なもの」を感じても、彼をナショナリズムの作曲家とはみなさない。フランツ・リスト(1811-1886)の「ハンガリア狂詩曲」にジプシーのメロディー・ライン、テンポとリズムが多用されていても、リストの音楽をナショナリズムと結びつけて論じるのは、その音楽を正当に評価したことにならない。これらの作品には「ナショナルなもの」を超えた普遍的(universal) な美を聴き手は感じ取るからだ。
 音楽史家のドナルド・ジェイ・グラウト(1902-1987)は、ショパン、ブラームス、リストらの音楽は、イタリアとフランスの音楽がバロック期以降のドイツ的な理論展開を遂げる中、それぞれの国で伝統的に引き継がれてきた音楽を同化させたものであって、マズルカのリズムやジプシーの音楽は、国際性のある、あるいは普遍性を持つ音楽(主)へのexotic accessories(従)だという意味のことを述べている。
 しかし19世紀も半ばを過ぎると、「主」と「従」の関係が逆転する。ナショナリスティックな要素を前面に強く押し出す作曲家が、それまで西洋音楽の主流であったイタリア、フランス、ドイツ語圏外の周辺の国々(スカンディナヴィア、オランダ、ベルギー、スペインなど)から現れ始める。こうした作曲家の作品のほとんどは、クラシック音楽の表舞台、あるいはCDや演奏会で取り上げられる機会はあまりない。音楽史の書物の中でのみ、その名をとどめた芸術家だ。その中で、よく演奏され、音楽史で必ず論じられるのが、チェコ(ボヘミアとモラヴィア地方)の作曲家ではなかろうか。
 チェコの作曲家の中で、多くの人々に好まれ、現代でも演奏会でしばしば演奏されるのは、ベドルジフ・スメタナ(1824~1984)であり、少し遅れてそのあと活躍したアントニン・ドボルザーク(1841~1904)である。

ベドルジフ・スメタナ
アントン・ドボルザーク

 二人に共通するのは、一時期故郷ボヘミアを離れたという「外国体験」である。ボヘミア出身(モラヴィアにかなり近いが)で、1848年のプラハの民族蜂起を20代半ばで経験しているスメタナにとって、外国滞在は彼の感性とイメージ世界を広げたはずだ。スメタナは、スウェーデンのヨーテボリで5年間を過ごしている。彼のナショナリスティックな側面はこの「故郷を離れた」という事実とも関係しているのではないか。ヨーテボリ滞在は、その旅の途中でリストに会う機会ともなった。さらにその間、シェークスピア、シラーなどの悲劇を学び、音楽と文学の結びつきについてのビジョンを得ている。チェコ圏外の文化に接する機会だけではなく、自分の出自がボヘミアであることへの自覚を強めた時期でもあったと言えよう。
 スメタナはオペラを8曲書いている。その中で興行的に最も成功した作品はチェコの国民的なオペラとも呼ばれる『売られた花嫁』である。彼自身は『ダリボル』を自信作とし、『売られた花嫁』は、自分を「ワグネリアン」(ワーグナーのファン)とみなす連中への当てつけに書いたと回想している。ダリボルは、15世紀末にチェコ民族を悪政から解放しようとして処刑された英雄的な騎士であり、オペラ『ダリボル』の台本そのものは、チェコ語でもドイツ語でも上演可能な形で書かれた(The New Grove Book of Operas)。
 『売られた花嫁』の台本(Karel Sabina)はチェコ語で書かれており、1866年5月の初演はプラハのチェコ仮劇場(まだ国民劇場が完成していない)、ドイツ語訳詞は、約四半世紀後の1893年4月、ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場で初演された。チェコの農村を舞台にしたこのオペラの聴きどころのひとつは、吃音のヴァシェク(テノール)の言葉と音楽の絡み合い(第2幕第2景)であろう。この作品の中にはボヘミア民謡のメロディーは使われていない。
 同じボヘミア出身のドボルザークは、プラハ音楽院の作曲科教授に就任した直後に、ニューヨークの国民音楽院(the National Conservatory of Music of America)創設者のジャネット・M・サーバー(Jeanette M. Thurber)夫人から院長となるよう要請を受け、1892年秋から1895年春まで3年近く米国で生活し、夏にはチェコ人が多く住むアイオワ州のスピルヴィルで過ごしている。
 この米国滞在中に、交響曲第9番Op.95(「新世界から」)(1893年)、弦楽四重奏第12番Op.96(「アメリカ」)「弦楽五重奏曲」変ホ長調Op.97チェロ協奏曲ロ短調Op.104(1894~95年)など多くの傑作が生み出された。特に「アメリカ」の第1楽章冒頭のヴィオラで演奏される五音階の第一主題のメロディーは、われわれ日本人の心にも強く訴える「懐かしさ」に溢れている。ドボルザークはこの傑作を2週間で書き上げる。これらの作品に、米国の黒人霊歌やジャズの影響が認められることは専門家の指摘する通りだ。
 人は「他者の中に自己を見る」というが、同じように外国にあってはじめて、自分の故郷を知る、という経験をした人は珍しくない。米国に比較的長く滞在してナショナリストになった日本人も意外に多いのではなかろうか。米国滞在はドボルザークに強くボヘミアを意識させたに違いない。「ふるさとは遠きにありて思ふもの、そして悲しくうたふもの」という詩(室生犀星「小景異情」)も、こうした気持ちを詠ったものに違いない。

