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2004年7月29日

高橋英夫『本の引越し』(筑摩書房)

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高橋英夫『本の引越し』(筑摩書房)


 吉祥寺にあった埴谷雄高さんのお宅に、二度うかがったことがあります。一度は篠山紀信さんの撮影による「小説新潮」のグラビア頁連載の担当者として。もう一度は、やはり「小説新潮」在籍時代、北杜夫さんが突然ひらめいたらしい「埴谷家表敬訪問」に誘われて、という不思議かつ幸運な機会に恵まれてのことでした。

 玄関に埴谷さんの本名である「般若」という表札のかかっているお宅は、まさに「文化住宅」の典型といっていい作りでした。玄関のすぐ脇に洋風の小ぶりな応接間があり、埴谷さんはそこでプロ野球中継を観戦していました。たしか中日対阪神でした。埴谷さんは亡くなった文芸評論家の平野謙氏の話をしながら「中日には平野謙という同姓同名の選手がいましてね」と目を細め、テレビ画面を眺めながら愉しそうに話をしていたのを覚えています。

「死霊」の作家の家が、マンションの一室でも、豪華な洋館の一室でもなく、古びてはいるものの清潔感のある文化住宅であることに、なぜか大いに納得したものです。世俗から離れた存在感というものは、何も大がかりな舞台装置がなくとも、作家の頭のなかでいかようにも醸成できるものです。埴谷さんの暮らしぶりは、方丈に生きた鴨長明の生き方にもどこか通じるような脱俗の気配が満ちていました。

 本書の著者、高橋英夫さんのお宅にも、三年ほど前に一度だけうかがったことがあります。辻邦生さんの没後に編んだエッセイ集についての原稿をいただきにあがったのです。木造の古いお宅で、玄関に足を踏み入れたときから、そこには年月を経た風格があり、しかしどこかモダンな雰囲気が漂う気になるお宅でした。そのときに、まもなく都市計画のあおりでこの家も取り壊すことになる、と高橋さんがおっしゃっていたことを覚えています。そして本書を読むと、すでにお宅は取り壊され、膨大な蔵書の引っ越しも終わった、ということがわかります。

 今の私たちの暮らしからは、「地霊」のようなものはどんどん姿を消しています。しかし、その土地で生まれ育ち、長らく生活を送れば、その土地や生まれ育った家屋に、なんとも説明のしようのない身体感覚が生まれることはまぎれもないことだと思います。旅から帰ってきてほっとする気持ちは、誰にとっても、その場所の空気を深く吸い込むような普遍的な経験ではないでしょうか。

 一九三〇年生まれの高橋氏が七十歳を過ぎて経験する家屋の取り壊しと転居という事態は、やはり一大事と言わざるを得ません。そのあたりの事情や高橋邸の由来、そして六十年以上住んできた家というものに、人はどのような思いを抱くものなのか、を端正な心と文章で綴る本書は、単に家や本の事情についてのものではなく、生きる場所についての鋭い洞察にも満ちています。半世紀以上前から少しずつ変化をとげてきた東京という町の肌ざわりもじんわりと伝わってきます。

 構造がしっかりとした力を持ち、柔らかいディテールがあり、人を静かに納得させる高橋氏の批評の仕事が、今はない高橋邸の姿に二重写しに見えるのはもはや不思議でも何でもありません。文は人なり、であり、住もまた人なり、なのです。

「蔵書」と「故郷」と「住宅」のテーマに立ち止まる読者であれば、本書は穏やかで少し寂しい、そして豊かな時間を与えてくれることでしょう。
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考える人とはとは

何かについて考え、それが「わかる」とはどういうことでしょうか。

「わかる」のが当然だった時代は終わり、平成も終わり、現在は「わからない」が当然な時代です。わからないことを前提として、自分なりの考え方を模索するしかありません。

わかるとは、いわば自分の外側にあるものを、自分の尺度に照らして新しく再構成していくこと。

“Plain living, high thinking”(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)*を編集理念に、Webメディア「考える人」は、わかりたい読者に向けて、知の楽しみにあふれたコンテンツをお届けします。

*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長 松村 正樹


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