2020年12月24日
狂気と執念の「明石家さんま研究」 エムカク『明石家さんまヒストリー1 1955~1981 「明石家さんま」の誕生』
日本一有名な芸人の、日本一深い評伝
著者: 水道橋博士
「日本一有名な芸人」の“歴史”に、「日本一のファン」が迫った『明石家さんまヒストリー1 1955~1981 「明石家さんま」の誕生』。明石家さんまさんの少年時代から芸人デビュー、大阪でのブレイク、「ひょうきん族」スタートまでを、本人の発言や膨大な資料をもとに克明に記録しています。発売直後から、高田文夫さんや小林信彦さん、東野幸治さん、岡村隆史さん、大久保佳代子さんらが言及するなど、すでに業界の内外でも話題沸騰中です。
なかでも今回の寄稿者である水道橋博士さんは、著者エムカク氏の「生みの親」と言える存在。その水道橋博士さんが、「波」2020年12月号に寄せた書評を大幅加筆、本書の「読みどころ」を深く掘り下げます。さらに「書評内書評」として、ONO氏のブログ「日々の泡。」に掲載された書評も全文掲載。こうした書評の連なりもまた読書の醍醐味。ぜひ年末年始の一冊にどうぞ!
正体不明の「研究家」
2ヶ月連続の『波』での書評になる。
先月に紹介した、細田昌志著『沢村忠に真空を飛ばせた男/昭和のプロモーター・野口修 評伝』(新潮社)に続き、この本もまたボクが主宰するメールマガジン『水道橋博士のメルマ旬報』の長期連載の書籍化である。
本書は日本一有名な芸人を日本一深く研究する偏執狂(マニア)が描く、現在進行形で唯一無二、前代未聞のシリーズ評伝本の一巻目である。
著者との出会いは2013年8月21日になる。
大阪の書店でボクが書いた『藝人春秋』(文藝春秋)のサイン会を開催した際に「ツイッターでフォローしていただいているエムカクです」と突如声をかけられた。
一度も面識のないまま闇の中から現れたのだ。
「エムカク」とは当時、マニアックな明石家さんま情報だけを大量に呟く謎のアカウントで個人情報は一切なく、しかも年齢不詳、正体不明――。
ここで『メルマ旬報』の特殊性を語っておくと、8年前、2012年に創刊した日本最大のメールマガジンで執筆者は60人を超えている。
ここに集う執筆者には互いに「演芸男子」と呼ぶことになる好事家が多い。
広義の芸能界、細部の音楽・演芸・芸人通で、しかも年代や事実のウラ取りに固執するマニアックな“史家”の集まりである。
エムカクは彼らの間で俄然、話題になった。
そのあまりの詳しさに、身内親戚説/業界関係者説/複数人説などいろいろ憶測が出た。それがこの日、実在する関西在住の青年であることが初めて判明したのだ。
しかも、ボクが本の販促用に配っていた『水道橋博士の半世紀Life年表』を手にして「僕もこの年表を参考にして明石家さんま年表を作りたいです!」と唐突に申し出た。
この年表も我ながらどうかしている10万字超えの新聞大4頁びっちりの冊子であり、『メルマ旬報』の年表職人・相沢直くんとの共作だった(彼もまた過去に、いとうせいこう年表、高田文夫年表、坂上忍年表などを作成した演芸男子である)。
出会いの3日後にメールで執筆をお願いし、連載陣に加入してもらった。
それから7年間にわたり、毎回、最低でも1万字を超える、あまりにも膨大な文字量の「さんまヒストリー」が次々と綴られ、しかも、その超ド級の面白さに毎回、圧倒されることになる。
“信徒”としてのミッション
1973年生まれの著者は思春期にもとりたてて、さんまファンではなかったものの、20歳(1993年)のときに、ふと見た『痛快!明石家電視台』の面白さに衝撃を受け、その後、深夜ラジオの『MBSヤングタウン』を知ると、毎週の出来事をつぶさに語るさんまさんを知り、その情報を自分のために手書きで書き尽くす日々を送ってきた。
見上げる巨星の引力に吸い込まれ、魅入られ、頼まれたわけでもないのに、市井の民が何か実態のわからない無償の奉仕を強いられる体験、ボクもまた、ビートたけしに入門する前、19歳から23歳までラジオ「オールナイトニッポン」の殿の喋りをそのまま手書きで写経していた時代があるので、その癖は理解できる。
