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三浦佑之×安藤礼二「海の民、まつろわぬ人々――。」

2021年12月2日

三浦佑之×安藤礼二「海の民、まつろわぬ人々――。」

前篇 旧石器時代からいた「海の遊牧民」

『「海の民」の日本神話 古代ヤポネシア表通りをゆく』刊行記念対談

著者: 三浦佑之 , 安藤礼二

出雲と筑紫、そして若狭、能登、糸魚川から諏訪まで続く「海の道」—―古代日本、「表通り」は日本海側だったことを、『古事記』等の文献はもちろん、考古学や人類学も含めた最新研究から丹念に追った『「海の民」の日本神話 古代ヤポネシア表通りをゆく』(新潮選書)。著者の三浦佑之氏(千葉大学名誉教授)と安藤礼二氏(多摩美術大学教授)による、古今東西を自由に駆け巡る、刊行記念対談をお届けします。

(2021年10月18日、於・新潮社クラブ)

旧石器時代の航海術

三浦 安藤さんは『折口信夫』(講談社)などの御著書がおありですが、もともとは考古学をやっておられたんですよね。それで是非、今回の本について感想を伺いたかったんです。

安藤 今回の『「海の民」の日本神話 古代ヤポネシア表通りをゆく』(新潮社)、そして『出雲神話論』(講談社)を拝読すると、三浦さんは古事記の研究者として知られていながら、もう、これは古事記研究を縄文論に接続されている。それに本当に驚き、また感銘を受けました。大学で考古学を専攻していた頃、私は狩猟採集民論に最も関心がありました。狩猟採集を通して旧石器と縄文をつなげる方向ですね。この対談のご連絡を頂いた時も、今回大きく取り上げられている、新潟県の糸魚川(いといがわ)市から帰ってきたばかりだったので驚きました。

三浦 糸魚川へ? なぜ行かれたのですか?

安藤 長野は、八ヶ岳山麓にある井戸尻遺跡をはじめ、縄文のメッカと言われるほど、縄文時代の遺跡が多いのですが、実は旧石器の遺跡もかなりあります。旧石器と縄文が連続しているのです。それが地質学的にも興味深いんですね。糸魚川と静岡を結ぶ線がフォッサマグナ(日本を二つに分ける地質学的な溝)の西端となることから、石の博物館の糸魚川フォッサマグナミュージアムもあります。実に面白かったです。

糸魚川には、新宿から日に1本だけ、長野を通って新潟の南小谷駅まで行くJR特急あずさが出ているので、それに乗れば終点の南小谷駅から大糸線を使って1本で行けますし。旧石器人、縄文人の道ですよね。

三浦 ああ、僕も時々使います。

安藤 それで、今回の御本で指摘されている、古代日本において、糸魚川から産出するヒスイが各地に運ばれたルートと重なるように、黒曜石のルートもありますでしょう。

三浦 ありますね。

安藤 八ヶ岳山麓にある野辺山高原の旧石器時代の遺跡群からは、黒曜石製の細石刃(さいせきじん)がたくさん出てきていますが、それらの一部は遠く伊豆諸島の神津島からも運ばれてきたことがわかっています。日本の旧石器時代は、マンモスやナウマンゾウ、オオツノジカとかを狩猟するイメージですが、三浦さんが今回の本でもお書きになったように、航海技術が高度に発達していたのは間違いないんです。

三浦 そうですよね、一体どうやって神津島から、長野の八ヶ岳山麓まで黒曜石を運んだのか。下田からも55キロ離れていて、太平洋の外海をいくのですから、その航海技術はかなりのものだったでしょうね。

「海の遊牧民」と「まれびと」

安藤 近年の研究では、日本ではおおよそ4万年ぐらい前の旧石器時代から縄文時代までが一つに連続していたのではないかと考えられています。草創期の縄文は1万6千年ほど前の氷河期まで遡れますので、完全に旧石器時代に位置づけられます。野尻湖では実際、旧石器後期と縄文草創期の遺跡が一つに重なり合って発見されています。

そして、縄文とは何かと考えた場合に、新石器時代に適応しながらも、それを受け入れなかった文化ではないかと私は思うのです。新石器時代を特徴づけるのは、集約的な稲作と、三浦さんの近年の御著書の大きなテーマである「国家」の建設です。「国家」という観点から見れば、新石器時代から現代までは連続しているといえます。

