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2004年9月23日

ヴィンセント・ロブロット著/浜野保樹・櫻井英里子訳『映画監督スタンリー・キューブリック』(晶文社)

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ヴィンセント・ロブロット著/浜野保樹・櫻井英里子訳
『映画監督スタンリー・キューブリック』(晶文社)


 キューブリックといえば、「2001年宇宙の旅」で語られることがあまりにも多い映画監督です。「2001年宇宙の旅」公開後の1969年には「密かに撮影が進んでいる」とも噂されていた「ナポレオン」がもし完成していたならば、そのあたりの事情はもう少し変わっていたかもしれません。壮大な失敗作、という常套句が冠されることになったとしても、キューブリックの映画「ナポレオン」は、その幻のキューブリック的映像を想像するだけで、何とも言えない興奮を呼び起こします。

 ニューヨーク生まれのニューヨーク育ちなのに、「ナポレオン」プロジェクト以降はロンドン郊外の静かな田園に住まいを移し、ハリウッド的なもの、あるいはメディアの雑音や騒音から身を遠ざけ、自分が作りたいと思う映画を隅から隅まで徹底的にこだわって、誰も到達しえない高みにまで作品を磨き上げていった人。そんなイメージがキューブリックにはあります。本書にはそのような人物像を裏切る新事実や逸話は登場しません。しかし、キューブリックの日常のディテールのなかに、いくつかの強い印象が残る場面が描かれます。

 たとえば、キューブリックはひたすら本を読む人であること。そして小説という形式になぜか強いこだわりがあった、ということ(「2001年宇宙の旅」でコンビを組んだSF作家アーサー・C・クラークとキューブリックのやりとりは本書の息もつけぬ山場のひとつです)。チェスもかなりの腕だったこと。本書に描かれる少年時代のキューブリックについて、こんな記述があります。

「外の世界に興味を持ってほしいと願ったジャック・キューブリック医師は、息子のスタンリーに自分のグラフレックスカメラを使ってみるように勧めた。ジャックは写真撮影が趣味だったので、グラフレックスがスタンリーの興味を引くのではないかと考えた。また父は、自分と同じようにスタンリーが読書を好きになるようにと思い、自身の蔵書を息子がいつでも読めるようにしておいた。父は息子にチェスも教えた」(『映画監督スタンリー・キューブリック』より。以下引用部分は同書より)

 高校時代は「社交性を欠く劣等生」と見られたキューブリックは、その頃からチェスの腕をあげていきます。映画監督になった後に、チェスについてこんな発言もしています。

「(チェスは)一つ一つのステップの積み重ねだ。問題に対処するために、いかにバランスをとりながら限りあるものを活用するかが重要だ。ここで言う問題とは、チェスでは時間に相当し、映画では資金と時間に相当する」
「僕は一日に一二時間チェスをした。チェス盤の前に座ると、急に心が弾む。駒をつかんで動かすと手が震える。でも落ち着いて座って、本当にそれが最善の手か他により良い手がないかを考えなければならない。チェスはいかにそれが重要かを教えてくれた」

 新しい映画に取り組むときのキューブリックの姿勢は、このチェスの姿勢と完全に二重写しになっています。「本当にそれが最善の手」なのかという疑念と、その疑念から出発する完璧なものへの希求は、本書のなかに描かれる「完璧主義者キューブリック」の、まさに「鬼のような」徹底した取材と、撮影の際に発揮する異常ともいえるこだわりにいかんなく発揮され、周囲の関係者を恐怖におとしいれます。

「ナポレオン」の制作に入る前のキューブリックについての記述。

「キューブリックのナポレオン・ボナパルトに関する調査は広範囲に及んでいた。関連本を数百冊も読み、その中には一九世紀の英語や、フランスの預金、最新の伝記などが含まれていた。『資料を集めるためにこれだけの本をくまなく調べて、そこから彼の食べ物の好みだとか、ある戦闘が行われた日の天気だとかを分類していった。そして全データを相互に参照できるようにしてファイルに入れていった』とキューブリックは言う」

「2001年宇宙の旅」の俳優、キア・ダレーがキューブリックのもとを訪ねた際、彼が目にした光景。

「ナポレオン戦争を描いた一九世紀の絵のコピーにマス目をつけて調べている監督キューブリックを見た。その絵は壁一面に引き伸ばされ、一目盛一インチに区切られていた。キューブリックは各マス目に描かれた兵士の数を根気よく数えてナポレオンの軍隊の規模を割り出そうとしていたのだ」

 絵に描かれた軍隊が画家の想像力の産物である以上、それが本当のナポレオンの軍隊の規模を割り出す資料になり得るのか、などという茶々は、その作業に取り組むキューブリックの背中に無言のうちにはねのけられてしまうでしょう。キューブリックは、その絵画に表された戦争をめぐる一九世紀的な図像を、映画の世界に甦らせたかったのにすぎないのかもしれません。いずれにしても、それは狂気とすれすれ、紙一重の光景だったはず。しかしこの狂気がなければ、幻となった「ナポレオン」以降に日の目を見たキューブリックの映画、「バリー・リンドン」や「シャイニング」といった傑作がこの世の中に残されることはなかったでしょう。そんなあらたな思いがひたひたと押し寄せるような、読み応えある伝記です。
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何かについて考え、それが「わかる」とはどういうことでしょうか。

「わかる」のが当然だった時代は終わり、平成も終わり、現在は「わからない」が当然な時代です。わからないことを前提として、自分なりの考え方を模索するしかありません。

わかるとは、いわば自分の外側にあるものを、自分の尺度に照らして新しく再構成していくこと。

“Plain living, high thinking”(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)*を編集理念に、Webメディア「考える人」は、わかりたい読者に向けて、知の楽しみにあふれたコンテンツをお届けします。

*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長 松村 正樹


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