シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。
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にがにが日記―人生はにがいのだ。

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3月18日(水)

 いろんなひとと飲んでるといろんな話を聞けてとてもおもしろい。
 先日『ヤンキーと地元』という素晴らしいエスノグラフィを出版した社会学者の打越正行は中学生のころ、小説を書こうと思って書いてみたことがあるらしい。
 タイトルは、
 『混浴露天風呂殺人事件』
 だったそうだ。本人によると、西村京太郎を読んでその真似をしてみたということだ。
 混浴で露天風呂。
 中学生っぽいな
 あと、こないだ立岩真也と飲んでて聞いた話なんだけど、中学生のときに佐渡島の「(おん)()()()」にスカウトされたらしい。
 すみません本人に許可を得ずに書いてます。
 こういう話が好きだ。
 あと、「ボブ・マーレーを生で見たことがある」と言っていた。
 なんかこういう話が大好き。
 鬼太鼓座で太鼓を叩いている立岩真也を想像すると楽しい。
 ちなみに立岩さん、自宅から立命館の衣笠キャンパスまで自転車で通勤しておられるのだが、そのスピードがめっっちゃ速い。
 いちどだけ、正門のなか卯とファミマのあたりで見たことがある。
 チャリを漕ぐ音がドップラー効果になるぐらい速かった。
 と言うと、いつも「おおげさに言っている。そんなに速くない」と反論してくる。
 いや、めっちゃ速かったです。
 勝手に書いてますけども。
 というわけで、にがにがの担当さんからそろそろ、と言われ、にがにがを書こうと思って、書いている。もはや日付の意味もなんにもないけど。
 ひとつでええんちゃうか。ぜんぶ1日分。
 おはぎが陽に当たっている。南向きの窓辺にソファを置いているのだ。おさい先生はいま目の前で風邪のために出張を休みますというメールを書いている。
 きのう、ギターの友だちが家に来て、さんざんビールと白ワイン飲みながらふたりでセッションした。とても楽しかったよ。歌も歌ったよ。クラムボンはコルコバードを弾いたよ。
 そのときおさいが作ってくれた食事の残りで朝昼ごはんを食べている。おいしい。
 きょうは昼から風呂に入ろうと思ってお湯をためて、そのままほったらかしにしてる。冷めたらもったいないのでそろそろ入らないと。
 ここ数日ずっと雨だったんだけど、きょうはとても、とてもいい天気だ。あと死ぬまでどれくらい、こんないい天気の日があるかなあと思う。今年も暖冬だけど今日はちょっと寒いね。雨が降るまえの日は季節外れに暖かかった。季節外れに暖かい冬の日は、その次の日に必ず雨が降る。そして雨が止むと、寒くなる。その通りになった。
 ガスストーブのしゅんしゅんと静かに燃える音だけが聞こえる。そして俺がこれを書いているタイピングの音。たまにおはぎのいびきも聞こえる。今日はどこも出かけたくないなあ。家で仕事しなきゃ。やらなきゃいけないことが山積み。でもこの「やらなきゃいけないことが山積み」の状態って、いつまで続くんだろうね。一生続くんだろう。
 はやく定年退職したい。
 たまに定年退職するとき「最終講義」みたいなことをやるひとがいるけど、あの意味がよくわかんない。ふつうにいつもどおりゼミやって、おつかれーとか言って、そのまま家に帰りたい。そして、ああそういえば今日が俺の最後の授業やったんやなと思いたい。
 どうせ死ぬまで本を書くんだから、その程度でよい。
 なんかもう、毎日まいにち意味のわからん仕事をしてて、これほんとになんか意味があるんかと思う。
 意味があるのではないか。
 カンフーに強くなったりして。
 毎日書類を書かされている。白髪のヒゲの師匠にキレる。「お師匠さん! こんなエクセルばっかり毎日書いて、これが何の役にたつんだよう!」
 「ふふふふ。これはどうじゃな?」
 ばしっ。がっっっ
 「はっっ!」
 強くなっている。
 そんなことはない。
 いつも思うんだけど、師匠のところで修行してると思ってたら、ほんとうに掃除をさせられていただけだったりしないだろうか。
