考える人

シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。
知の楽しみにあふれたWebマガジン。
 
 

「反東大」の思想史

2019年12月27日 「反東大」の思想史

第17回 脱「帝大の下」、一橋大学の自意識のゆくえ

著者: 尾原宏之

東大と一橋

 数年前、ある安酒場で一流保険会社のOBと偶然隣り合わせになった。その人は、名門私立中高一貫校からストレートで東大法学部に進み、安田講堂攻防戦の時には4年生で就職が決まっていたという。少年時代から多数のエリート(と予備軍)に接してきたその人は、学歴と人間性との関係について一家言あるようで、さまざまな大学の出身者を独自の基準でバタバタと切っていた。
 その話のなかで驚いたのは、一橋大学に対する評価の異常な低さであった。彼は、一流大学といわれている大学の出身者のうち一橋出身者が最も悪辣で、職場などでライバルを罠にかけるような策動をする、という。
 見たことも聞いたこともない評価なので驚いて根拠を尋ねたところ、彼は自信たっぷりにこう答えた。「一橋に行ったってことは、東大受験から逃げたってことだからね」。
 それに反して、早稲田と慶應の上位学部に対する彼の評価は不当なまでに高かった。ガッツがある、チームワークがある、アイディアマンである……などなど。再び根拠を尋ねたところ、こう答えた。「あいつら(早慶上位学部卒業生)は東大受験から逃げなかったから。たった数点差で東大に落ちた奴もいるだろうし」。
 要するに、こういうストーリーである。早慶の学生は、本当は東大に行きたかった(に決まっている)。だから国立大受験では東大に挑戦し、落ちてやむなく早慶に進学した(はずである)。だから、勝負から逃げないガッツがある。それだけでなく、そのなかにはわずか数点差で不合格になった、学力的に東大生とさほど変わらない者もいる(はずである)。
 一方、一橋を受験したということは、本当は東大に行きたいにもかかわらず、勝負から逃げたことを意味する。最初から諦めているので、気力・学力において早慶に(さえ)劣る。
 彼の話がまずおかしいのは、早慶専願者(私大専願者)の存在を完全に無視していることである。 同級生の多くが東大に進学する名門中高出身の彼の仲間には、数点差で東大に落ち、浪人したくないので早慶に進学した者もいただろう。だが、それはさほど一般的な事例とはいえない。普通に考えて、一橋が気力・学力で早慶に劣るなどということはありえない。職場での彼の個人的な体験(一橋出身者と出世レースを戦った、早慶出身者が自分にとって脅威にならなかった、など)が投影された、東大法学部卒の酔っ払いの戯言にすぎないと思われる。

現在の一橋大学兼松講堂(Wiiii/Wikimedia Commons)

東大と東京の大学群

 その一方で、この与太話から気づかされることもある。それは、東大と一橋という、どちらも超一流である両校の関係や相互認識は、圧倒的多数の部外者にはまるで想像できない、ということである。一橋の側が東大に一目を置いているだろうということは、なんとなく推測できるが、相互に対抗心をむき出しにしているようにも見えないし、かといって完全に無関心であるようにも見えない。
 東大は総合大学、一橋は文系のみであるが、重複する学部・学科も多い。東大の経済学部には経済学科・経営学科(旧商業学科)・金融学科があり、一橋には商学部があり経済学部がある。法学部も両方にある。さまざまな学問分野を包摂する学部として東大には教養学部が、一橋には社会学部がある。
 同じ東京にある国立大学に、同じような名前の学部・学科が複数開設されている、ということである。 「二重行政」を批判して大阪府立大学と大阪市立大学を統合する「大阪維新の会」的な目線で見れば、「無駄」といえないこともない。東京工業大学と東大工学部にしても、そうである。
 実のところ、東大や一橋に関する「二重行政」的な批判は歴史的に繰り返されてきた。たとえば1923(大正12)年の関東大震災後、一橋大学の前身である東京商科大学教授福田徳三は「極端に云へば(私は極端とは思はないが)高工を昇格して帝大工学部と合併し、商大を帝大の一学部とし、高師が昇格す可きものなら之を帝大文理科に合併するとすれば帝大を郊外の地に移し、理想的の総合大学を作ることは、左までの難事ではあるまい。神戸高商も即日昇格して京大の一学部とするに何の不都合も見出し得ない。元より各校其れ其れ歴史あり伝統あるに相違ないが、其んなことを云つて居れば、結局は一切万事復旧の悪経済に堕して仕舞ふ外はない」と説いた(文中の「高工」とは東京高等工業学校のち東工大を、「高師」とは東京高等師範学校のち東京教育大を指す。「復興経済の第一原理」『改造』1923年11月号)。

福田徳三(1874~1930)

