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2006年5月18日

カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』(早川書房)

Kangaeruhito HTML Mail Magazine 183
 

カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』
(早川書房)

 独白体の小説と言えば、カズオ・イシグロの『日の名残り』が私にとっては忘れがたい作品です。同じスタイルの小説で、最も有名で、最も読まれている小説となれば、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』が筆頭にあげられるでしょう。主人公が直接的に読者へ話しかけてくるスタイルは、主人公と読者の関係を親密なものにしますが、それと同時に、何か特別なこと、肝心なことを読者に明らかにしないまま、物語を先へ進める場合が少なくありません。読者にはなかなか見えてこない何かをほのめかすには、独白体は実に効果的です。

『ライ麦畑でつかまえて』の主人公ホールデン・コールフィールドは、いったい「いつ」「どこで」17歳の自分の3日間の出来事を語っているのか。物語の最中にはそれほど意識されることはないものの、物語の冒頭やあるいは結末にさしかかったところで、にわかに謎めいて強く意識されてくるのです。とりわけ結末部分では、物語の主人公がそのまま語り手であるがために、読者のなかに蓄積されていった主人公への愛着がピークに達したところで、まさにその主人公によって一方的な別れを宣告されてしまう。それは自分の肉親を、子どもを、何かの不可抗力で手放すことになってしまった感覚に近い。

 独白体は、激しいものやシニカルなもの、穏やかで静かなもの、冗談めいたもの、などそれこそ人間の性格のヴァリエーションに比例した数だけ用意できます。カズオ・イシグロの小説の主人公は、毒づいたり叫んだりはしない。何かをあきらめた人に特有の透明さをたたえた静かなものなのです。『日の名残り』の主人公である老いた執事の独白のトーンにも、どこか共通する匂いをまとった語り手を持つこの最新長篇は、おだやかで、正確を期すのが習い性になっているような女性の、信頼のおける話しぶりとともに進行します。全貌を見渡すことができない巨大な船が、音もなくドックを離れ、ゆるゆると進水するかのように。

『わたしを離さないで』の語り手のおだやかさだと感じられたものは、物語の進行とともに、何かへの断念や深い哀しみからやってきたものではないか、と読者は次第に気づいていきます。今は三十一歳になっている主人公のキャシー・Hは、少女時代の回想へ読者を案内し、やがて恋もセックスもするひとりの女性になるまでを、少し奇妙な共同生活を描きながら読者に伝えていきます。共同生活の場所は、寄宿学校のようであり、何かの収容施設のようでもある。隔絶されたイギリスの田舎町の日々は、不思議な透明感と出口のない絶望が、濁らないままで混じり合うような、きわめて独特な世界の成り立ちを、私たちの目の前で鮮やかに展開させるのです。

 カズオ・イシグロがこの小説に独白体を選んだのは、他の選択肢はありえない必然だったのでしょう。この物語の文体はこうでなければならなかった。なぜそうでなければならなかったのか。それは、『わたしを離さないで』が、物語の背景を最初から読者には知られたくなかったから、ということだけをお伝えしておくことにしましょう。ほのめかしを片手に、そしてもう一方の手で読者を奥へ奥へとひっぱりながら、「あり得ないはずの、しかしあってもおかしくはない現実」へとゆるやかに導いてゆく。慎重な手順を踏みながら、ひとつひとつのぼっていく階段の行き先には、物語を大きく動かしている巨大な「背景」が立ち塞がります。それは一筋縄では解決できない、そして将来の私たちが抱えるかもしれない21世紀の問題です。

 読後に訪れる喪失感の大きさは、たとえようのないものでした。絶望という言葉で表現してもいいはずのシチュエーションを迎えて、物語は終わります。それなのに、私の心のなかで何かが反応し、ふつふつと湧いてきたのは、美しさに圧倒されることにも似た、かかえきれないほどの膨大な量の感情でした。現代文学の枠組みのなかではもはや生きながらえることが難しくなりつつある「無垢なるもの」を、カズオ・イシグロはこの果敢な小説のなかで、最後まで描ききったのだと思います。
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*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長 松村 正樹


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