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「反東大」の思想史

2020年3月31日 「反東大」の思想史

第20回 東大を激怒させた京大の「変態的快感」

著者: 尾原宏之

「大学間の競争」  

 京都帝国大学が東大とは違う新しい帝国大学を創造する試みであったことは、これまでも指摘されてきた。たとえば教育分野についてみてみると、京大の草創期、1907(明治40)年ごろまでの法科大学教育は、東大の詰め込み型に対抗してドイツ・モデルを手本にした「自由討究」型教育を志向したことが知られている。ゼミナール、卒業論文の導入、学生が自由に渉猟し書物を借り出せる図書館の整備などが代表例である。

現在の京都大学附属図書館(桂鷺淵/ Wikipedia Commons)

 学生が大学図書館の本を自由に借り出して読む、ということは、決して当たり前の行為ではなかった。東大図書館は閉架式で、学生は書庫に入ることもできなければ本を借りることも基本的にはできなかったからである(潮木守一『京都帝国大学の挑戦』)。東大の総合図書館が試験的に学生への館外貸出を始めるのは1962(昭和37)年のことである(『東京大学百年史』)。
 また東大法科の場合、年に一度の学年試験において、所定の科目すべてに合格しなければ進級できない建前になっていた。数多くの科目でノート丸暗記式の勉強が必要になり、原典を読みふけっている暇などない。第15回で触れたように、図書館に入ったことがない東大法科最優等の学生が戯画化される始末だったのである。京大法科の場合は各科目の試験と論文試験であり、ゼミや論文執筆のための自由な研究が奨励された。1903(明治36)年からは学生の負担を軽減するために修学年限を3年に短縮し、4年制を維持する東大法科に対抗した(『京都大学百年史』)。
 明治40年を境として京大法科は変質し、東大型に接近していったとされる。法科の学生が第一に目指すべき文官高等試験の合格実績が振るわず、存在価値に疑問を持たれ、批判の目が集まったことが大きな原因として指摘されている(『京都帝国大学の挑戦』)。修学年限も東大法科にならって4年に改められることとなった。
 しばらく経って、今度は京大の研究面に強い不満を持つ人物があらわれた。文部次官や東北帝国大学の総長を務め、1913(大正2)年に京都帝国大学総長に就任した澤柳政太郎(第12回第15回参照)である。澤柳は、1915(大正4)年に刊行された著書『随感随想』のなかで、京大が学術領域における東大のライバル校として意図的に設立されたことを強調した。
 「(明治25〜6年ごろは)学生収容の関係から云へば一つの東京帝国大学を以て不足を感じなかつた。しかし関西に一の大学を設けて東西相競はしめ以て学問の進歩を促さんとの議が成立し、日清戦争の後即ち明治二十九年を以て現在の京都帝国大学が設置されることになつた。実に京都大学は東京と相対立して以て学問上の競争をなさしめんとの趣意を以て設立されたのであつた」(「大学間の競争」)
 明治中期は高等教育に進む者が少なかったので、大学は東大だけで間に合っていた。しかし東大が「天下を我が物に」している状態では、日本の学問は進歩しない。ライバルを作って競わせる必要がある。それこそが京大の役割だというのである。
 ところが澤柳には、東大の現状と京大の現状、いずれもまったくだらしないものにみえた。
 「東京大学は地方の大学を軽蔑して我が好敵手となすに足らずと考ふる有様であり、地方大学は東京大学の尊大自ら居るを嗤ひ、其の何等学問上に於て先進者たるの実を挙げざるを嘲つて居る。互に競争して学問上の新研究を遂げ以て学界に貢献せんとする意気込がない」(同上)
 とくに京大について、「京都大学を設けた趣旨は、今日に至るまで一向に貫徹されない」という不満を持つ澤柳は、この本が出る少し前に京大総長を辞任していた。京大を立派な大学にしようと「改革」に勤しんだ結果、学内で猛烈な抗議運動が巻き起こり、最終的に職を追われる事態となったのである。いわゆる「澤柳事件」がこれで、日本の大学に「自治」の慣行が確立する画期とされている。事件についてはいずれ触れることになるが、京大は、少なくとも大学自治に関しては日本のトップランナーの地位に立つことになった。