 つまり、いまの大学名でいうならば、東大と一橋大、東工大、筑波大を合併して一校にまとめ、より強力な「理想的の総合大学」を作るべきだ、というのである。
いうまでもなく、一橋、東工、筑波は、それぞれ東大とは別個に一流の名をほしいままにしている国立大学であり、福田がそう指摘するように、それぞれ独自の歴史と伝統を持っている。
 そして、明治以来積み重ねてきたそれらの「歴史」と「伝統」をちょっとみただけで、すぐに気づくことがある。これらの学校は、東大への対抗意識のなかで自己を形成してきた、ということである。それらの前身、または源流にある東京高商、東京高工、東京高師という学校はいずれも官立の専門学校や師範学校で、学校体系の頂点に君臨する帝国大学である東大とは本来比較にならない。そもそも学校の種類が違うからである。ところが、これらの学校は東大の下風に立ちたがらず、むしろ東大に強い対抗意識を持ち、東大をベンチマーキングすることで躍進した。つまり、お膝元の帝都東京と官立学校群という東大の「金城湯池」のなかにこそ、東大を脅かす強敵がいたことになる。

商業教育への逆風

 一橋大学に関する記録や教育学分野における研究を見ると、戦前におけるこの大学の前身校は、東大に対してなみなみならぬ対抗心を燃やしていたことがわかる。
 一橋のルーツは、1875(明治8)年9月、当時外務官僚だった森有礼が銀座尾張町の鯛味噌屋の二階を借りて設立した「商法講習所」にさかのぼる。米国代理公使在任中、商業教育の重要性を痛感した森は、文部省に国立商業学校の設立を提起した。ところがこれは受け入れられず、やむなく東京府の共有金を使って私設の商業学校を開くことにした。当初の科目は、簿記、英習字、英会話、和洋の算術などで、アメリカで商業学校校長をしていたウィリアム・ホイットニーを招いて授業にあたらせたという(『一橋大学百二十年史』)。

ウィリアム・ホイットニー(1825-1882)

 ところが、設立まもない同年11月、創立者の森が駐清公使として北京に赴任することになった。商法講習所は、「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一が頭取を務める東京会議所に委ねられ、その後すぐに東京府に移管されてしまう。1884(明治17)年には、農商務省に移管され、東京商業学校に改称された。
 この時期、各地にさまざまな商業学校ができつつあった。農商務省に対抗して文部省が商業教育に乗り出し、東京外国語学校にも附属の高等商業学校が設置された。駐英公使に転じていた森は1884年に帰国し、官立の商業学校が並立している事態を不都合と考えたらしい。翌年、東京商業学校を農商務省から文部省に移管し、東京外国語学校・同附属の高等商業学校との合併を実行する。合併後の新しい学校は神田一ツ橋の旧東京外国語学校校舎に置かれ、校長には東京商業学校校長の矢野二郎、監督には森有礼が就任した。校名にはもとの「東京商業学校」が採用されている(同上)。

矢野二郎(1845-1906)

 創立からこのころまでの商業学校は、多難であった。まず福澤諭吉が批判した、日本社会の「官尊民卑」「士尊民卑」の気風が強い逆風として存在した(第3回)。若者たちは官員になって政府に出仕することを熱望し、民間の商工業を軽蔑した。『一橋五十年史』も、当時の世相を「一般世人は未だ商の真意を解さず、才を負ふて学を修めんとする者の多くが、世の風潮に魅せられ、治国平天下を夢みて大学予備門に蝟集し、次て政界に飛躍せんと志すの状態であつた」と嘆いている。
 また、商業教育に対する冷ややかな目線もあった。文部省は、森有礼が国立商業学校の設立を提起しても受け入れなかった。「商業に特殊の教育を要する事なし」という考えが根強く、商法講習所ですら「学問したからとて固苦しい世辞のない人物となる事は商人には禁物」と説かれていた。生徒も旧態依然たる「商人風」の者が多かった。彼らは「大家の若旦那、或はお店もの然と唐桟の着物に、縞の羽織を着流しに、前垂れがけのこしらへ」の風体で、丁稚に弁当を持たせて通学してくる者もいた(『一橋五十年史』)。