ロシアの「五人組」のナショナリズム

 音楽の世界でのもっとも力強いナショナリズム運動はロシアで生まれた。これまで主流であった西ヨーロッパの音楽、特にドイツ音楽から自らを解放したいという明確な意思によって、ロシアの作曲家たちは政治的な信条を帯びた文化運動を展開するのだ。その手法として、主にオペラや交響曲において国民的な(スラブ的な)テーマを選び、作曲においては民謡の調べを取り入れる。メロディー、リズム、調性、和声などに新しい要素を持ち込んでいる点が注目される。
 音楽におけるロシア・ナショナリズムの中心となったのは、ピョートル・チャイコフスキー(1840-1893)と、いわゆるロシア「五人組」(mighty handful)である。1850年代後半から60年代にかけて生まれた「五人組」はバラキレフ、キュイ、ムソルグスキー、ボロディン、リムスキー=コルサコフの5人を指す。この中で、キャリアのはじめから音楽だけを専門としたのは「五人組」の纏め役、ミリイ・バラキレフ(1837-1910)だけであった。ツェーザリ・キュイ(1835~1918)は軍人、モデスト・ムソルグスキー(1839~1881)は役人、アレクサンドル・ボロディン(1833~1887)は医師・化学者(彼の名にちなんだ「ボロディン反応」という科学用語があるそうだ)、そしてニコライ・リムスキー=コルサコフ(1844~1908)はもともと海軍軍人であった。
 「五人組」という言葉は、当時のロシア音楽批評界の重鎮ウラジミール・スターソフ(1824~1906)が使い始めた。この五人は、「反西欧」、「反プロフェッショナリズム」、「反アカデミズム」を運動の共通目標としていた。

五人組(上段:バラキレフ、中段左:キュイ、中段右:ムソルグスキー、下段左:リムスキー=コルサコフ、下段右:ボロディン)

  代表的な作品は、素材そのものがロシアの歴史をベースにしたものが多い。ロシアの「国民文学」の父とも呼ぶべきA・プーシキン(1799~1837)による原作が目立つ。「五人組」のムソルグスキー、リムスキー=コルサコフ、そしてチャイコフスキーがプーシキンを使い、他にも多くのロシアの作曲家がプーシキン原作をベースに曲を書いている。むしろプーシキンを使わなかった作曲家を挙げるのが難しいくらいだ。

