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2008年12月18日

J・S・バッハ「マタイ受難曲」と二冊の本

Kangaeruhito HTML Mail Magazine 317
 

J・S・バッハ「マタイ受難曲」と二冊の本

 昨日の夕刻、12月29日発売の最新号が校了になりました。久しぶりに早く家に帰ることができたので、雨が静かに降るなか、何か音楽でも聴こうと思い、これもまた久しぶりにとりだしたのは、ニコラウス・アーノンクール指揮、ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス、ウィーン少年合唱団、アーノルト・シェーンベルク合唱団による「マタイ受難曲」(2000年5月録音 TELDEC)でした。

 私がたんに読み落としているだけなのかもしれませんが、次号特集でとりあげる須賀敦子さんが、「マタイ受難曲」について何かを書いたり語られたりしたものがあったかどうか、記憶がありません。小学生の頃はヴァイオリンやピアノを習っていて、なかでもピアノについては、妹の北村良子さんによると「毎晩食後には、言われないでもピアノの前に座って練習していましたから、ピアノを弾くのは好きだったと思います」(次号特集、北村良子さんのインタビュー「姉のこと」より)。

 須賀さんは絵画や建築についてはいくつもの文章をのこしています。「目の人」「耳の人」という二分法があるとすれば、須賀さんは「目の人」だったのかもしれません。しかし、北村さんの回想ではこのようにも語られています──「(聖心女子の)専門高等学校に行ってからは寄宿生は毎朝六時にミサがあるんです。五時半起床。そこで姉は聖歌を歌っていたので、学校が休みになると譜面をどっさり持って帰ってくるんです」。須賀さんが気に入っていた聖歌にはどんなものがあったのでしょうか。

 さて、今日は「マタイ受難曲」を聴く場面が出てくる本を二冊ご紹介しましょう。一冊は、武満徹『サイレント・ガーデン 滞院報告・キャロティンの祭典』(新潮社・絶版)。1995年の2月に入院された武満さんは、その約1年後に亡くなられます。武満さんが入院中に書いていた日記と、病床で描いていたイラストレーション入りの料理レシピを併録したのが本書。そのなかで、武満さんの亡くなる前日のことを夫人の武満浅香さんが書いています。

「翌十九日、病院に行くと、いつもすぐ起き上るのに、その日はベッドに横になったまま少しだるそうな様子でした。
 昨日は降りしきる雪を窓越しに眺めながらベッドで横になったまま、ラジオのFM放送でバッハの『マタイ受難曲』を聴いたというのです。そして、『バッハはほんとうにすごいね。なんだか身心ともに癒されたような気がする』と呟きました。武満はかねてから新しい作品にとりかかる前に、『マタイ受難曲』のなかの好きなコラールや、最終曲などをピアノで弾くというのが長年の儀式のようになっていました。
 たまたま雪が降ったために、そして見舞客も私もいなかったために、静かな病室で独り大好きだった『マタイ』を全曲聴けたこと、私は何か大きな恩寵のようなものを思わずにはおられません」

 もう一冊は、『阿部謹也 最初の授業・最後の授業』(日本エディタースクール出版部)です。歴史家、社会学者の阿部謹也さんは、本誌で自伝(『阿部謹也自伝』)を連載、単行本化された翌年の2006年に亡くなられました。本書は、1965年に小樽商科大学で行われた「歴史学」の最初の授業の講義ノートと、2006年に東京芸術大学で行われた「最後の授業」である「自画像の社会史」の講義録をおさめたものです(葬儀での弔辞やその後に発表された関係者などによる追悼文も収録されています)。

 巻末では、夫人の阿部晨子氏、長男で生物学者の阿部道生氏、次男で経済学者の阿部修人氏の回想も読むことができるのですが、家族の目をとおして描かれる阿部さんは、少し意外な面もうかがわれ、たいへん興味深いものがあります。ぜひご一読をおすすめします。「父と音楽」というタイトルで書かれている阿部修人氏の文章のなかに、こんなくだりがありました。

「二〇〇七年一月にNHK教育テレビで放送された『こころの時代・宗教・人生 われとして生きる』の中で、父、阿部謹也がiPodを病院のベッドの上で器用に操作している様子が映っている。二〇〇六年九月に新宿の病院で亡くなった時にも、ベッドの横にはiPodがおいてあった。父が最後に聞いていた曲はポール・マクリーシュが指揮するバッハの『マタイ受難曲』で、晩年のお気に入りであった」

 阿部さんは「聞く」ばかりではなく、研究の対象としても「マタイ受難曲」について考えられていた可能性があるようです。阿部修人氏はこのように書いています。

「父が亡くなる半年くらい前だったか、ある日、私に、今まで発表されたすべての『マタイ受難曲』の録音を集めてくれないか、と言ってきた。だが、私は本気にせず聞き流してしまい、全く収集しなかった。どれだけ多くの音楽家が、研究者が『マタイ受難曲』に関して語ってきたかを考えると、暇つぶしにすぎない音楽について、父が研究するのは無謀な試みだと勝手に思ってしまったのだ。今振り返ると、父の研究テーマは、常に、一見無謀と思われるようなものばかりだった」

 阿部謹也さんが愛聴していたというポール・マクリーシュ指揮の「マタイ受難曲」は聴いたことがありませんでした。さっそく手に入れて、この冬休みにぜひ聴いてみることにしたいと思っています。
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「わかる」のが当然だった時代は終わり、平成も終わり、現在は「わからない」が当然な時代です。わからないことを前提として、自分なりの考え方を模索するしかありません。

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“Plain living, high thinking”(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)*を編集理念に、Webメディア「考える人」は、わかりたい読者に向けて、知の楽しみにあふれたコンテンツをお届けします。

*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長 松村 正樹


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