商業学校の東大コンプレックス

 東京外国語学校と合併した当時の東京商業学校の生徒に、廣田弘毅内閣で文部大臣を務めた平生釟三郎がいる。平生の伝記には、当時の生徒たちの気風を物語る興味深い記述がある。
 「当時の商業学校の生徒は、特に木挽町(旧東京商業学校)から来た連中は、概ね町人の子弟であつたから、その気風も服装も軟弱で、所謂商人風で、他の学校特に大学やその予備門の学生に対しては自ら卑下して、途中で逢うと、商の字の校章を付した制帽を脱いで小脇にかくして通り過ぎるという有様であつた」(河合哲雄『平生釟三郎』)
 東京大学や第一高等学校の前身である大学予備門の生徒に会うと、自分の通っている学校が恥ずかしくなり、萎縮して制帽を脱いだというのである。
 この時期の東京商業学校の気風は、一高と慶應の中間といったところだった。『一橋五十年史』は、「世間一般からは此の頃の一橋の学生風は一高と慶應の中間に位する程に見られて居た」という。
 草創期の商法講習所の時代から、教育程度に関しては慶應より上という自意識はあったかもしれない。「当時既に芝三田に福澤諭吉の慶應義塾あり、授業の一部に経済学を置いてゐたが、教師自らがウヰランド経済書所載のビル、チエツク等の言葉を解し得ざる有様であつた所へ、専門家の教師(ホイットニー)を擁して商法講習所の出来た事であるから、商業によつて身を立てようとの真摯な目的を有する者は義塾を退いて同所に入学する程であつた」(『一橋五十年史』)。
 慶應義塾では、教科書として使われたフランシス・ウェーランドの著作に紙幣(bill)、小切手(check)といった初歩的な単語が出てきても、教師が翻訳できなかったという。これは先輩塾生が後輩を教える「半学半教」という慶應義塾の教育システム上ありうることかもしれないが、アメリカの商業学校の教師に直接教わることのできる商法講習所に魅力を感じる若者が出てきても不思議ではないだろう。実際に慶應義塾を辞めて商法講習所第一期生となった人物に、のち東京高商教頭、大阪商業学校校長を務め、実業界でも活躍した成瀬隆蔵がいる。

東大への対抗心の発生

 時がたつにつれ、生徒の間には、商業学校に対する愛校心とともに「帝大の下」と見られることに対する憤りが徐々にわきあがってきた。その変化は、1887(明治20)年に「高等商業学校」と改称されたあたりからはじまった。
 「東京商業学校が高等商業学校に昇格すると、学生の間にも高等専門学校の学生という自覚が生れて、気分も軒昂し曩には商の字の校章を恥じた連中も、今や新しいマーキュリーの徽章をもつて他に誇るに至り、商人風は漸次すたれて蛮殻組の学生風が、一ツ橋の風格をなすようになり、富国強兵、商権回復が学生の追及すべき目標になつた」(『平生釟三郎』)
 1889(明治22)年には、次のような事件があった。青山練兵場で観兵式が行われた際、文部省直轄学校の生徒が宮城前に整列し、明治天皇を奉送迎して各校代表者が君が代を歌うことになった。ところが、東京高商の生徒は自分たちの席次が帝大・一高(当時は第一高等中学校)の後であることに激昂し、「大学予備校」の後につくことはできないと、離脱して桜田門外で勝手に奉送迎しようとした。結局、文部省が折れて一高と向き合う形に席を改めたそうである。翌年にも宮城拝観の際に東京高商の生徒が帝大の学生を出し抜いて先に入城する事件が発生した(『一橋五十年史』)。
 東大に対してコンプレックスを抱き校章を隠していた時代とは、大きな違いがある。東京高商の東大に対する対抗心は、この後も燃え続けた。この対抗心――場合によって優越感――が、やがて東京高等商業学校という学校に、ほかには見られない特徴を植えつけていくことになる。

この記事をシェアする

MAIL MAGAZINE

9

20

(Fri)

今週のメルマガ

初公開! 天童荒太さんの創作の舞台裏(No.785)

  2018.9.20配信 HTMLメールを表示出来ない方は こちら 9月20日更新第2回 徴兵令に […]

「考える人」から生まれた本

もっとみる

テーマ

  • くらし
  • たべる
  • ことば
  • 自然
  • まなぶ
  • 仕事
  • 思い出すこと
  • からだ
  • こころ
  • 世の中のうごき

考える人とはとは

何かについて考え、それが「わかる」とはどういうことでしょうか。

「わかる」のが当然だった時代は終わり、平成も終わり、現在は「わからない」が当然な時代です。わからないことを前提として、自分なりの考え方を模索するしかありません。

わかるとは、いわば自分の外側にあるものを、自分の尺度に照らして新しく再構成していくこと。

"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)*を編集理念に、Webメディア「考える人」は、わかりたい読者に向けて、知の楽しみにあふれたコンテンツをお届けします。

*産業革命後に急速な都市化が進むロンドンで、イギリスの詩人ワーズワースが書き遺した言葉。

 

 

「考える人」編集長
松村 正樹

著者プロフィール

尾原宏之

甲南大学法学部准教授。1973年生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。日本放送協会(NHK)勤務を経て、東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程単位取得退学。博士(政治学)。専門は日本政治思想史。著書に『大正大震災ー忘却された断層』、『軍事と公論―明治元老院の政治思想』、『娯楽番組を創った男―丸山鐵雄と〈サラリーマン表現者〉の誕生』など。 (Photo by Newsweek日本版)

連載一覧

  • 津野海太郎「最後の読書」読売文学賞受賞


ランキング