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2004年10月28日

朝市

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 朝市

 今月の半ばに、『静かな大地』(朝日新聞社刊)で親鸞賞を受賞した池澤さんは、沖縄を離れてフランスのフォンテーヌブローに移住されたばかり。日本との時差は七時間。週末の午後に受賞が決まり日本から電話連絡がいったとき、池澤さんは朝のパンを買いに出かけ、焼きたてのパンを抱えてちょうど帰宅したところだったそうです。

 私はヨーロッパへ何度となく仕事の旅をしてきましたが、パリには一度も行ったことがありません。昔は「フランスでは英語は役に立たない。フランス人は英語が理解できても聞こえないふりをする」という言われ方をしました。最近はだいぶ事情が変わったらしいのですが、なんとなく私のなかでは敷居の高い国というイメージが定着してしまい、足が向かないまま今日に至っています。食わず嫌いというやつでしょうか。

 伊丹十三氏はその最初の著作『ヨーロッパ退屈日記』(来年二月末、新潮文庫から刊行の予定)で、パリについてこのように書いています。執筆されたのは一九六〇年代の前半です。タイトルは、「喰わず嫌い」。

「こういう人は案外多いのではないかと思うのですが、わたくしもまたその一人だった。
 つまり、実際にパリへ来るまで、パリなんて大嫌いだったのです。
 マロニエの並木路、シャンゼリゼ、エスカルゴ、カフエ、ボン・ジュール・ムッシュウ、それからさ、バスがアンヴァリッドに着いてね──クリシイからメトロで──モンマルトルの丘の上でさ──このパンがまたうまいんだな、例の棒みたいなのをバゲット、三日月形の奴をクロワッサンていうんだけど──リュクサンブールの公園や、セーヌ河の畔では、ベンチの上に、恋人たちが思い思いのポーズで今日も──ブーローニュの森、フォンテンブロー、エディット・ピアフ、エトワール、コンコルド、サン・ジェルマン・デ・プレ、マドモアゼル、ベレエ帽、ギャルソン、ネスパ?
 どうにも吐き気がして来るではありませんか。あまりにも甘い。あまりにも男っぽくないのです。 
 どうにも、パリの話っていうのはやりづらいのであった。」(『ヨーロッパ退屈日記』より)

 そんな伊丹氏がパリにどのようなものを発見し、ひるがえって日本をどう考えたかについては、ぜひ『ヨーロッパ退屈日記』にあたっていただければと思います。パリをめぐる本で言えばもう一冊、未読の方にぜひおすすめしたいノンフィクションがあります。それは『パリ左岸のピアノ工房』(T・E・カーハート著 村松潔訳 新潮社刊)。表向きの華やかさとはまた別の、パリの奥行きの深さをたっぷりと伝える、これもまた名著といっていいと思います。ノンフィクションとはいえ、著者を主人公にした小説のようにじっくりと読み進められるのが大きな魅力。訳者あとがきを少し引用しておきましょう。

「本書の著者が住んでいるのはパリの左岸で、学生の街、カルチエ・ラタンからほど遠からぬひっそりとした裏通りである。三年ほど前からそこに住んでいる著者は、ある日、近所の通りにピアノの修理屋らしき店を発見する。ショー・ウィンドにピアノの部品や調律の道具がいくつか無造作に置いてあるだけの店。繁華街から離れた、近くに音楽学校があるわけでもないこんな裏通りで、ピアノ修理の専門店などという商売が成り立つのだろうか。一度気になりだすと、なんだかひどく謎めいた店に思えてくる。毎日その店の前を通りながら、何週間もためらっていたが、やがて彼は思いきってその店のドアをあけてみる」

 表に面した間口は狭い店だったのに、実は奥に広々としたアトリエがあり、そこには十八世紀から現在に至るまでの、様々なメーカーによる中古のピアノが修理を待ち、あるいは修理を終えて並んでいるのです。あらたな客を呼び込もうとする意志などなくとも、静かな口コミで常連の顧客は抱えており、彼らのピアノに対する密やかな情熱がこの店を支えています。顧客はお気に入りのピアノを手に入れたら「さようなら」ではなく、それからも何度となく店に足を運びますし、そもそもどんなピアノを手に入れることができるかは、その店に通いつめるなかで徐々に見えて来るものらしい。売り買いという行為は、店に通う長いやりとりのなかの、ほんの一点のわずかな瞬間に過ぎないのです。

 ……さて、移住したばかりの池澤さんから聞いた話で、フランス食わず嫌いの私がぐぐぐーっと膝を乗り出してしまったのは、朝市をめぐるものでした。週に二回か三回、パリだけでも六十ほどの露天市が並ぶ、といいます。屋根付きの常設市場も十カ所以上。「朝市」とあるとおり昼過ぎには店じまいしてしまう屋台には主に食材が並びます。新鮮な野菜、肉類、魚介類、くだもの、惣菜、チーズ、ワイン……。もちろんパリだけではありません。パリから電車で四十分ほどの、池澤さん宅のあるフォンテーヌブローでもまた、パリと同じような朝市が開かれているそうです。

 食材は白いトレーにのってラップされているわけではありません。戸外の空気に直接さらされて伸び伸びと輝くような食材を、お店の人と顔をつきあわせながら買うのです。何度となく足を運べば、「この前のもも肉が気に入った? じゃあこっちも試してごらんよ、味はもっと濃くておいしいよ」などというやりとりも次第に成立するようになる。店と客のあいだで個々に発生する直接のコミュニケーション。『パリ左岸のピアノ工房』でのやりとりに通じる世界です。ピアノ工房と違うのは、店じまいの午後が近づけばぐんぐん値引きされることでしょうか。

 思い起こせば私が小学生の頃には、近所の魚屋さんが大きな桶を肩にかけ自転車に乗ってご用聞きにやって来ました。お勝手口に顔をのぞかせた魚屋さんが丸い桶の蓋をとると、笹の葉を敷き詰めた桶のなかには角が丸くなった大きな氷を囲むようにして魚が並んでいました。「今日はアジがおすすめ」という魚屋さんの声と、新鮮な魚の青いひんやりとした香りを今でも覚えています。最近は流通が発達したので、その日に水揚げされた魚をその日にスーパーで買うこともできますから、スーパーで買う魚も実はなかなかおいしいものです。しかしお店の人との、笑顔になったり「なるほど」と頷いたりするようなやりとりがある、わけにはいきません。

 朝市のような露店による販売方法は人間が大昔から営んできた暮らしの原点なのだと思います。大量消費時代の幕開けとともにその絶対数は押され気味だと思いますが、それでもまだ朝市のようなものがしぶとく世界中に生き残っているのは、単にモノを売り買いするだけの目的で人々がそこに集まるのではないことを明らかにしているように思います。

 池澤さんの朝市の話は、パリに向かう気持ちの背中をポンと押してくれました。あとは預金通帳の現状と休暇をいったいいつとれるのか、という大問題だけが残っています。

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)
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何かについて考え、それが「わかる」とはどういうことでしょうか。

「わかる」のが当然だった時代は終わり、平成も終わり、現在は「わからない」が当然な時代です。わからないことを前提として、自分なりの考え方を模索するしかありません。

わかるとは、いわば自分の外側にあるものを、自分の尺度に照らして新しく再構成していくこと。

“Plain living, high thinking”(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)*を編集理念に、Webメディア「考える人」は、わかりたい読者に向けて、知の楽しみにあふれたコンテンツをお届けします。

*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長 松村 正樹


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