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「優しくなるためには、〝評論〟をなくさないと」と語るみうらじゅん氏
 

――現在、みうらさんは「かるな」という浄土宗出版が刊行している季刊誌で「オール・シングス・マスト・パス」という連載をされています。

 言わずと知れたジョージ・ハリスンの名アルバムのタイトルだけど、「オール・シングス・マスト・パス」=「諸行無常」だということに、この雑誌を読んでいる人で気づいている人は、あまりおられないと思います。

――みうらさんらしい仏教エッセイで、楽しく拝読していますが、中でも一番グッと来たのが、以下の一節です。「難しい経典までは読んだことがないけど、僕は勝手に仏像から〝優しくたって構わない〟ということを学んだんだ」。この「優しくたって構わない」というメッセージにはグッと来ました。

 特にタイの「寝釈迦」(註・涅槃仏ねはんぶつのこと)は、笑っているんだよね。あれはお釈迦さんが涅槃に入る寸前、つまり死ぬ寸前の姿をあらわしたものですが、きっとお釈迦さんは「死はみんなが思うより怖いもんじゃないよ」ということを伝えたくて、笑って見せたんじゃないかと。やっぱり人間が一番怖がるのは死でしょ。だから、あの方はあえて笑って死んで見せたんじゃないかな。とにかく「怖くないよ」ということを伝えようと思って、笑ってくださったんじゃないかなあと思って。

 そう考えると、お釈迦さんって、凄い優しいじゃない。なんか現代では「優しいだけじゃ生きられない」なんて言われるぐらいで、優しいと損をするイメージがあるでしょう。でも、いつか「損ブーム」が来て、みんなが積極的に他人のために損をしたり、損した人を見て「いいね!」となれば、もっと世界は優しくなると思うんだけど。だから、「優しくたって構わない」とお釈迦さんに学んだことを、あのエッセイでは書きたくて。

――それがいわゆる仏教の〝信心〟ではないことが、みうらさんの特長ですね。

〝信心〟というと、途端に団体感が強くなるのでね。何か他にグッと来るネーミングがあればいいんだけど、意外とないでしょう。やっぱり仏教だと、出家か在家かの二つしかなくて、それ以外の人をあらわすちょうどいい言葉がない。だから「仏教ファン」という言葉を使っていたんだけど……。「鉄道ファン」という言葉があるじゃないですか。だからといってあの人たちは鉄道会社に勤めているわけじゃないじゃない。でも、ただの「乗客」でもなくて(笑)。

――「仏教ファン」というのは、「仏教が好きだけど、〝信心〟があるわけじゃない」ということでしょうか?

 「仏教ファン」「仏像ファン」というのがいてもいいじゃないですか。

 先ほどの「優しさ」だけど、ついつい自分を守るために、他人に優しくなれない時があるでしょう。飲み屋で後輩に説教するのも、自分を守りたいからで。後輩や友達が言うことを、「いや」とか「でも」とかで受けないで、「うんうん。そうだね」と優しく聞いていればいいものをね。それで「みうらさんは、何も知らないんですね」とか言われても、反論しないでニヤニヤしていればいい。どうしても人間は弱いから、それじゃ気が済まないんですよね。だから「俺だって知っているわ!」とか、「バカにすんな!」とか言っちゃう。そこを「滅」して、優しくなりたいんです。

――「僕」を「滅する」で、「僕滅」ですか。

「自分なくし」ですよね、第一は。「自分がある」と思うからケンカにもなるわけで、「僕滅」して、自分をなくせばいい。ただ、ずっとニヤニヤしているのは相当な修行が必要で、優しいことは一番難しいことだなと思うんです。

 特に還暦を迎えてからは、「優しい老人」になろうと思って(笑)。そのためには自分の意見をなるべく言わない。例えばラーメンを見た時に、「おいしそう」とか「ははーん、これはあの系統の味だな」とか言わない。言うのは、「ラーメンだ」。それだけ。それを「おいしそう」とか言うと、必ず「この前食べたラーメンよりも~」とか比較を始めるでしょう。「比較三原則」(註・みうらさんの造語。「他人・過去・親」と自分を比較しないこと)はもうやめて、見たまんま「お、ラーメンだ」だけ言えば、優しい人になれるんじゃないでしょうか。

――何か気のきいたことを言おうとか、思わない。

「うまいこと言おう」が煩悩なので。それが、じいさんになって介護される時に邪魔をするんですよ。介護される時は、やっぱり赤ちゃんのようになった方がかわいがってくれるでしょ。

――たしかに老人ホームで嫌われるタイプが、元大学教授と元新聞記者だと聞いたことがあります。

 でしょう? どちらも「うまいことを言う」タイプだもんね(笑)。それはかわいくないですよ。空を見上げて、「うわあ、空だ」と言うのが理想で、できるだけ形容詞をなくしていく修行が必要だと思うんです。それが優しくなる第一歩。形容詞をたくさん使うと、どうしても〝比較〟と〝評論〟が出ちゃうでしょう。

――みうらさんのその境地が、お釈迦さんと重なってきますが……。

 いやいや(笑)。言葉というのは、うまくできているけど、微妙にズレていたりするじゃないですか。どんな感情でも、100パーセントぴったりの言葉というのは実はない。

 いよいよ介護されるという時に、文学的表現なんて一切要らないと思うんですよ。だから赤ちゃんに学んで、せめて「えーん、えーん」とキーの高い声を出せるように訓練しておかないと(笑)。還暦を超えて、「愛されたい」が、段々と「介護してもらいたい」になってきたんです。だから今、必死で洗い物と洗濯をやっています。奥さんの機嫌をきちんと取っておかないと(笑)。

――言葉ということを考えると、お釈迦さんは有能なコピーライターですよね。

 中道とか、諸行無常、諸法無我とか。キャッチーだし、グッと来ますよね。でも、インド、中国、日本に伝わる過程で、少しずつ意味がズレちゃったりもするんじゃないでしょうか。落語だと、大師匠の「芝浜」は凄かったけど、弟子たちが少しずつアレンジを加えて、もはや原型をとどめていなかったり。それはそれで味わい深かったりするけど、やっぱり大師匠の「芝浜」とは違う、とも思うわけで。当たり前だけど、仏教の〝家元〟はお釈迦さまだから。

――それを忘れちゃいけないと。その通りですね。貴重なお話をありがとうございます。あらためて、ご受賞おめでとうございます。

 まだ何だかピンと来ていないけど(笑)、ありがとうございます。 

(取材・構成:金寿煥 撮影:青木登)

マイ仏教
みうらじゅん/著
2011/5/14