アレクサンドル・プーシキン

 中でも、最もロシア色を強く出したのはムソルグスキーであろう。プーシキンの原作を台本に用いた『ボリス・ゴドノフ』(1869)は彼の最も成功したオペラだ。ただ聴くたびに、台本の時代背景を十分理解していないため、ある種の精神的な壁(mental block)を感じてしまう。筆者は中学時代の音楽の時間に『禿山の一夜』(1866~67)を授業中に聴いて、その標題と音楽の結びつきが分からず戸惑ったことを憶えている。その戸惑いは、歌劇『ホヴァーンシチナ』(1872~80、未完)を、10年ほど前にマリインスキー歌劇場の日本公演で聴いた時にも感じたものだ。17世紀に帝政ロシアで起きた史実を基にした台本は、ムソルグスキー自身が書き上げている。音楽自体、迫力はあったが、わたしが求める「美しい音楽」ではなかった。「他国」の音楽だという印象が余りに強かったのだ。ユニヴァーサルではない、ロシア文明特有の洗練と粗さの混じった「ナショナリズムの芸術」のように感じるのだ。
  リムスキー=コルサコフはオペラと交響詩で傑作を残している。筆者は原作プーシキンの『金鶏』(The Golden Cockerel)の上演史に関心を覚えたことがあった。この作品は、体制批判がはっきりと表に出ていたため、検閲をなかなか通らなかったと言われる。筆者の持っているCD(1988年5月26日のボリショイ劇場のライブ録音、エフゲニー・スベトラーノフ指揮、TEICHIKU)の一柳富美子氏の解説によると、結局、リムスキー=コルサコフが狭心症の発作で亡くなった翌日の1908年6月22日に、やっと検閲を通過したとある。ただし、台本と楽譜に大幅な修正が加えられた形で上演され続けるという不幸な運命をたどる。オリジナル版がロシアで上演されたのは1988年で、CDはこの時の録音だ。実に作曲されてから半世紀以上の歳月が経っている。
 もう一人の「五人組」のメンバー、ボロディンはどうだろうか。プーシキン原作ではないが、自ら構想した交響詩『中央アジアの平原にて』(1880)、「ポロヴェツ人の踊り」で馴染みのある『イーゴリ公』(初演1890年)などが思い出される。前者には、具体的に「ロシア人のテーマ」と「東洋人のテーマ」が示されており、両者の交流が描かれている。ボロディンは、情景や物語を描写する「標題音楽」の作曲家として知られている。しかし、彼はむしろ絵画や文学と直接結び付けない器楽音楽、すなわち「絶対音楽」を中心に西欧と対抗するような作曲活動を行った。筆者の聴いたもので印象深いのは、弦楽四重奏曲第2番(ニ長調)だ。ソナタ形式に忠実という点では、モーツァルトやベートーベンの弦楽四重奏曲と楽曲上の形式はほとんど変わりがない。ややエキゾティックな旋律と豊かな和声にロシア風な味付けをしている点が喩えようのない魅力を湛えている。
 このように「五人組」には名作もあるが、日本人の筆者の期待や希望を満たしてくれる何かがあるかと言われれば、答えに窮するというのが正直なところだ。むしろ「五人組」の西欧への「抵抗の精神」の逞しさが、彼らと同じナショナリストの音楽家として出発したチャイコフスキーを「普遍性の探求」へと向かわしめたというところに、「五人組」の貢献を感じるのは彼らに少し厳しすぎるだろうか。 

チャイコフスキーの伝統的な立場

 「反西欧」を掲げたロシア「五人組」と比べ、チャイコフスキーはどのような立場を取り、「五人組」との間にいかなる摩擦や軋轢を生んだのだろうか。チャイコフスキーの交響曲第2番ハ短調Op.17(「小ロシア」)の最終楽章はぺテルスブルクのリムスキー=コルサコフ邸で(全曲初演前に)聴いた人たち(「五人組」も含め)に、多大な感銘を与えた(D.Brown)。この交響曲は各楽章(特に最終楽章)でロシア民謡、ウクライナ民謡のメロディーが使われている。この時期には彼らはむしろ共通の理想で結ばれていたのだ。