東大と京大の友愛

 澤柳は、東大と京大の競争を原動力として日本の学問を進歩させようとしたが、その後、両大学間の競争はさまざまな分野に広がり、活発化していった。スポーツや文化活動における学生間の競争も、その一例である。
 澤柳が京大総長の職を失ってから10年後の1924(大正13)年、東西の帝国大学あげての交流行事である「東西両大学運動週間」が始まった。名前が示すとおりスポーツを中核とする行事で、秋に設定された「運動週間」(「スポーツウイーク」)に、両帝大運動部の対抗試合を一挙に開催する大イベントである。以前から各部単体の対抗試合はあったが、柔道、剣道、弓術、陸上競技、テニス、野球などの試合を一大会で実施するのは、はじめての試みだった。第2回目からは馬術、水泳、サッカーなども加わった(谷本宗生「東西両帝国大学対抗運動週間の実施について」)。
 東大の『帝国大学新聞』(1924年10月24日)は、これを「我運動界未曾有の企」と自画自賛した。東大と京大が交互にホストを務めることになっており、第1回は10月24日から3日間、京都で開催された。
 この大イベントは、「東西学友会連合大会」とも呼ばれた。両大学の「学友会」は、沿革や規約に違いはあるものの、文化系団体を含む全学組織である。運動部の対抗試合だけではなく、弁論部による合同演説会、音楽部による合同演奏会も開かれた。まさに文武両面にわたる東西帝国大学の対抗戦といえる。
 もちろん、両大学の学生が入り混じり、酒を酌み交わす宴会も盛大に催された。『帝国大学新聞』、京大の『京都帝国大学新聞』両紙とも、力量を認め好敵手に対する尊敬と熱い親愛の情を十二分に表現しつつ、力を入れてこれらの模様を報じている。そもそも『京都帝国大学新聞』は、この「運動週間」を機に創刊された新聞であった(『京都大学新聞縮刷版』)。
 両校の友愛を象徴するのが、東大の古在由直総長、京大の荒木寅三郎総長の親密な関係である。東京開催の第2回(1925年)に際しては、『帝国大学新聞』(10月15日)が「(古在とは)昔から親密の間柄での、常々教へをこふてゐる」という荒木の談話や仲睦まじいふたりの様子を紹介し、『京都帝国大学新聞』(10月22日)も「荒木君と余との交りのそれの如く諸君も親密であつて欲しい」と両大学の和合を呼びかける古在の談話を大きく掲載した。

古在由直(1864-1934)
荒木寅三郎(1866-1942)

 かつて澤柳政太郎は、著書『随感随想』のなかで「地方の大学」(その筆頭が京大)を見下して軽蔑しきっている東大や、東大を嘲笑する京大などを批判した(「大学間の競争」)。それからおよそ10年、両大学の間には睦み合い、また競い合う関係が構築されたかにみえるほどである。

亀裂

 ところが、「運動週間」によってさらに強固になるはずだった両大学の関係に、すぐヒビが入った。そのきっかけは、1925(大正14)年に東京で開催された第2回「運動週間」のオープニングイベント、東大弁論部と京大講演部の合同演説会である。その様子を『帝国大学新聞』と『京都帝国大学新聞』の記事から再現してみよう。
 合同演説会は、「運動週間」初日の10月16日午後6時に始まる予定であった。会場はこの年落成したばかりの東大安田講堂で、講壇の両側には「ロイドジヨーヂ、ウイルソン、クレマンソー 東法 掛札弘君」などの演題が掲げられていたという。演者は、東大生3名と京大生が2名、最後に京大法学部教授で講演部長の宮本英雄(のち、瀧川事件の際の法学部長)が「自己に帰りて」という演説を行って閉会となるはずであった。
 安田講堂には800名の聴衆が集まったが、開会時刻になってもいっこうに演説会は始まらない。30分がすぎ、1時間がすぎ、聴衆が開会をうながす拍手を打ち鳴らし、声高に不満を叫んでも、始まらなかった。
 結局、合同演説会は中止になった。京大講演部が出演を拒否したからである。
 開会時刻から約2時間が経過した7時50分ごろ、古在総長、東大教授、学友会中央部委員、東大弁論部、京大講演部の面々が姿をあらわし、一度は開会が宣言された。だが2時間近く待たされた聴衆は激昂し、開会が遅れに遅れた理由の説明を強く求めた。釈明に立った東大弁論部員は、弁論部長の野村淳治法学部教授が突然部長の職を辞したことや、京大講演部との間に連絡ミスがあったことが遅延の原因だと明かし、謝罪した。ところが、これを聞いた京大講演部員が登壇して東大側の説明と謝罪に強い不満を表明する。殺気立つ気配に聴衆は興奮、勝手に登壇して発言する者も出てきた。会場は混乱に陥り、結局午後9時ごろ京大講演部は出演拒絶を宣言して安田講堂から退場した。演説会は中止に追い込まれたのである。

