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2004年5月6日

小林信彦『定年なし、打つ手なし』(朝日新聞社)

Kangaeruhito HTML Mail Magazine 077
 

小林信彦『定年なし、打つ手なし』(朝日新聞社)


 ちょうど三十年ほど前に刊行された小林信彦氏の『東京のロビンソン・クルーソー』や『東京のドン・キホーテ』、そして植草甚一氏の『ワンダー植草・甚一ランド』など、晶文社から刊行されていたA5判、A5判変型の本は、十代だった私には欲しくてもなかなか買う決心のつかない、当時としてはちょっと定価の高い本でした。

 本そのもののデザインの素晴らしさ(それらのほとんどは、平野甲賀氏の装幀によるものでした)、本文が一段組だけでなく、二段組、三段組もあって、本文レイアウトには雑誌を読むような感覚がありました。インクの色も墨一色ではなく、様々な色が使われているページもあり、どこか任意のページをぱらぱらと眺めているだけでも愉しい本でした。

 著者とデザイナーが醸し出す独特の本の匂いは、書店に並んでいる他の本からは漂ってはこない特別なものでした。平野氏のデザイン、小林氏の取り上げるテーマ、文章のスタイルの組み合わせが何かの匂いを生んだのだと思います。そしてその匂いのなかには、東京の人間にある、どこかシャイな感じと、テコでも動かない何かが含まれていました。

 小林信彦氏という書き手は、そんな気配をまとっていたこともあり、すでに老成したような印象を与えていました。しかし、注意深い読者であれば、晶文社から何冊か続けて本を出していた当時の小林氏は、決して「老成した」というような年代ではなかったことがわかると思います。

 77年にやはり晶文社から刊行された小林氏の『エルヴィスが死んだ』をぱらぱらと読み直していたら、64年に発表した文章のなかに「今年の十二月で三十二になる」とあり、76年の文章には「43歳」という文言が出てきます。ということは、つまり、今年の十二月に小林信彦氏は72歳になるわけです。

 本書は、自由業である書き手としての小林氏が、「定年」や「老後」について書いた文章を中心に、他には読書や笑いなどをテーマに集められたエッセイ集です。ふだん「週刊文春」で連載エッセイを読まれている読者ならば驚くにはあたりませんが、七十歳を超えた小林氏の文章は、晶文社から本を出していた頃の小林氏と基本的には同じスタイルであり、年をとって何かが変わったという気配はありません。逆に、今の小林氏の文章は、実年齢に較べて若々しい印象すら与えるのではないでしょうか。もちろん、どこかシャイな感じと、テコでも動かない何か、という印象も健在です。

 本書の第I部の「定年なし、打つ手なし」では、出版界が60年代以降、現在に至るまでどのように変化していったかをかなり正確に「苦い味」をともなってふり返っています。そして自由業としての書き手というものが、どれほど不安定で厳しい職業であるかの実感がひしひしと伝わってきます。出版社は時流に応じて変化しますが、書き手はそうそう出版社の要請どおりには変貌できないものだからです。編集者という存在が、現在に較べるとそれなりの影響力を持っていたこともうかがえます。

 そのあたりのことが、きちんとした検証を経て、自らの問題として率直に書かれているのです。これほど正直に、リアルに、書き手の台所事情が書かれたものは珍しいのではないでしょうか。そして小林氏が書き手として維持し続けてきた「率直さ」が、ものごとの「真実」をきちんと探り当てています。

 考えてみれば、書き手の「老後」問題など、いままで誰も考えたことはなかったかもしれません。しかし書き手だって「普通の人間」なのです。年をとることへの不安は同じようにやってきます。そんなまっとうな問題を避けることなく、正面から向き合っていることにおいて、本書はエッセイスト小林信彦氏の面目躍如の本といえるでしょう。

 読書・笑いをテーマにした第II部のなかで、『楡家の人びと』についての文章が出色です。あの名作が、刊行された当時どのように迎えられたか、そして小説家小林信彦氏にとって『楡家の人びと』がどんな意味をもったのかが、ハタと膝を叩きたくなるような角度から描かれています。
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*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長 松村 正樹


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