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2006年3月23日

梨木香歩・作、木内達朗・絵「蟹塚縁起」(理論社)

Kangaeruhito HTML Mail Magazine 175
 

梨木香歩・作、木内達朗・絵「蟹塚縁起」(理論社)

 ワールド・ベースボール・クラシックの決勝「日本対キューバ」の試合が行われていた頃、私はお墓にいました。お彼岸のお墓参りです。ひさしぶりに会った姪たちと一緒にお昼ご飯を食べ、その後さらに出かける先があったので、まったく生中継を見ることもなく、夕方帰宅したところで結果を知りました。夜のテレビニュースでは日本が世界一になったことがトップニュースとなり、しかも長々と試合を振り返りながら祝勝会を映し、まさにWBC一色という感じでした。

 私もサッカーのワールドカップやオリンピックを生中継で見ていると、どんどん気持ちが熱くなっていって、手は叩く、声はあげる、家のなかで飛び上がったり、床に倒れ伏したり、かなり単純で、影響を受けやすいタイプです。今回は生中継をまったく見ないまま、しかも試合の真っ最中には他の用事に気を取られていて試合が行われていることすら忘れている状態でした。その後、突然結果を知らされると、「あ、そうだったのか」と極めて冷静にしか反応できない自分に意外な思いを抱きました。生中継を見ていなかっただけでこんなにも淡々としていられるんだ、と驚いたのです。

 インパクトの強い出来事を集団が同時に経験すると、人間の精神活動にかなりの影響を与えます。それは人間に固有のものではありません。集団をつくる生き物も同じです。何か見えないものにひっぱられるかのように群れをなしていると、群れ自体がひとつの生命体のように同期化します。螢の群れが巨木に集まって光るとき、しだいにその発光するタイミングがひとつになり、光の木がひとつの生命体として呼吸しているように見えてくる。水中の魚の群れの動きも、群れの一単位がひとつの生命であるかのように見えるときがあります。

 この絵本には、蟹の圧倒的な群れと、三人の人間が登場します。蟹の群れは人間とのある縁によって、ある目的を達成するため、大きくうねるように移動している。その目的は、復讐であるかもしれず、報恩であるかもしれないような、そういう目的です。そして人間は、蟹の群れに翻弄されるしかない。物語については、これ以上は触れないでおくことにしましょう。

 木内さんの絵は、力強さと繊細さが同居する独特のタッチで、私たちが失ってしまった光と闇の世界を色濃く眩しく描き出します。夜の気配や土の匂い、光の密度がなまなましく息苦しいほどに伝わってくる。生命というものがもつ神秘性を、説明のできない、ある「感じ」として、ごろりと足もとに転がして寄こしたように描いている。梨木さんの文章は過剰にならず、省略もし過ぎず、淡々とした声の低いナレーターのように、物語を静かに一歩一歩追いかけていきます。

 人間の歴史というものが、どのように記憶され、あるいは、どのように忘れ去られていくものなのか。とりわけ、今のようなマスメディアがなかった頃、その時代の人々の記憶は、人の口から人の耳へと、あるいは紙に書きつけられた文字として、残されていく以外には方法のなかった記憶です。記憶を媒介していたものは、あくまでもひとりの人間。人間が生命をまっとうし、消えていくときには同じように消えてしまうかもしれない脆いもの。不特定多数に向けて、いつでも取り出し可能な状態で加工や保存ができないもの。梨木さんの描く物語は、そのように「はかないもの」としての記憶が、いかに強く人を揺り動かすものであるかを、懐深くしみわたるように思い起こさせてくれるのです。
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考える人とはとは

何かについて考え、それが「わかる」とはどういうことでしょうか。

「わかる」のが当然だった時代は終わり、平成も終わり、現在は「わからない」が当然な時代です。わからないことを前提として、自分なりの考え方を模索するしかありません。

わかるとは、いわば自分の外側にあるものを、自分の尺度に照らして新しく再構成していくこと。

“Plain living, high thinking”(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)*を編集理念に、Webメディア「考える人」は、わかりたい読者に向けて、知の楽しみにあふれたコンテンツをお届けします。

*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長 松村 正樹


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