安易な結び付けは警戒しなければなりませんが、縄文という国家の時代に入りながらも国家を拒否した人たちは、北海道と沖縄、アイヌと琉球の人々に、かなり近年まで色濃く残っていたと推定されています。その証拠に、この二つの地には古墳がありません。定住しつつも、狩猟採集と漁労的な生活を守り続けていたアイヌの人々の持つエコシステムと、縄文時代のそれはごく近いことも指摘されています。

三浦 書き上げた後で思ったのは、安藤さんの『折口信夫』の「国家に抗する遊動社会」、ここを引いて論じれば、最後はもっと踏み込めたなと反省しました。

安藤 恐縮です(笑)。でも、「ヤマト」対「出雲」といった視点で語られる時、ヤマトに抗する大きな国家が出雲やその他の地にあった、つまり「国家」対「国家」的な争いの図式を思い浮かべがちですが、今回の御本で指摘されたような、国家ではなく海民的な各集団のゆるい連合体、国家に抗する連合体が抽出された結果の出雲という形であれば、これは歴史時代まで「遊動社会」が繋がっていたことを示す稀有な例だと、私も興奮しました。

三浦 少なくとも出雲においては、弥生時代の祭祀遺跡等が随分出てくるにもかかわらず、ヤマトに対抗するような国家があって、強大な王権同士がぶつかり合った痕跡があるとは、僕には思えなかったんです。出雲や高志(こし)、筑紫などといった日本海側の各地域が海で繋がっていることを捉えておかないと、その関係性は見えてこない。そして海のつながりでみていった時に、出雲を強大な王権が支配して、それが海を渡っていたとは、思えませんでした。

出雲は、ヤマトに意外に簡単にやられてしまったのではないか。それは、二つの同じような世界の対立とは違う形だったからです。ヤマトは弥生以降、国家を作りたがる北方系の民、覇権や領土を強く意識していた民が作った国家でしょう。一方、狩猟採集や漁労を中心として生きていたそれ以前の人々は、領土を所有するとか、それを広げるといった発想にはなかなか至らない。必要としないからです。アイヌを見ていても、人間の生活圏はあっても、それはある谷筋までといった具合で、そこから先は動物たちが住まう世界といった捉え方で、自分たちの領土という感じではない。縄文と弥生という区別では単純になってしまいますが、そこを踏まえて全体をどう組み立てられるだろうかと考えてみた結果が、この本や『出雲神話論』に繋がっています。ただし、縄文以前とどう結び付けられるのかという問題については、まったくわからないのですが。

安藤 一つヒントになるかもしれないのが、オーストロネシア語族という集団です。台湾からインドネシアやマレー半島、太平洋の島々、遠くはマダガスカルやイースター島にまで広がった人々です。彼ら彼女らはかなり早く、旧石器時代から海に出ていて、3千年前にはハワイ、ポリネシア、メラネシア、イースター島にまで到達していました。いわゆる「海民」の集団です。旧石器、新石器を問わず、何度も島々を移動し続けている。狩猟採集民というと、一般的には陸上のイメージですけど、漁労の占める割合も大きいですから、ホモサピエンスになって「海」を手に入れたと言った方がいいのかもしれません。

実は、折口信夫も台湾原住民には注目していました。折口の「まれびと」論が沖縄に負うところが大きかったのは事実ですが、台湾原住民も大きなヒントとなったようです。というのも彼ら彼女らは集落が大きくなると、そこからどんどん分かれて外に出て行ってしまうんです。ある程度の人数になると、それ以上は絶対に大きくならない。土地に根付いて、そこで蓄積していくという概念がほとんどありません。しかも出て行きながら、故郷からの移動の神話を正確にたずさえている。「海の遊牧民」とでも言いましょうか。そうした姿が折口の「まれびと」の沖縄とは異なった一つの源泉となったのです。

三浦 オーストロネシア語族は、台湾からなんですね。

安藤 新石器時代の拡散、ポリネシア地域への拡散については、台湾の原住民の人たちが最も古い母集団であっただろうというのが現在の研究の趨勢です。面白いことに、台湾の原住民の方々は、同じ母言語の集団なのですが、幾つもの部族に分かれていて、相互に言葉が通じないのです。それがオセアニアの多様性に通じているとも言われています。そして南へ行くほど、階層が固定化され、装いも華やかになったりするんですね。貴族階級とまではいえないのですが、富が固定化すると、文化も華やかになってくる。これは日本の縄文にも言える事ではないのか、少なくとも台湾原住民の存在は、縄文の社会を読み解くためのヒントになるのかもしれないと言われています。