 「お師匠さん! こんな雑巾掛けばっかり毎日して、これが何の役にたつんだよう!」
 「ふふふふ。これはどうじゃな? ほら、これで窓を拭いてみろ」
 「はっ! 毎日床の雑巾掛けをしたおかげで、窓拭きも上手くなってる…!」
 掃除が上手くなってるだけである。
 敵のチンピラ集団が殴り込みに来てもすぐやられる。
 友人のゆきみの話。
 ゆきみは異常な人見知りのくせに異常にひとなつこくて誰からもすぐ好かれる。近所のコンビニのやまださん(仮名)という人となぜか仲良くなり(いつも思うんだけど、たまにこういうやつがいる。コンビニの店員さんと、どうやったら仲良くなれるんだろう)、買い物をするたびに一言ふたこと言葉を交わすようになった。
 コンビニってたまにくじ引きやってるよね。
 あれで、箱のなかに手をつっこんで、1枚引き抜いたら、それをみたやまださんがにこにこ笑顔で瞬時に
 「あ、それ外れですね!」
 と言ったらしい。
 ゆきみは、「自分で開けさせてほしかった……」
 と言っていた。
 親切で言ってくれたんだろうけど。なんか笑った。
 ゆきみと、そのつれあいのかすみくんの話。
 こないだこのふたりが神戸でデートしていたら、カフェで横に座った中高年カップルが、あきらかにどう見てもダブル不倫ぽい雰囲気だったらしいんだけど、女性のほうが、めちゃいい感じで
 「…バレンシアガに、乾杯」
 と言った。
 この話を聞いたとき、私たちはなんでそんなものに乾杯するんだろうと小1時間議論になった。
 まあ別にどうでもええねんけども。
 いいんだよ。
 かすみっていうのは俺のゼミの卒業生です。
 どうでもいいんだけど。
 バレンシアガに乾杯するっていうのはどういうシチュエーションなのか。
 バレンシアガの店でたまたま出逢ったのか。
 夜、路地裏を散歩していると(大阪市内は路地裏だらけで、永遠に歩ける)、家々の窓から、親子丼の匂いや、うどんの匂いや、カレイの煮付けの匂いがする。
 不思議だ。親子丼の匂い、というものがある。醤油の匂いとか、卵の匂いとか、鶏肉の匂いとか、そういう単体の匂いじゃなくて、親子丼の匂いという、固有の匂いがある。家によって作り方もぜんぜん違うだろうに、それでも親子丼はいつも親子丼の匂いがする。
 カレイの煮付けとか、ほんとうに不思議だ。ほかでもないカレイの、ほかでもない煮付けの匂い、というものがある。
 匂いとか味っていうのは、何ていうか、脳に近い感じがする。直接脳のなかに入ってくる感じ。
 匂いは、でも、鼻をふさいで口で息をすれば、なんとか嗅がなくてすむ。味というものはもっともっとずっと生々しくて、それはその対象が必ず舌に触れているからだ。身体的に接触しているものから直接伝わってくる情報。
 音もかなり脳に近い。それがどんなに聞きたくない音でも、手で耳をふさいでもかんぜんに無音にすることは難しい。かすかに聞こえてくる。
 視覚は脳から遠いような気がする。目を閉じてしまえば何も見ずに済む。
 感覚を感じたくないなあ、と思うときがある。感覚というものはかならず、時間をともなう。ある一定の時間、私たちはたまたま出くわした特定の感覚を感じ続けなければならない。それが怖いときがある。1秒、1秒、ずっとある音を、匂いを、味を感じ続けなければならない。これはとても怖い。
 そもそも、何の感覚もなくても、脳のなかに意識があるということが、とても怖い。起きているあいだずっと、1秒、1秒、自分の意識が継続しているのだ。
 これは怖いし、とても苦しいことだ。
 要するに、時間が1秒、1秒と経過することが苦痛なときがあるのだ。
 おはぎにも聞いてみたい。どんな感じか。
 たぶん、平気ですよと答えるだろう。おはぎには苦痛はないからね。
 だってそのために溺愛してるんだからな。そのために、というか、溺愛していることの結果で、というか。
 自由だし。好きなところで寝ている。そして家じゅうに、いかにもおはぎが好きそうな場所がたくさん作ってある。今日はここ、明日はここと、好きなところで寝ている。
 そういう動物や人は、「自分であること」の苦痛を、あまり感じずにすむだろう。
 だから、閉じ込められて飼われている動物というのが、私の最大の恐怖だ。
 猫を狭い部屋の、さらに狭いケージで飼っているひとがたまにいる。