そして運命の1996年3月23日、さんまさんがラジオで放った爆弾発言、
「言っときましょう。私は、しゃべる商売なんですよ。本を売る商売じゃないんですよ。しゃべって伝えられる間は、できる限りしゃべりたい。本で自分の気持ちを訴えるほど、俺はヤワじゃない」
を聞くと、真の意味で“啓示”を受け、本格的に明石家さんまの全歴史を発掘、調査し、整合性を持って記録していく――自分の人生での役割を知る。
いわば、さんまを神と讃え、信徒として「イエスはかく語りき」と伝道する「聖書」、さんまを仏とするならば、その教えを「如是我聞(私はこう聞いた)」と記す「仏典」の作り手となったのだ。
そして、その後は信徒としての使命感と共に20年以上にわたって、世間への公表を前提としないまま、テレビ、ラジオ、雑誌、舞台などのさんま発言を、過去に遡りながらノートに残し続けていたのだ(さんま研究の初期にはパソコンを使っていない)。
後にボクもノートの実物を見たが、単なるメモ書きではなく、綺麗な楷書の手書きで、日付ごとに整理整頓され、冊数も100冊を優に超えており、一種、アウトサイダーアート的な凄みと狂気を感じた。
連載開始と共に著者を囲み、在阪のさんま研究の好事家が集まるライブ企画が何度も催され、新たな事実発掘、ウラ取りは、集合知として年表の完全版に随時補足されていった。
また、ある頃から取材はさんまさん本人にも及んでおり、大阪から東京の移動日に、新幹線の新大阪―京都間のみの同席を許され、年表の不明部分についてピンポイントで質問を当てている。新幹線の隣席に同行していた松尾伴内とさんまという、たった二人の読者のためだけに、小冊子「本日も明石家さんまさんでございます」を作り続けた。
更には半世紀近く前の寄席の香盤表やラテ欄を確認、網羅するまでの拘り、執着はもはや学術研究の域であった。
書籍化の打診は早い段階で多くの出版社から編集長のボクにもあったが難航した。
とにかく、さんまさん本人が現役の超売れっ子であり、次々とお喋りは更新されていく。決して追いつくことがない終わりの見えない作業である。
しかも、これまでに書かれた文字数だけでも書籍に纏めれば2千ページを超えるであろう文字量なのだ(実際、書籍化でもかなりカットしている)。
最終的にボクと旧知の新潮社の編集者・金寿煥がシリーズ化のアイデアを提案、数年間の作業を進めるうちに、さんまさん本人から「それはおまえのやろ!」と書籍化の許可を得たことが最大の転機となった。
連載はテレビ関係者の目にも留まった。本書にある高校生時代の「人生で一番ウケた日」「奈良商のヒーロー」、そして弟子修行をやめ東京へ彼女と駆け落ちした「芸をとるか、愛をとるか」などなどの逸話は、日本テレビ『誰も知らない明石家さんま』特番でドラマ化もされている。これらの土台のストーリーはエムカク発。なんと著者は、この連載を通じて番組にリサーチャーとして起用されたのだ。
つまり神と信徒は今、番組を通じて同じ仕事をしているのだ。
たけしとさんま――史上最大のニアミス
本書では、1955年の生誕から81年の東京進出までが描かれる。
途中、途中にコラムは挟むが、本編に著者の視点は極力挟まず、基本、さんまさんの発言、回想を繋いでいく手法だが、どこを読んでも滅法面白い(なにしろ主人公が日本一の語り部なのだから)。
ここから内容に踏み込む考察を――(これより敬称略)。
杉本高文は県立奈良商3年の1973年秋、京都花月で笑福亭松之助に弟子入り志願する。
「師匠はセンスがありますんで」と松之助を呵々大笑させ、晴れて「笑福亭さんま」となる。
修行は順風満帆、だが、幼なじみの愛(仮名)と再会してから狂い始める。
1974年の晩夏、師匠に弟子を辞めると電話すると「女か?」と。松之助はすべてお見通しだった。
ちなみに、今から48年前、新宿のジャズ喫茶のバイトなどを経た北野武が、台東区・浅草のストリップ小屋で深見千三郎に弟子入りしたのが1972年8月。