東大のケアレス・ミス

 東大と京大のいさかいは、実にささいな行き違いから始まった。学生だけのチームで演説会に出演するのか、教授を入れたチームで出演するのか、連絡ミスがあったのである。
 京大側は、東大側との打ち合わせで決まった学生2名+教授1名のチーム編成で上京した。一方、東大側は、当初京大側が学生3名のチームを希望していたのでそれに合わせることとし、電報でその旨を京大側に通知して、学生3名のチームを編成して待っていた。
 ところが、電報が届いたのは京大側が出発した後だった。学生3名の東大チームと学生2名+教授1名の京大チームが弁論を争うことになり、釣り合いのとれないマッチアップになってしまったのである。
 東海道をまたぐ伝言ゲームに失敗しただけの話なので、普通なら笑い話で済みそうである。しかも、東大側は京大側の希望人数に合わせるため、当初出演予定だった穂積重遠東大教授に陳謝してとりやめてもらっている。相手に対する善意から生まれた齟齬だったとさえいえる。

穂積重遠(1883-1951)

 加えて、予定されていた演説会のプログラムでは、東大と京大の学生が交互に演説をおこない、トリを宮本英雄京大教授が務める形になっている。京大側にも十分に敬意を払った、妥当な措置にみえる。なぜこれが京大側の怒りを買い、出演拒絶、退場につながるのかよくわからない。
 だが京大側にとって、これこそがメンツにかかわる重大問題であった。東大弁論部の報告「合同講演会中止顛末」(『帝国大学新聞』11月2日)によれば、トラブルは次のような過程で拡大していく。
 まず、京大講演部の学生がなにも知らないまま上京してきた。すぐ話し合いになり、東大チームは学生3名、京大チームは学生2名+教授1名のままで演説会を開くことで合意した。いまさらどうにもならないので、冷静な対応といえる。
 だが、演説会前日の15日夜に講演部長の宮本英雄教授が上京し、事態が一変する。宮本は「東大側より教授が出演されぬなら自分一人出るわけにはゆかぬ」と出演を拒絶したのである。
 宮本の意向を聞くや、京大の学生の態度は豹変した。部長が出ないのに自分たちが出るわけにはいかないと、断固出演拒絶に方針転換してしまった。
 困ったのは東大側である。演説会を成立させるには、なんとしても東大の教授を引きずり出すしかない。穂積はすでに予定が埋まっているので、次は野村淳治弁論部長の出番ということになる。ところが不幸は重なるもので、野村部長はちょうどこの日に安田講堂の使用をめぐって古在総長と対立、辞意を表明したばかりであった(加藤諭「戦前・戦時期における東京帝国大学の安田講堂利用と式典催事」)。
 あらゆる譲歩を覚悟した東大弁論部は、開会時刻の1時間前、最後の交渉に臨んだ。すると京大側は、「陳謝」をすれば再考してもよいという。東大側は即座に謝罪、それを受けて京大側は長い協議に入った。
 その結果、京大側は次のふたつの条件で学生だけ出演することを承諾した。ひとつ目の条件は、すでに開会時刻をオーバーしているので、その理由を聴衆に釈明すること。ふたつ目は、聴衆の眼前で東大側が京大側に謝罪すること、であった。
 東大側はこれも丸呑みし、大幅に遅れたもののなんとか開会にこぎつけた。だが前述の通り事態は紛糾し、京大側は壇上で強い不満を表明、最終的には出演を拒絶して退場してしまう。『京都帝国大学新聞』(10月22日)によれば、東大側の「陳謝」が徹底していないこと、開会が遅れた責任を古在総長に押しつけようとする態度がみられたことなどが理由だという。つまり、京大側は東大側に対してしつこく何度も謝罪を要求し、公開の場で謝罪したら今度は態度が悪いと責め立て、最後は怒って立ち去ってしまったことになる。