ピョートル・チャイコフスキー

 その後、1870年代も末頃になると、「五人組」は往時のエネルギーを失っていく。「反プロフェッショナリズム」と「反アカデミズム」が影響したことは否定できない。キュイは批評専門、バラキレフは音楽界からほとんど引退同然の状態、ボロディンは化学の教授の仕事に忙しくなる。ムソルグスキーはアルコール依存症が深刻化し、リムスキー=コルサコフのみが作曲活動に専念するようになる(The New Grove Russian Masters 1)。
 そのリムスキー=コルサコフは、「反西欧」を強く主張する連中から、チャイコフスキー同様、西欧の形式と作曲技法への強い傾斜を批判され始める。「五人組」の同志であったキュイの辛辣な批評はもちろん、ロシア音楽批評界で大きな影響力を持ったスターソフも沈黙を決め込んで、意見を表明しない(つまり、賞賛しない)という状況になった。1870年代半ばから、「五人組」の結束は事実上壊れ始めるのだ。
 「五人組」の紐帯が弱まっていた点については、筆者が読んだリムスキー=コルサコフの自伝My Musical Life (初版 1923、Faber &Faber1989)の訳者・編者であるJudah A. Joffeの脚注(p.155)に、ボロディン、キュイ、ムソルグスキーの手紙に言及した次のような記述が興味深い。要約・紹介しておこう。
  ボロディンはリムスキー=コルサコフの「変節(apostasy)」については、「多くの人は、今やコルサコフが逆行し、音楽考古学の勉強に熱を上げていることを悲しんでいる。私は悲しいとは思わない。理解できる…」。ここでいう音楽考古学とは、リムスキー=コルサコフが対位法やコラールの勉強を本格的に始めたことを指しているのだろう。
 ムソルグスキーが示した、コルサコフの伝統への回帰、あるいはキュイに対する排撃の態度はさらに厳しかった。「『五人組』は魂の無い裏切り者(soulless traitors)へと堕落した」と。その尻馬に乗るかのごとく、スターソフも「彼は61のフーガと10ほどのカノンを書いた。それについて、わたしは何も言わない。De mortuis」。
 ちなみに、この最後のラテン語は、de mortuis nil nisi bonum 「死者については良いことのみを言え、死者を鞭打つな」という箴言を意味している。
 強く結ばれていたと思っていた同志が、バラバラになるという例は、政治運動でも、学問・芸術の世界でも、あるいは単なる友達仲間でも起こりうる。利益で人は結びつき、好みや趣味で結びつくことがある。理念や理想で結びついても離反と離散は起こる。一般に宗教であれ、政治思想であれ、学問や芸術の理想や方法であれ、観念的なもので結びついている場合ほど離散は激しい敵対感情を生み出すようだ。「友情は常に点検・修繕されねばならない」と言われるのは、「何によって結ばれているのか」の確認がいるということであろう。
 最終的に「ロシア五人組」には「反西欧」というネガティブな目標だけが残り、ドイツ音楽を理論ベースとする西欧音楽に対抗すべき力を失って行く。その点で、チャイコフスキーの西欧古典主義をベースにした国民音楽的な色彩を持つ音楽には、「命を長らえる力」があった。 チャイコフスキーの二つの有名なオペラ、『エフゲニー・オネーギン』(1878)、『スペードの女王』(1890)はいずれもプーシキンの作品を原作としているが、音楽そのものは西欧の伝統の中にあり、ヴェルディやビゼーの様式から大きくは離れていない。その意味でチャイコフスキーのオペラは、西洋音楽の伝統にロシアの国民文学を土台としてスラブのアクセントを加味したものと捉えることができる。
 その点で、チャイコフスキーとドボルザークの「嗜好」と作曲家としての姿勢・立場は、西欧音楽との距離の置き方という点ではきわめて近かった。この点は、二人の堅い友情を示す手紙のやり取りから読み取ることができる。幸いにして、ドボルザークの主要な手紙は英訳されている(Antonin Dvorak  Letters and Reminiscences . Da Capo Press)(彼らがチェコ語とロシア語で文通しているので、常に翻訳者を必要としていたようだ)。その友情と堅い信頼関係を示す手紙を2、3紹介しておこう。
 まずチャイコフスキーは、プラハでドボルザークが自分を歓待してくれたことに感謝し、その後、パリとロンドンでの演奏会が成功裡に終わったことを報告。これからロシアに帰ることを告げる。追伸では、ロンドンのオーケストラが非常に良質なこと、奏者たちの譜読みが速いことなどにふれた後、皆(チャイコフスキーもロンドンの人々も)、ドボルザークの交響曲を待ち望んでいると書いている(1888年3月27日、ウィーン)。
 1889年1月の手紙では、ドボルザークの方から、前年11月末、プラハで初演された『エフゲニー・オネーギン』を絶賛し、「これ程深い印象を受けた作品は無い。あなたの他のどの作品からもこれほどの感激を味わったことはない」と言い切っている。それに対して、チャイコフスキーは、ドボルザークから評価されたことを大変喜び、「それを誇りに思うし、幸せだ」と応じている。そして同じ年の1889年3月、チャイコフスキーは、ドボルザークをモスクワに招待したいと申し出る。「あなたに来ていただけるのなら、モスクワ音楽協会にとってこれほどの名誉はない」として、可能な日程を教えてほしいこと、不十分な謝金(800ルーブリ、約1000グルデン)についてどうかご理解いただきたいと断わっている。この招待は実現した。1890年3月にドボルザークはモスクワのツァーリスト音楽協会のコンサートで『スターバト・マーテル』(Stabat Mater)を上演、ペトログラードでも交響曲第6番ニ長調(Op.60)を指揮して大きな成功を収めている。
 こうした手紙のやり取りから、二人が相手の音楽観に深い敬意を抱いていることは明らかである。ドボルザークとブラームスの間の相互の敬愛の情はよく知られているが、ドボルザークとチャイコフスキーはともに、「絶対音楽」を基盤としてそれぞれチェコ的、ロシア的なアクセントを付けるという姿勢においては、同方向を向いて進む間柄であったことがうかがえる。二人の音楽には、20世紀のB. バルトーク(1881~1945)やZ. コダーイ(1882~1967)が試みたように、民族楽器を用いる音楽を作曲するということもなかった。