その2年後の1974年、長嶋引退の秋、上京するはずの愛を待ちながら、江戸川区・小岩で暮らしていたさんまは、浅草の演芸場や千葉・船橋のストリップ劇場の門を叩くも叶わなかった。
それでも小岩の喫茶店に拾われ、情に厚い同僚や、閉店間際の客を相手に芸と前歯(キバ)を磨き始めていた……。
そしてその頃、二人は浅草ですれ違っていた――。
このボクの想像上の“日本演芸史上最大のニアミス”から約5年で異なる登山道から両者はトップに到達、役者・アイドルと芸人の階層を転覆させ、テレビで観ない日はないスターとなるのだが、本書はその二人が『ひょうきん族』で相まみえる前夜までの話だ。
命運を分けたピン芸人志向
上京しても「半年程度で帰ってくるからよろしく」と松之助による関係者への挨拶も抜かりなく、案の定、さんまは半年余りで帰阪した。
件の女性、愛とのラストシーンは痺れるような格好良さなのだが、ともかく、その半年の東京下町でのどん底生活は、芸人としての背水の限界値を高めた。
また後に、女性問題に厳しい『MBSヤンタン』から降板宣告を受けた際などでも、「大阪がダメでも東京がある」と泰然自若と構えられる余裕をさんまに身につけさせた。
そんな、さんまの女性関係にも項が割かれる。
そのMBSの渡邊Pを呆れさせた、「10万人のファンよりひとりのエッチ」騒動や、さらに喫茶店「ラ・シャンブル」の保護観察中の美女、難波高島屋デパガの光子、小岩時代の愛、奈良商の慶子ちゃん(いずれも仮名)……まったく面目躍如の数多さだ。
本書の肝は、さんまのピン芸人志向への至りだ。
再婚した父の“訳アリの三兄弟”の次男坊に欠く、親類からの愛情の飢えがまず原点であり、また、奈良商時代、新歓説明会でサッカー部への“勧誘漫談”がウケ、代弁依頼が殺到、結局全21クラブを紹介した「人生で一番ウケた」経験。
さらに、なんば花月で観た「笑いの爆弾男」笑福亭仁鶴の衝撃、先輩・桂三枝による愛とムチの王道への誘導……等々にその要因を見る。
吉本から兄弟子・小禄と正式にコンビ活動せよとの命に逆らうと、花月の舞台を干されたが平気の平左、漫才ブーム中も鉄板芸、小林繁の形態模写を既に必要としないほど。
吉本のマネージャー・木村政雄はさんまを「漫才師ではないのに、漫才ブームに乗った唯一のタレントである」と断じた。
そして、さんま史を語る上で欠かせない同期入門の終生のライバル・島田紳助。
世間の見立ては「努力の紳助、天才のさんま」であるが、サッカー部だったさんまの奈良商時代の憧れは、当時のトッププレイヤー、マンチェスター・ユナイテッドのジョージ・ベストと西ドイツ代表のベルティ・フォクツ。ベストは容姿プレー共に人を魅了するタイプ。「人は7人のミス・ワールドと寝たというが、4人だけだ」とキザを吐くあたりは、いかにも、さんま然としている。
しかし、質実剛健なフォクツは「才能のない私は人一倍の努力が必要だった」というタイプ。つまり、明石家さんまとは、ベストのなりをしたフォクツ、「人並み以上に努力しているのに、天才だと感じさせてしまう」のが正体だ――と思わせる。
紳助は、「将来の展望」をノートにグラフ化していた戦略家、さらに、完全無比な漫才論を記した漫才ノートを作成するも、相方に望んださんまが、ピンに向かう様に抗えず、廃業まで決意する。しかし、さんまに紹介された松本竜介を相方として漫才ブームに羽ばたき、後にピンのテレビタレントとしてさんまと切磋琢磨の時代が訪れるわけだが……。
ふたりの天才の若き修行期間の交流、対比は芸論としても実に興味深い。
そして1980年の漫才ブームの台風に襲われながらもピン芸人として生き残り東京進出へ。いよいよ、これから「ビッグ3誕生」「盟友・木村拓哉」「大竹しのぶとの出会い」などが描かれていくだろう。
当然、読後、一刻も早く続編を読みたくなる。
本書の最後に第2巻目が予告されている。そこには「1982~1985」と付記されている。2巻目で1985年まで? 目を疑った。新潮社は、塩野七生『ローマ人の物語』(単行本で15巻、文庫で43巻)を覚悟しているのか?