「競技」としての演説

 京大側がこだわっていたものはなんだろうか。宮本は、東大が教授を出さないのに京大だけが出すことを拒絶した。壇上で東大側を批判した京大講演部員は、「かくの如き不平等の条件の下に演説会に出づることは到底京大側の肯ぢ得ざる所なり」と吠えた。のちに『京都帝国大学新聞』は「演説会は両大学に於て条件を同一にすべきもの」という講演部の主張を紹介した。つまり京大側は、演説という「競技」において、まったく同じ条件で東大と戦うことを求めたことになる。
 教授宮本+学生2名の京大VS学生3名の東大では、明らかに京大のほうが有利である。東大から舐められ、ハンデを与えられたようにさえ映る。学生だけなら学生だけで戦うべきだし、宮本が出るなら東大も穂積重遠その他を出すべきだ。京大側はそういいたかったのだろう。
 京大側は合同演説会の「本質的目的」に強くこだわった。彼らにとっての「本質的目的」ははっきりしている。合同演説会とは、スポーツ競技と同じように東大と京大が優劣を競う学校同士の対抗戦だということである。格下あつかいされること、ハンデを与えられる(ようにみえる)ことが屈辱だからこそ、京大側は執拗に謝罪を要求したのだと思われる。

京大の「変態的快感」

 やがて事態は沈静化に向かった。東大側が、連絡の行き違いや古在総長と野村部長の対立などについて京大側に丁寧に説明し、理解を得ることに成功したからである。演説会が中止になったことを陳謝する東大学友会中央部の声明文が16日付で発表され、17日には「完全なる問題の解決」と「将来の友誼」を謳う京大講演部の声明文が、18日には東大弁論部による同様の声明文が発表された。一件落着にみえた。『京都帝国大学新聞』(10月22日)は「経過がわかつて見れば何でもなくステートメントを出して円満解決」「双方から声明文発表で無事解決」という脳天気な文句を見出しに掲げた。
 だが、そのような後味のよい結末にはならなかった。円満に解決したと思っていたのは(あるいは、そう思い込みたかったのは)京大側だけだったかもしれない。
 すでにみたように、東大側はたんに連絡ミスを犯したにすぎなかったのだが、ホストとしての責任から京大側にひたすら平身低頭した。それに対して、京大側は執拗に謝罪を求め、公開の場で居丈高に責め立て、最後は会そのものを潰した。親しい関係や尊敬し合う関係においては、まず見られない現象である。そして、東大側が内心きわめて強い不快感を抱いたことも、想像にかたくない。
 そのことが露見するのは早かった。『帝国大学新聞』(11月2日)の論説「京大講演部の反省を促がす」は、全文に強烈な怒りが満ちている。
 この論説は、演説会中止の責任は当然東大弁論部や学友会中央部にあることを確認した上で、京大側の態度が「相手の弱味」につけこんで「変態的快感」を得ようとするものだったことを糾弾する。 京大側が宮本教授の意向によって出演拒絶に急転換したことについては、「雅量と理解力に於て惜しい哉無能力者に近かつた一団」の「盲目的なる殉死」と激烈な表現を使用した。聴衆を前にしての謝罪要求に関しては、いわれなくても東大側は謝罪するに決まっており、しつこく強要する京大側の「常に高圧的なる嬌慢の態度」は、「彼等の学生たるや否やを疑はしめるに十分」とまで断じた。
 また論説は、京大側がこだわった(合同演説会の)「本質的目的」という言葉に強く反応した。すでに触れたように、京大側は演説会を学校同士の(負けられない)対抗戦と捉えている。この論説は、京大側のその発想が問題であることを指摘する。
 「合同講演会は決して競技会ではなく、その覗ふ効果も他の競技と大いに異つてゐる」
 演説会は、ほかのスポーツ競技とは違い、団体の勝ち負けを争うようなものではない。ところが京大側は東大に対する「誤つた敵愾心」に突き動かされ、常軌を逸した行動を繰り返した。平身低頭する東大側を強く踏みつけにすることで「変態的快感」を得るようにさえなってしまった。『帝国大学新聞』が分析する京大側の心理は、このようなものであった。