一昨年、台中の国立美術館で折口の「まれびと」をテーマにした展覧会が開催されて、そのシンポジウムに参加したのですが、ラオスやタイ、ミャンマーの国境付近にまたがる山岳地帯、以前はゴールデントライアングルと呼ばれケシ栽培が盛んにおこなわれていた「ゾミア」と呼ばれる地域で遊動性を保ったまま生活を続ける「山賊的」な人々、インドネシアの島々に現存するイスラムに圧迫されながらもそれを利用して生きる「海賊的」な人々のことが取り上げられていました(山賊、海賊もその主題でした)。彼ら彼女らは強大な国家、中国やイスラム国家から逃れるような形で生まれた新たな「まれびと」であるという位置づけです。日本では考えられない革新的な主題です。現在も同じように強大な国家から圧迫されている香港や台湾からみれば、彼ら彼女らがどう生き残るのかという切実な問題に直結するわけで、「海民」的生き方は、ある意味、古くて新しい問題であることを痛感させられました。

三浦 沖縄の問題などもそうですよね。常に「国家」と対峙せざるを得ない。

なぜそれを造るのか

安藤 今回の御本と『出雲神話論』を2冊続けて拝読すると、我々ホモサピエンスの中では、定着して蓄積するという概念、そういった側面は、実は割合新しく獲得したものではないかと考えざるを得ません。もともとは遊動しながら定着せずに、ゆるやかなネットワークを形成していた。それがホモサピエンスの集団の本来のあり方だったのではないかと推測できます。

日本の場合、北はシベリアからマンモスを追ってホモサピエンスがたどり着いていますが、南からはおそらくそうした海民的な人々が寄りついたのではないかと言われています。4万年前の旧石器から、国家を造るより、芸術的な土器などを造りつつ移動していく人々が日本列島にたどり着き縦横無尽に拡散していったと考える方がしっくりくるんです。

三浦 それはすべてホモサピエンスですか?

安藤 少なくとも日本列島に上陸した人々はそうだったと考えられています。世界各地の新人、ホモサピエンス形成説には、アフリカ単一起源説と世界多元起源説があります。後者は北京原人やジャワ原人などから独自の新人ホモサピエンスが生まれたのではないかという説ですが、今世紀に入って格段に飛躍した遺伝子研究の結果からは支持されていません。アフリカ単一起源説が定説です。

三浦 3万年とか3万5千年前という説もありますね。

安藤 いつアフリカを出たのかについては諸説ありますが、ユーラシア大陸全土に拡散し、さらには海を渡ってメラネシアや日本へ到達したのは5万年から4万年前と言われています。シベリアに到達したのも同時期です。日本にはその2つのルートから入ってきた。一方で、ヨーロッパに到達した人々が残したのがラスコーなどで有名な洞窟壁画です。豊穣の女神像なども残しています。それらが縄文の土偶などに繋がるという見方もあります。そして温暖化した新石器時代になり、国家が建設されていくなかで、国家を必要としなかった。その代わりに磨き上げられたのが芸術的な造形の力です。縄文中期(5500~4400年前)になると、人々がいた世界のあちこちでは強力な国家が出来始めますが、日本では、精緻な土器を造るようになりますよね。火焔型土器などは、実用性とはおよそ無縁で、どうやって作ったのかと思うような過剰な装飾です。

三浦 煮炊きに使われた痕跡はありますか?