2020年、サンマの漁獲量は過去最低を更新したが、新潮社はこの一冊で、脂の乗った“さんま”の豊漁になるのは間違いない。
と、ここまで書いていたのだが、その後『メルマ旬報』の良き読者であるONO氏による、完璧なる書評をブログ「日々の泡。」に発見したので、商業文では禁じ手ではあるだろうが本人の許可を得て、そのまま引用したい――。
ONO氏のブログ「日々の泡。」より――エムカク著『明石家さんまヒストリー1 1955~1981 「明石家さんま」の誕生』を読んで
エムカク著『明石家さんまヒストリー1 1955~1981 「明石家さんま」の誕生』読了。
水道橋博士主宰の「メルマ旬報」に2013年から連載中の壮大なる歴史ロマン「明石家さんまヒストリー」がついに待望の書籍化。今作はシリーズの第一弾となる。
「明石家さんま」。この国に暮らしていて、その名前を知らない人はいないだろう。
40年以上に渡って日本中を笑わせ続けている男。生み出した笑いの総量は、日本芸能史の中でも間違いなくトップクラスに位置する、現在進行形で笑いを日夜生み出し続けている稀代の芸人。この巨星に魅入られ、とり憑かれた男が27年にわたって、テレビ、ラジオでの本人の発言、関係者の発言、雑誌記事から過去の新聞をマイクロフィルムから調べあげてその足跡を克明に記録。「日本一のホラ吹き野郎」ともよばれた芸人から発せられる大いに盛られた話さえも数々の発言を照らし合わせ、裏を採り、その最初の1滴を突き止め、徹底的に事実を炙り出す。
改竄、捏造、歴史修正などとんでもない。全ての言葉を集め、丁寧に濾過し、探り当てた事実だけを一つ一つ積み上げていく――この恐ろしく労力を伴う歴史学者の仕事は今もなお休むことなく続いており、本書はその最初の研究発表となる。『「明石家さんま」の誕生』との副題の通り、1955年7月1日金曜日(この「金曜日」という部分が実にいい。「7月1日」までなら誰でも書ける。そこから曜日を調べるひと手間の掛け方が本書の肝だと思う)、和歌山県に生まれた杉本高文がどのようにして「明石家さんま」になっていくのかを年代を追いながら描いていくのだが。いやもうこれがめっぽう面白い!
筆者は大袈裟な表現や無理やりに劇的な言葉で「明石家さんま」の歴史を盛りたてることはしないし、事実に基づかない話は一切ない。にもかかわらず、杉本高文少年が「明石家さんま」に変貌を遂げていく道程はとてつもなくドラマチックで、一気に引き込まれる。プロローグでは師匠・笑福亭松之助との出会い、弟子入りのエピソードが語られる。この歴史書のオープニングを飾るにこれ以上ないエピソードではないか。弟子入り志願の若者の「師匠はセンスありますんで」にガハハと答える松之助師匠。出会いにして二人の波長がピタリと合う瞬間。ワクワクと胸が高鳴る。
だが落語家への道を進もうとする息子に父親は猛反対する。やがて開かれる親族会議。結果、父以外は全員賛成で親戚一同から「高文ちゃんはいけるでぇ」と逆に背中を押されるという鮮やかなオチ。最高っ!「生きてるだけで丸もうけ」を座右の銘とする男の少年時代は「実母の死」から始まる。
「笑い」と最もかけ離れた場所にいた少年が「笑い」を武器に世界を変えていく歴史ドラマなんて面白いに決まってるじゃないか。
そしてこの「お笑い一代記」に色を添える登場人物たちの何と魅力的なことか。
この祖父にしてこの孫あり――笑いの遺伝子を高文少年に与えた祖父・音一から始まり、笑いに愛された親友・大西康雄、高文が恋をする慶子ちゃん(本書では大幅にカットされているが、彼女との恋物語、これがまたたまらないのだ。外伝的にまとめられたメルマ旬報2020年10月22日配信「明石家さんまヒストリー・高文の恋」は必読!)、そして天敵・乾井先生。
運動会における乾井先生との最終対決、その臨場感たるや! 綴られた文章の中から、生命力に満ちあふれ活き活きと青春を謳歌する「杉本高文君」が飛び出してくるようで、もう何回も読み返したくなる。
友情と笑い、甘酸っぱい恋――青春の輝きに満ちた高校時代。杉本高文が過ごした青春時代が、芸人「明石家さんま」の確かな礎となっていることがよくよくわかる。そしていよいよ入門。ここからもさらに魅力的な人物達が歴史の中に登場してくる。