この記事をシェアする

MAIL MAGAZINE

9

20

(Fri)

今週のメルマガ

初公開! 天童荒太さんの創作の舞台裏(No.785)

  2018.9.20配信 HTMLメールを表示出来ない方は こちら 9月20日更新第2回 徴兵令に […]

「考える人」から生まれた本

もっとみる

テーマ

  • くらし
  • たべる
  • ことば
  • 自然
  • まなぶ
  • 仕事
  • 思い出すこと
  • からだ
  • こころ
  • 世の中のうごき

考える人とはとは

何かについて考え、それが「わかる」とはどういうことでしょうか。

「わかる」のが当然だった時代は終わり、平成も終わり、現在は「わからない」が当然な時代です。わからないことを前提として、自分なりの考え方を模索するしかありません。

わかるとは、いわば自分の外側にあるものを、自分の尺度に照らして新しく再構成していくこと。

"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)*を編集理念に、Webメディア「考える人」は、わかりたい読者に向けて、知の楽しみにあふれたコンテンツをお届けします。

*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

猪木武徳

いのきたけのり 1945年、滋賀県生まれ。経済学者。大阪大学名誉教授。元日本経済学会会長。京都大学経済学部卒業、マサチューセッツ工科大学大学院修了。大阪大学経済学部教授、国際日本文化研究センター所長、青山学院大学特任教授等を歴任。主な著書に、『経済思想』『自由と秩序』『戦後世界経済史』『経済学に何ができるか』『自由の思想史』など。

連載一覧


ランキング

イベント

テーマ

  • くらし
  • たべる
  • ことば
  • 自然
  • まなぶ
  • 仕事
  • 思い出すこと
  • からだ
  • こころ
  • 世の中のうごき