安藤 もちろん一部にはありますが、こと装飾的な土器に限れば、ほとんどなかったと推定されています。焼き物としての構造自体はシンプルですが、装飾がとにかく派手(笑)。宝器としての役割を果たしていたのではないかという説もあります。

ホモサピエンスは、新石器時代を迎えて、国家を建設する方向と、芸術を造形する方向の二つに分かれた。日本の縄文はあきらかに後者です。一方で、国家は造らなかったのだけれども、青森にある三内丸山遺跡など、縄文時代には巨大な建築群がありますよね。

三浦 ええ、あそこは巨大な建造物がありますね。6本の太い柱は、角度が付けられていたようですから、上に建物か何かがのっていたようです。

巨大建造物にしても、縄文土器類の装飾にしても、なんであんな無駄な事をしているのかというのは、はなはだ疑問であり、興味深い点ですね。

安藤 もしかしたら「贈与」の視点から考えられるかもしれません。フランスの社会人類学者で『贈与論』をまとめたマルセル・モース(1872~1950)の下には、柳田國男や折口信夫の弟子だった人たちが留学していました。モースは、自身が論じた「贈与」の経済が色濃く残っているアメリカ北西沿岸の先住民やメラネシアの島々の先住民を一つに結び合わせ、環太平洋として広がる「贈与」のネットワークを完成させるのは日本列島だ、日本列島こそがきわめて重要な意味合いを持つから君たちがそれを研究しろと伝えていたそうです。何でこんな余計なものを、と考える際に「贈与」という観点は一つのポイントになるのかもしれません。蓄積ではなく消費によって可能になるコミュニケーションですよね。

三浦 ヒスイなんかは、まさにそうですよね。何に使うのかと言えば、生活用具ではない。黒曜石とセットで運ばれながら、その役割はまったく異なります。交換品というよりも贈与物だったのではないか。ですから三内丸山や、遠くは北海道まで運ばれていくわけです。

安藤 イースター島(ラパ・ヌイ)のモアイにしても、なぜあんな巨大で労力のかかるものを作ったのか、その意味はまったくわかっていません。

三浦 確かに、なぜあんなものを作るんでしょうね(笑)。

日本でいえば、巨大な木柱の遺跡が幾つも見つかっていますが、特に能登半島と富山湾周辺に集中していることが指摘されています。一番西だと、出雲大社で発掘された巨大な3本柱ですね。1本が直径3メートルにも及びます。それから諏訪の御柱(おんばしら)も有名ですが、それらは同じ性質の柱なのかは判りません。諏訪の御柱はまっすぐですから、トーテムポール的な意味合いがあったのではないか。となると三内丸山遺跡や出雲の柱とはまったく性格が異なってきます。

安藤 石川県の能登にある真脇(まわき)遺跡からは、イルカの骨と一緒に出た柱に、装飾が施されていて、まさにトーテムポール的なものだったことがわかっていますよね。装飾性で言うならばもう一つは、パプアニューギニアなどオーストロネシア語族の多くと日本にも伝わっている仮面の祝祭も興味深いですよね。仮面の製作もまた縄文までさかのぼります。

海が繋ぐ南と北

安藤 これまでは、三浦さんの古代文献学と私のやっている文芸批評はまったく異なっているのではないかと思っていたのですが、実はその二つが、折口信夫が提唱した「まれびと」によって一つにつながるのかもしれないと思いはじめています。

折口信夫は、養子となった藤井春洋(はるみ)と共に、大森貝塚を見下ろす、かつて泉がわいていた出石(いずるいし)(東京都品川区)という場所に住んでいて、自分では「出石人だ」と言っていたそうです。藤井春洋は出征し、38歳の時に硫黄島で亡くなります。春洋は、能登の気多(けた)大社の神官の家の出でした。実家も大社のごく近くにあり、つまりは海に臨んでいます。春洋が亡くなってから、折口はその鎮魂の儀式を行い続けるのですが、それは真夜中に海から魂を呼ぶ、そういった儀式だったようです。

「まれびと」論の、海の彼方の母なる国、そこから神がやってくるという考え方は、こうした能登での経験も大きかった気がいたします。折口は、能登にはよく出かけていましたし、出雲には一回も行ったことがありませんでしたが、國學院で出雲国造(いずもこくそう)(かつて出雲を支配し、現在は出雲大社の祭祀を受け継ぐ一族)およびその近くにいた人たちとは付き合いがありました。こうした場所での、海との繋がりも「まれびと」論に大きく影響したとみています。

三浦 能登は今では古代とはだいぶ景観が変わっていますが、岬の先端に気多大社があって南はラグーン(潟)でしたから、大社の周囲はかつては周りに海が広がっていたんですよね。確かに海から何かがやってくる気配があります。気多という地名については折口が面白い事を言っていますよね。神がやってくる通り道であると。なるほどと思わされます。