まずは師匠・笑福亭松之助。「白紙に戻れる~完全に尊敬できる」と言いきれる師匠との出会いは運命であり奇跡である。師匠・松之助の芸人としての、人間としての大きさが伝わってくるエピソードの数々。芸人としての在り方を師匠・松之助の下で学び杉本高文は芸人へと成長していく。
盟友・島田紳助との出会いもまた奇跡的。後にテレビでの人気を二分することになる二人のまだ何者でもない時代。芸人としての一歩を踏み出したばかりの二人が出会い、友情を育み、切磋琢磨する姿が活写される。「笑福亭さんま」としてスピードデビューを果たし、順調な弟子っ子生活が始まるが、ここで事件は起こる。この『「明石家さんま」の誕生』の中でも最も重要なエピソード、「芸をとるか、愛をとるか」を悩んだ末の「東京へ逃げる」1974年の出来事。「完全に尊敬できる」師匠の下を離れ、「愛」を取った「笑福亭さんま」。普通に考えたらこれですべて終わり。だが運命はそうはさせない。過酷な半年の東京生活を救うのもまた「笑い」であった。やがて愛は終わり、友人たちの後押しで再び師匠・松之助のもとへ。
この一件における松之助師匠の振る舞いがとにかく最高にかっこいい! この師匠とこの弟子だからこその最高級のエピソード。もはや「明石家さんまヒストリー」はこのエピソードを公の文書として残したと言うだけでも十二分に価値があると言いたくなる。
東京での半年、芸人人生を終わらせるかもしれなかったこの回り道が、あらゆる意味で「“明石家”さんま」を生むことになる。「明石家さんま」が誕生した重要ポイント。そうここテストに出るところ!そして1976年1月15日23時15分「11PM」(しかしここ23時15分まで要るか? いや、ここが本書の肝なのです。)で鮮烈なテレビデビューを飾ってから1年と10ヶ月、1977年10月2日17時30分(だから17時30分まで……以下略)「ヤングおー!おー!」のレギュラー出演がスタートし、芸人「明石家さんま」の快進撃が始まる。
ここから先は紳助、巨人や「明石家さんま」の育ての親の一人、桂三枝(現・文枝。明石家さんまを鍛え上げ、テレビ・ラジオで生きていく術をすべて伝授し、その道筋をつけていく「明石家さんま」の芸人人生における最重要人物!)、横山やすし、林家小染、笑福亭鶴瓶、関根勤(無名の若手芸人だった明石家さんまをうめだ花月の2階席で爆笑しながら見初める同じく無名の関根勤。後の二人の関係性を思えばこれもまた運命的であり奇跡)、西川のりお(個人的にさんま&のりおのただただ楽しいだけのエピソードが大好き)ら芸人達から小林繁、桑田佳祐、松田聖子、大原麗子などなどのキラ星の如きスター達とのエピソードを交えながら、詳細な活動記録とともにまさに「明石家さんまヒストリー」が記されていく。
とそんな「明石家さんま」のヒストリーを読んでいてふと気付く。ここまでのエピソードを拾い、吟味し、積み上げていく労力がいかにとんでもないものかと。一人の芸人の人生にかける過剰に異常な愛情とその熱量のえげつなさ。だがそこには悲壮感はなく、なんともいえない多幸感が溢れている。ラジオやテレビなどで発せられた言葉を丁寧にそのままの形で配置しつつ、平易な言葉で、むしろ淡々と事実を並べているにもかかわらず、もう行間から溢れだしているのだ。「さんちゃん、かっこいい!」が。調べれば調べるほど、知れば知るほど「明石家さんま」という巨星の大きさを知り、輝きを知る。その人生を知れば知るほど、魅了され、好きになっていく。その喜びがもう行間から溢れていて、読者へもまたその喜びが伝播していくのだ。
「明石家さんまヒストリー」の多幸感に浸りつつ、もう一つのヒストリー。筆者である「エムカク」さんのヒストリーに想いを馳せる。
Twitter上に「明石家さんま」に異常に詳しい人物がいると、放送作家にして演芸墓掘り人の異名をとる柳田光司さんや弁護士で俳優の角田龍平さんの間で話題となり、僕もその流れで「エムカク」という不思議な名前のアカウント(@m_kac)をフォローするようになった。さんまさんが出演するテレビなどに合わせて瞬時にどこから拾ってきたんだ!?という画像や関連する過去の発言をTweetするエムカク氏。やがて水道橋博士さんにフックアップされ「メルマ旬報」で連載をスタート。柳田さんや角田さんのポッドキャストに登場、「魅惑の姜尚中Voice(©角田龍平)」で語る明石家さんま話は完全にどうかしていて完全に面白かった!