「ライバル」の心理分析

 襲いかかってくる「ライバル」の心理分析として、なかなか穿ったところがある。京大は、文官高等試験の成績という面では、まず東大に追いつくことはない。大正期の高等学校の大増設により京大志願者は増え、たとえば法学部でもたびたび定員を超過するようになったが、それでも東大一極集中のすさまじさの前ではかすむレベルだった。学術面での京大は揺るぎない評価を得ていたものの、東大との競争が目にみえるわけではなかった。
 そんななかで、全学あげての東大との対抗戦がやってきた。少なくとも学生にとっては、スポーツと文化活動を包含する、知力・体力・気力の「総力戦」である。京大講演部は、先鋒として生身の東大生と直接対峙する機会を得た。そのときの興奮は、なんとなく理解できる。そして、東大側は京大側の興奮と殺気を、肌で感じとった。
 京大は、実業界に勢力を持つ慶應義塾、大衆と門戸開放の早稲田、商業教育の一橋など既存の東大の敵とは違い、同じように旧制高校で高等普通教育を学んだトップエリートが集う帝国大学である。
 東大生にとって、「高圧的なる嬌慢の態度」であしらわれ、「変態的快感」の道具にされるなど、めったにない経験だろう。『帝国大学新聞』論説は、そういう扱いを受けてしまった驚きを率直に表現している。

「運動週間」の終焉

 「東西両大学運動週間」は、長く続かなかった。東大側が廃止を提言したのである。第3回の京都開催を終えた7ヶ月後の1927(昭和2)年5月、東大学友会臨時常務委員会は同イベントの廃止を決議し、京大学友会にその旨を伝えた。予算不足、本来のシーズンではない競技を無理にまとめることへの批判、両大学の学生監が「弊害」を認めていることなどが理由だという。サッカー部(ア式蹴球部)などではすでに離脱を決議していた。今後は、両校運動部の対抗試合を個別に実施することになった。
 問題は、京大側がこのイベントに強い愛着を抱いていることであった。
 「京大は全学を挙げてこのスポーツウイークなるものを、年中行事中もつとも有意義なものとして期待してる故、今秋は東都において花々しく第四回運動週間の挙行されん事の希望をもたらして居る」(『帝国大学新聞』1927年5月23・30日)
 その見立てどおり、廃止の意向を聞いた京大側は強く抵抗した。京大学友会では、このイベントを長く存続させたいこと、ちょうど大正から昭和の替わり目なので、大正天皇崩御を理由に1年の休止を可とすることなどが決議されたが、しょせん相手あっての話である。結局は廃止となった。『京都帝国大学新聞』(7月1日)は次のように恨み節を吐露している。
 「所謂運動週間が廃止さるゝの止むなきにいたりし顛末についてはその責任が東大側に在るやうに思はれる。京大に於て非常な犠牲的精神と妥協的態度とを以て本大会を存続せんと希望し努力したるにも拘らず東大側に誠意のないためにかゝる結果を招致したる実情に関し吾等は東大の為に惜むのみならず我国運動史上一大恨事となす者である」
 両帝国大学のマッチアップは、頂点に君臨する東大にとってよりも、京大にとってみずからの位置を確認し、闘志を奮い立たせる得がたい機会だったのかもしれない。昭和が本格的に始まったこの年、両大学の総合的な交流行事はその短い使命を終えた。そしてそれは、京大にとって栄光と苦悩に満ちた新時代の幕開けを意味していた。

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

尾原宏之

甲南大学法学部准教授。1973年生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。日本放送協会(NHK)勤務を経て、東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程単位取得退学。博士(政治学)。専門は日本政治思想史。著書に『大正大震災ー忘却された断層』、『軍事と公論―明治元老院の政治思想』、『娯楽番組を創った男―丸山鐵雄と〈サラリーマン表現者〉の誕生』など。 (Photo by Newsweek日本版)

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