安藤 実感として持っていたんでしょうね。折口は大阪の天王寺、住吉大社の近くに実家がありますから。

三浦 住吉大社は海の神、筒男三神(つつのおさんじん)を祀っていて、古くから航海の神様として知られており、遣唐使の安全祈願なども行われていました。

安藤 ですから折口の中にも「海民」的な想像力があったのだと思います。三浦さんが今回の御本でも触れていらっしゃる、若狭の大島半島に遺る「ニソの杜」、聖なる禁忌の地といいますか、社殿を持たず、樹木や薮、森などを崇める信仰は、沖縄の聖地である御嶽(うたき)の信仰にも通じるように思います。

沖縄の「アカマタ・クロマタ」と呼ばれる、仮面来訪神の祭にもつながるのかもしれません。「アカマタ・クロマタ」は、柳田や折口も注目した、海の彼方から来訪する神を迎える祭で、西表島が発祥の地とされ、新城(あらぐすく)島などでも行われていました。西表では大きな川の上流から仮面をつけた神が、全身をつる草等の植物で覆った状態でやってきます。こうした「まれびと」、来訪神を海の向こうから迎えて、そしてまた帰ってもらう。アカマタもクロマタもその姿形といい、それらが出現する環境といい、自然のランドスケープそのもの、動く「ニソの杜」なのではないかと思ったのです。この祭りは撮影や録音、島外者の見学や口外が一切禁止されているので、随分前に撮影された写真しかないのですが、ポリネシアやインドネシアなどにも通じる祭りですよね。

三浦 私は何十年も前ですが、実物を見たことがあります。西表と小浜と新城。新城は当時でさえ、人が住んでいたのは一軒のみで、かつての住民が祭りの時だけ島に帰っていました。

安藤 西表も数年前に取りやめられたらしいです。こうした仮面祭神はまさに「まれびと」そのものです。そしてこの仮面の神は、野生化した「なまはげ」とも言えるのではないかと。

三浦 はい、本当につながっている感じがします。

安藤 「なまはげ」は秋田県の男鹿(おが)半島ですが、能登にも「アマメハギ」と言われる来訪神の祭りがあります。他にも幾つかありますね。そして能登、男鹿半島、そして出雲も半島であり、岬が海に突き出ており、ラグーン(潟)があって、とその風景がきわめてよく似ています。海に囲まれている。三浦さんの御著書を拝読していると、総合的な「まれびと論」がもう一回できるのではないかとも思いました。

三浦 そう仰っていただけるのは私にとっても非常に興味深いです。仮面祭神の問題も、しばしば指摘されてはいますが、どうやってそれを証明できるのか、問題はそこのところです。日本海側に伝わるそれらも、おそらく南から入り込んでいるのだろうとは思いますが。

実際に日本海文化圏に関しては、網野善彦(民俗学)や森浩一(考古学)らが、学際的な共同研究をしていた時期がありましたよね。あれが、日本海側から様々な発見、発掘が続いている現在まで続いていれば、随分違ったと思います。あの頃は、鳥取とかは何もないと言われていましたが、山陰自動車道の工事のおかげで、それまでは考えられもしなかった遺跡の発見・発掘が進みました。今後はおそらく、これまで空白地帯と言われていた石見(いわみ)地方からも、何か出てくるのではないかと期待されています。山陰自動車道の工事が、あちらまで延びていきますから。それが出てきたら本当に面白くなると思います。

安藤 全部繋がっていきますよね。

ほころびの向こう側を読む

安藤 もう一つ、三浦さんが展開されている「カムムスヒ論」もとても興味深いと思っています。古事記では、カムムスヒは、出雲の祖神として何かあれば助けてくれる、海の彼方の根源的な世界からきた神として登場します。あれは母系原理で動いていますよね。

三浦 はい、完全に母系原理ですね。火傷を負ったオホナムヂを救うのも、カムムスヒの娘であるキサカヒメ(赤貝の女神)、ウムカヒメ(ハマグリの女神)です。出雲国風土記にはこのふたりの女神はカムムスヒの娘であると書かれていて、母—娘の結合が強かったことがわかります。