僕もすっかりエムカクさんの愛情と狂気が入り混じる「明石家さんま」話のファンになった。
2014年1月25日に開催された「メルマ旬報fes」ではサブステージに柳田さん、角田さん、竹内義和先生とともに登壇。そこではじめて動いているエムカクさんを観て、明石家さんまさん題字による「明石家さんまヒストリー」カードを頂いた。
2014年7月1日「明石家さんま59回目の誕生日を勝手に祝う会」、2015年7月1日「明石家さんま60回目の誕生日を勝手に祝う会」にも参加。その徹底したリサーチぶりと過剰で異常な愛情を目の当たりにしてますますファンになっていった。
驚異の連載「明石家さんまヒストリー」は話題を呼び、市井の「明石家さんま」研究家・エムカクさんは「明石家さんま」特番にリサーチャーとして関わるなどアメリカンドリームならぬ「アカシヤンドリーム」を実現させていく。「好き」という気持ちだけに突き動かされた研究は、エムカクさんの人生をもまた動かしていく。
2020年11月22日22時31分、エムカクさんのアカウントから「人生初のさんまさんとのツーショット写真」というハッシュタグと共に単行本『明石家さんまヒストリー1 1955~1981 「明石家さんま」の誕生』を挟んで並ぶエムカクさんと明石家さんまさんのツーショット写真がTweetされた。好きという気持ちの尊さ。我を忘れるほどに何かを好きになって熱中することの尊さ。
稀代の芸人「明石家さんま」を綴った「明石家さんまヒストリー」は稀代の明石家さんま好き「エムカク」さんの「ヒストリー」でもあるのだ。でそんな二人のヒストリー。もちろんこれがゴールではない。
1981年11月21日「オレたちひょうきん族」の「タケちゃんマン」第6話でおたふく風邪で病欠した高田純次に代わり「ブラックデビル」を演じたところまでで「明石家さんまヒストリー1」は終了!
で最終ページにドーンと躍る『明石家さんまヒストリー2 1982~1985 生きてるだけで丸もうけ(仮)」2021年初夏発売予定!の文字。いやいや、次1985年までて! 完全にどうかしてるし完全に面白い!明石家さんまさんと、エムカクさん。二人のヒストリーはまだ始まったばかりなのだ!
(引用ここまで)
ちなみにONO氏は滋賀のFMラジオの局員だ。書評も音楽のように美しく熱く奏でている。そして書評を通して反響は「波」を起こし人を巻き込み、岸にまで届く。
12月25日にエムカクさんは、ONO氏が関わる番組に出演を果たす。まさにクリスマスに「明石家サンタ」の信徒の布教が続くかのように――。
以上。年末、お正月休みの読書にこの一冊を加えない手はないのだ!と老年の主張をして、この年末最後の大プッシュを終了します。
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『明石家さんまヒストリー1 1955~1981 「明石家さんま」の誕生』
エムカク
新潮社公式HPはこちら
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水道橋博士
1962年岡山県生まれ。芸人。ビートたけしに弟子入り後、1987年に玉袋筋太郎と浅草キッドを結成。現在「水道橋博士のメルマ旬報」編集長をつとめる。「BOOKSTAND.TV」(BS12 金曜深夜)に出演中。著書に『アサ秘ジャーナル』(新潮社)、『藝人春秋』『藝人春秋2 ハカセより愛をこめて』『藝人春秋3 死ぬのは奴らだ』(文春文庫)ほか多数。
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はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう――。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか――手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
「考える人」編集長
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