Webマガジン「考える人」

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2008年8月7日

アザミ

Kangaeruhito HTML Mail Magazine 298
 アザミ

 東京に住むようになって三十年のイギリス人、Tさんが、一昨年あたりから虜になっている花があります。アザミです。不注意に触れるとかなり痛い、葉っぱには立派なトゲがあり、強固な意志が伸びたような茎のてっぺんに、ピンクと藤色がまざったような花をつけるアザミは、スコットランドの国花なのだそうです。彼の家には、アザミがデザインされたグラス、スプーン、ブローチなど、よくこれだけ集めたものだというぐらい、アザミ関係の品物があふれています。圧倒的に骨董が多い。スコットランドで古くから愛され、親しまれている花であることが、彼のコレクションをみるだけでもよくわかります。

 アザミが国花となったのは、スコットランドを危機から救った花だから。13世紀、ノルウェーの軍隊がスコットランドへ攻め入ろうとしたとき、足音で気づかれないよう裸足になって歩いていた兵士たちが、あたりに群生しているアザミをそれと知らずに踏んでしまいます。その叫び声を聞いたスコットランド軍は、たちまちノルウェー軍を逆襲し、一網打尽にしてしまった──という伝承があるそうです。

 Tさんは、まもなく60歳になろうという年齢ですが、私よりもはるかに若々しい。夏は毎日かかさずホテルの屋外プールに通う。大雨の日、プールサイドには誰もいない状態でも、Tさんはひとりで黙々と泳ぎます。午前中だけでたっぷり二キロを泳ぎきると、てきぱきと着替えをすませて、今度は自転車を漕いで自宅に帰ります。自分で昼食をつくり、ハイドンの交響曲やモーツァルトのグラン・パルティータを聴きながら、野菜やくだものが中心の低カロリーでさっぱりしたものを食べます。

 Tさんの都内での移動手段はもっぱら自転車です。タイヤの細い、キリッとしまったスポーツタイプの自転車は、かなりのスピードも出ますが、かならずしもビュンビュンと飛ばすわけではありません。それは時折あたらしい「通報」がもたらされ、自転車で徐行しながら探しものをする必要があるからです。「通報」はたとえばこういうもの──「あ、もしもし、Tさん? あのね、白金の○○通りの××公園に向かって入っていく細い道の途中にね、古い日本家屋の空き家があるんだけど、その家の板塀の下にね、ずらずらっとアザミが生えてるわよ」。

 彼が都内にもアザミが生えているのに気がついたのは、最近のことでした。一度そのことに気づくと、あちこちで向こうから目に飛び込んでくるようになる。彼の前に現れるアザミは、丹精された庭に生えているものではなくて(だいたい日本では、丹精された庭は外からは見えないことが多いからね、と彼はいいます)、路地や空き地に勝手に生えている「雑草」の状態なのだそうです。アザミを見つけると、彼は自転車を止め、背負ったリュックサックを下ろして、すみやかにアザミを回収し、自宅に持ち帰って、ひんやりとしたガラスの花瓶にたっぷりと水を入れ、飾ります。

 その気になってさがせば、すぐにアザミは見つかる、と彼は断言します。とくに見つけやすいのは、都内の空き地。それまで気にもとめなかった空き地を見渡してみると、その一隅にアザミが自生しているのだそうです。彼は空き地を囲っているフェンスを何気ない顔をしてまたいで入り、背中のリュックサックにアザミを回収します。「ポイントはコソコソとしないこと。堂々とやると怪しまれない(笑)」

 こんな話もしてくれました。「昨日はね、ちょっとびっくりした。空き地の奥のほうにアザミがたくさん生えていたからね、空き地に入っていってしばらく呆然と眺めていたの。でも雨が降ってきたから、いったん家に帰って大きな袋を持ってきて、ちゃんととろうと思ったのね。それで昨日またその空き地に行って、用意した袋を地面に並べてアザミをとろうとしてたら、『何してるんですか』って、声がした」

 声のする方に顔を向けると、怖い顔をしたおばあさんが、隣の家の窓をあけてTさんを見おろしている。「アザミをとってるんです。家に生けたいので、って言ったらね、そのアザミは私が毎日見ている花なんだから、とって行かれたら困るわよ(笑)。あなた、昨日もそこに立ってアザミを見ていたでしょう。あーそうですか、それは知りませんでしたって謝って帰ろうとしたら、ひとたば分ぐらいなら持って帰ってもいいわよって言うの。あーそうですか、ありがとうございますとまた頭を下げて、持って帰ってきたのがこのアザミ」

 アザミの花のかたちをした花瓶には、ひときわ堂々とした、いきのいいアザミが生けられていました。空き地にたまたま生えただけなのに、おばあさんに毎日見つめられ、Tさんにも選ばれて、こうして自転車で運ばれてきたアザミはいったい何を思うのか。トゲがあるせいか、アザミは唯我独尊の表情をたたえていて、なかなか内心を明かさない顔つきです。

 Tさんは昨年、アザミのタネをどこからか大量に集めてきて、ベランダのプランターに蒔き、毎日水やりをして、芽吹いたアザミを育てています。植物を育てる特殊能力のある「緑の指」を持つ人であるらしく、部屋にいくつも飾られている盆栽もきりっとしてみずみずしいのですが、アザミの苗も同じように、Tさんの手にかかれば憂いなくすくすく育ちます。

 一ヶ月ほど前に私もお裾分けをいただいて、家のベランダのプランターに植え替えました。アザミがいつ頃花をつけるのか、調べようと思いながら果たせないまま、毎晩帰りが遅くなっても、暗闇のなかでのアザミへの水やりだけは忘れないようにしています。今のところ、とげとげの葉っぱだけが少しずつ育っている状態で、花をいただくであろう茎の姿はまだ見えません。ひときわ暑いこの夏、葉っぱの緑はだいぶ色濃くなって、たくましさを増しているような気がします。

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)
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何かについて考え、それが「わかる」とはどういうことでしょうか。

「わかる」のが当然だった時代は終わり、平成も終わり、現在は「わからない」が当然な時代です。わからないことを前提として、自分なりの考え方を模索するしかありません。

わかるとは、いわば自分の外側にあるものを、自分の尺度に照らして新しく再構成していくこと。

“Plain living, high thinking”(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)*を編集理念に、Webメディア「考える人」は、わかりたい読者に向けて、知の楽しみにあふれたコンテンツをお届けします。

*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長 松村 正樹


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