安藤 日本書紀は男性原理、父系原理で書かれていますが、古事記ではその間から時折、母系原理が顔をのぞかせます。

三浦 間違いなく男性原理で出来上がっている、天皇の系譜においても、初期の2~9代の天皇の系譜だけみていくと、母系的なつながり、母と娘といったつながりがしばしば出てくるんです。歴史学では「あとで作られた系譜だ」と切り捨てられてしまうのですが、存在しないような母系系譜を後から作ってわざわざつけ加えるだろうかと考えた時に、それはやはり古い部分が残ったのではないか、古い記憶のようなものが表出したのではないかと考える方が自然です。

安藤 三浦さんのテキストの読み方というのは、古事記のように一見まとまって見えるテキストを、最初からまとまったものとして読むのではなくて、もともとはバラバラで亀裂の入った断片群が一つにまとめられたものとして、その断層や、隠さざるをえなかった細部をも読み込んでいきますよね。それは解釈学としての批評そのものだと思います。

三浦 褒めて頂いたのかどうかはわかりませんが、国文学、古代文学研究ではあまり受け入れられていない姿勢なんですけどね。テキストは完全に固定して読むものだと。そこから割れ目を探して入っていくような読み方というのは、テキスト論ではないと言われています(笑)。

安藤 しかし、古いテキストには幾つもの層があるのは事実ですよね。

三浦 あります。もう矛盾だらけです。果たしてそれを合理的に説明しなければならないのでしょうか。バラバラなものはバラバラでいいんだろうと思いますけどね。

安藤 逆に矛盾があるところこそが、重要な意味の結節点であり、そこを読み込むことで隠された世界が拓けてきますよね。それが三浦さんのこれまでのお仕事だったのだと思います。すなわちそれまで古事記と日本書紀は一緒に語られがちであったのが、そうではないと。古事記には日本書紀とは異なった、つまりは国家権力とは異なった視点が入っている、それが出雲だと。古事記全体を一つのものとして読むのではなく、矛盾することでそこに口を広げている断層をみつけて、どう掘り下げていくのか。そういう読み方を実践されてきたのかなと思っています。

三浦 そう受け取って頂けると嬉しいですね。いくら僕が同じことを言い続けても、納得してくれない人が多くて(笑)。古事記は読んでいくと本当に面白いんです。いろんな裂け目が見えて来て、そこに古い要素や、国家とは違う姿のものが見えてくる。だからいつまでもこだわってしまうんですよね。

安藤 今回「海の民」に着目されたのも、テキストと実際の土地に穿たれた裂け目に引き寄せられるようにして読んでいらっしゃる。「中心」と「周縁」的な、ある種の思考の普遍性、構造的なところに神話を落とし込むだけの読み方は、現代では少し無理がありますよね。

三浦 説明としてはとても有効なんですけど、構造論はものすごく世界を固定しますよね。世界はもっと流動的なのではないかと。「周縁」あるいは「辺境」と言われた方は辛いだろうし、別の見方もあるのではないか。

安藤 「周縁」に対する「中心」という視点はやはり国家の目線ですよね。「周縁」は国家ではない方。ではなぜ「周縁」は国家にはならなかったのか。なれなかったのではなく、実はならなかったのではないかというのが三浦さんの抱えていらっしゃる問題意識なわけですよね。

三浦 はい。国家に対する違和感を、僕らの世代が一番、学生時代に感じていたはずです。そんな時代に古事記研究を始めたという個人的な面もあります。いつも、国家って何だろう、何となく嫌だなあという違和感が漠然とありますね。

安藤 そうした問題意識から出発されているから、古事記の中から出雲を発見することが出来たわけですよね。

三浦 もっと別の時代に古事記に興味を持ったら、普通にそのまま、国家の枠組みの中から古事記を読んでいるでしょうね。でも僕はそこから外れたくてしょうがない(笑)。ベトナム戦争などもありましたからね。

安藤 あの頃、近代的な国家が主導する資本主義の体制が正しいのか、そもそも国家そのものを基盤として思考して良いのかという大きな問い直しが分野を超えて、世界規模でありましたよね。

三浦 必ず出てきますね。

安藤 果たして我々が国家的な制度を自明視して良いのか、それが人間の本当の生活なのか。そうした人間と自然との関係を問い直す態度が生まれてきます。

三浦 折口の「まれびと論」を僕自身どこまで捉えられているのか判らないのですが、古代をやっていると、芸能者の問題などとも結びついて、必ず浮かび上がってきます。一方で「まれびと論」はいま一つ実証的ではないというのが、気になっていました。

