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2009年7月9日

サイモン・シン 青木薫訳 『フェルマーの最終定理』(新潮社)

Kangaeruhito HTML Mail Magazine 346
 

サイモン・シン 青木薫訳
『フェルマーの最終定理』(新潮社)

 夜遅くに帰宅して、風呂上がりにたまたまつけたテレビで、目が覚めるような海外ドキュメンタリーを見ることがあります。視聴率のせいもあるのか、海外ドキュメンタリーはたいてい深夜に放送されるので、途中で眠ってしまうこともあり、気づいたら番組が終わっていた、なんてこともあります。しかしほんとうに目が覚めてしまい、椅子に座り直して見入ってしまう番組も少なくありません。

 BBCが制作した「解けた! フェルマーの最終定理」も、目が覚めるどころか鳥肌まで立つような感動を覚えた番組でした。十年ぐらい前にたまたまNHK教育テレビでオンエアされたものを見たのです。十七世紀のフランスの数学者ピエール・ド・フェルマーが書き残した定理で、その後、三百五十年が経過しても、誰もその定理を証明できずにいたものを、イギリス人数学者アンドリュー・ワイルズが証明に成功する──そのようなドキュメンタリーでした。

 少年時代に「フェルマーの最終定理」の存在を知り、いつか自分で解いてみせると決意したワイルズは、やがて数学者となって、ついに少年時代の夢をかなえようとする。誰にも打ち明けず、七年もの歳月をかけ「フェルマーの最終定理」と格闘し続けたワイルズは、ある日それを証明することに成功した、と全世界に向けて発表する。しかし、その論文に致命的な欠陥が指摘され、世界中を駆け巡った栄光は一夜にして崩れ去ってしまいます。

 失意のなかでふたたび証明に取り組み始めたワイルズ。一年以上の時間が経過しても事態は好転せず、ほとんど絶望しかけていたとき、ふたたび自分がその証明に成功した、と悟る瞬間がやってきます──テレビカメラの前で、その瞬間の生々しい記憶が甦ったワイルズは、感極まって言葉を失い、涙ぐんでしまいます。

 このドキュメンタリーはイギリスで放映されるや大反響をよび、日本にも輸入され、放映されることになったわけです。しかしこの番組を制作したBBCのサイモン・シンは、長い時間をかけて取材した成果が、テレビの枠ではその一部しか伝えることができない、というジレンマに悩むことになります。四十五分のテレビ番組には、文字としては六千語しか入らない。しかし本には、八万語も九万語も入る。その悩みを打ち明けた相手であるBBCの同僚から、「だったら本にして書けばいいじゃない」と勧められて書くことになったのがこの『フェルマーの最終定理』だったのです。

 日本語版が刊行される少し前の1999年に、ロンドンに住むサイモン・シンを訪ねてインタビューしたことがありました。その記事は、『海外作家の文章読本』(新潮社)というムックに収録されていますが、現在は残念ながら絶版です。そのインタビューでおもしろかったのは、インタビューには絶対応じない、直接会って交渉することもできない、きわめてシャイなワイルズを、どうやって出演させることに成功したか、という部分でした。サイモン・シンはこう言っています。
 
「最終的にワイルズが取材を受けたのは、私の依頼の趣旨を本人が納得してくれたからでした。ひとつは、きちんとしたドキュメンタリーを作ってしまえば、以後どんな取材の申し込みがあっても、『あの番組ですべて答えたのでそれを見てほしい』と断ることができる、ということ。もうひとつは、ワイルズが10歳で『フェルマーの最終定理』の存在を知って数学に惹かれていったのと同じように、このドキュメンタリーを今の子供たちが見て、『僕もこういうことをやってみたい』と刺激を受け、ワイルズの後継者が誕生するきっかけになるかもしれない、ということでした。ワイルズは私のこの説得にやっと心を動かされたようでした」

 真理を、あるいは謎を追究し、解明するには時間がかかります。ワイルズの場合のように、それ以前の三百五十年の数学の歴史のつらなりがあり、また、ワイルズの証明を手助けするような先行する数学者たちの業績がなければ、ワイルズひとりの数学的才能だけではとうてい解けなかったにちがいないのです。そして、その原動力となるものは、意外にシンプルな動機に過ぎない。その動機とはまず、いまだに解かれていない問題があると知ること、ここから先は誰にもわからないという問題がこの世界に存在する、と知ること、なのです。

 発売されたばかりの最新号の特集「日本の科学者100人100冊」にも、ワイルズが経験したような物語が見え隠れしています。科学とは、人の感情や感覚を遙かに超えるような領域に人を運んでゆくもの。しかし科学者の背景には、私たちの感情を素直に揺さぶる物語が隠れてもいる。私たちがそのような物語に触れるのは、やはり残された一冊の本を通して、なのだと思います。「日本の科学者」の後継者になってゆくかもしれない若い読者に、本書と「考える人」最新号をぜひおすすめしたいと思います。夏休みには本をいっぱい読めますよ。
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考える人とはとは

何かについて考え、それが「わかる」とはどういうことでしょうか。

「わかる」のが当然だった時代は終わり、平成も終わり、現在は「わからない」が当然な時代です。わからないことを前提として、自分なりの考え方を模索するしかありません。

わかるとは、いわば自分の外側にあるものを、自分の尺度に照らして新しく再構成していくこと。

“Plain living, high thinking”(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)*を編集理念に、Webメディア「考える人」は、わかりたい読者に向けて、知の楽しみにあふれたコンテンツをお届けします。

*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長 松村 正樹


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