今はウポポイ(民族共生象徴空間)の主要施設である国立アイヌ民族博物館のある北海道の白老に、その前身となるアイヌ民族博物館という小さな博物館がありました(1984~2018年)。一時期(80年代後半)、その博物館に夏になると毎年出かけて、合宿式シンポジウムに参加していました。そこでアイヌの神話を聞くと、アイヌの考え方がとても分かりやすく、また、縄文的世界とかなり親近性を持っているようにも感じました。ただ、それをどこまで僕自身が捉えていけるだろうかと。『「海の民」の日本神話』にしても、本当はもっと北の方、アイヌまで捉えてみていかなければならないと思ってはいるのですが踏み込めませんでした。

安藤 今回の御本でも、日本列島の上半身にはまだ届いていないと。

三浦 そうなんです、糸魚川から北には触れていません。アイヌに縄文を安易に結び付けていいのかも気になっているんです。

安藤 そのお気持ちは分かります。ただ、縄文というあり方がかなりリアルに分かってきた中で、変容しつつも変わらないものも見えてきています。アイヌも「交易民」の面がありますから、東北アジアから、あるいは北極圏からさまざまな要素が入り込んできたなかで、大きく変容しながらも、その根本的な生活のスタイルは変わらないのではないかとも思うのです。

三浦 交易が入り込んでいても、それは縄文でもあったわけですからね。

安藤 そのことは旧石器時代にも敷衍できるかもしれません。先ほどの神津島の黒曜石の例をみると、なぜあんなところから海を越えて運んだのかといえば、糸魚川のヒスイと同じような価値を持っていたのではないか。

三浦 ブランド的な価値があったようですよね。

安藤 それは品質と同時に、魔術的な力もあったからでしょうね。我々にとって原型的な生活が旧石器、縄文、そしてアイヌにあるとすれば、どんなに集約的な稲作が、富の蓄積が生活を改善すると言われても、それを受け入れない人たちが残るはずです。そうした人たちがネットワークを作りながら、自由に移動しながら文化を伝えてきてくれたという気がします。

後篇はこちら

三浦佑之

1946年三重県生まれ。千葉大学名誉教授。成城大学文芸学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。古代文学、伝承文学専攻。『村落伝承論―「遠野物語」から』(第5回上代文学会賞)、『浦島太郎の文学史―恋愛小説の発生』、『口語訳 古事記』(第1回角川財団学芸賞)、『古事記を読みなおす』(第1回古代歴史文化みやざき賞)、『風土記の世界』、『列島語り―出雲・遠野・風土記』(赤坂憲雄氏との対談集)、『出雲神話論』等著書多数。

安藤礼二

1967年東京生まれ。文芸評論家、多摩美術大学美術学部教授。東京大学客員教授。出版社勤務を経て、2002年「神々の闘争―折口信夫論―」で群像新人文学賞評論部門優秀作受賞。2009年、『光の曼陀羅 日本文学論』(講談社)で大江健三郎賞と伊藤整文学賞を受賞。2015年、『折口信夫』(講談社)でサントリー学芸賞と角川財団学芸賞を受賞。著書に『場所と産霊 近代日本思想史』、『大拙』、『熊楠 生命と霊性』など。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
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手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

三浦佑之

1946年三重県生まれ。千葉大学名誉教授。成城大学文芸学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。古代文学、伝承文学専攻。『村落伝承論―「遠野物語」から』(第5回上代文学会賞)、『浦島太郎の文学史―恋愛小説の発生』、『口語訳 古事記』(第1回角川財団学芸賞)、『古事記を読みなおす』(第1回古代歴史文化みやざき賞)、『風土記の世界』、『列島語り―出雲・遠野・風土記』(赤坂憲雄氏との対談集)、『出雲神話論』等著書多数。

安藤礼二

1967年東京生まれ。文芸評論家、多摩美術大学美術学部教授。東京大学客員教授。出版社勤務を経て、2002年「神々の闘争―折口信夫論―」で群像新人文学賞評論部門優秀作受賞。2009年、『光の曼陀羅 日本文学論』(講談社)で大江健三郎賞と伊藤整文学賞を受賞。2015年、『折口信夫』(講談社)でサントリー学芸賞と角川財団学芸賞を受賞。著書に『場所と産霊 近代日本思想史』、『大拙』、『熊楠 生命と霊性』など。


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