 見るに堪えない。ほんとうにかわいそうだし、やめてほしい。
 ところで、沖縄の友だちの女子から聞いた話。中学生のとき(だからまだわりと最近の話だ)、地元で「白タクのおっさん」がいたらしい。
 ある携帯の番号をみんなで共有してて、遊びに行くときにそこに電話すると、特定のおっさんが迎えに来て、安い料金で那覇まで乗せていってくれたそうだ。
 なんか怖いことなかったの、って聞いたら、それはなかったですけど、トランクに大量のエロ本が積まれてました。
 めっっちゃ怖いやんそれ。
 なんか人間ってほんといろいろだな。
 しかしこういうの、どういういきさつでそうなったのかが知りたい。たまたま誰かが近所のおっさんに送り迎えを頼んだら、その番号がクラスで広まって、それが代々伝わっているのだろうか。
 本人は白タクをやってるつもりすらないのかもしれん。ただ地域の中学生から電話かかってきて、それで車で送ってあげる。で、すこしだけそのお礼ももらっとこか。なんかこれぐらいの軽い感じで始まって、それが軽い感じでずっと続いてるのかな、と想像する。
 いまもまだやってるんだろうか。そんな昔の話じゃないから、たぶんいまもまだやってると思う。
 そういえば、白タクのおっさんを呼ぶときには、「おっさんが渡してくるお菓子は絶対に食べちゃダメ」ということになっていたらしい。飴をもらったことがあるけど捨てました、とのこと。
 子どもたちも、それなりに警戒しながら、でも利用するところはちゃんと利用してる。
 しかし何もなくてよかったなと。やっぱりこの話、怖いよね。
 怖い話ばっかりしてるな。
 打越のエロ小説で思い出したけど、実は俺も書きかけたことがある。そしてそれを自分でも忘れていた。
 この話、飲み会なんかではわりと話すんだけど、ネットで書くのははじめてのことだ。
 邪悪なtbtさんから小説を書いてくださいと3年間にわたって口説かれてもずっと断ってたのだが、それは私は小説というものを書いたことがないのはもちろんのこと、まともに文学を読んだことすらなく、自分とはもっとも縁遠いものだと思っていたからなのだが、わりと最近まで忘れてて、ふと思い出したことがある。
 いや俺、そういえば書いてたわ。小説。
 書いていたのだ。自分でも忘れていたのである。わりと最近まで忘れていた。記憶を封印していたのかもしれない。ふとした拍子に思い出してあああ!ってなった。
 長い長い日雇い労働者および院生および非常勤講師の時代を経て、2006年にようやく龍谷大学に就職したのだが、その直前、私はもうテニュア(専任)として大学に就職することをあきらめかけていた。
 で、なにか食い扶持を見つけようとしていた。何とかして、どうにかして、飯というものを食っていかなければならない。おはぎときなこという猫もいた。おさい先生の研究もサポートせねばならん。
 ということで、もちろん日雇いとか塾講師とかバーテンダーとか、それまでやった経験のあることをすべてやって、何としてでも飯を食っていこうと思ってたんだけど、どうせならちょっとでも楽しそうなことしたいなあと思って、自分にはたぶん文章というものが書けるようだと思ってたから、もちろんたいしたカネにはならないだろうけど、それでもある程度まとまったマーケットを持った「ジャンルもの」なら、ある程度勉強して練習すれば、ある程度の収入になるのではないかと勝手に考えていた。
 ポルノ小説はどうだろう。
 時代小説や推理小説というジャンルも考えたけどまったく本当に興味がなくて、SFは逆に多少読んでたからそのレベルの極端な高さをよく知ってて、そのほかいろいろ考えて、そうだフランス書院とかあのへんどうやろ。
 もちろん、この時点では、あのジャンルの異常なほどのレベルの高さにまだ気づいていない。このジャンルの方がたには大変失礼な話であるけれども。
 で、2、3冊ほどフランス書院の文庫本を買ってきて、なるほどこういう感じかと勝手にわかった気になって、よっしゃ書いてみようと思って、それで実は2万字か3万字ほど書いたのである。原稿用紙で100枚ぐらいにはなってたはずだ。
 2005年ごろのことだと思う。
 完全に忘れてた。ちょっと前に、ふとしたことでふと思い出して、自分でびっくりした。
 それで、いろいろその前後のこともつられて思い出したんだけど、ポルノ小説を書くにあたり、おさい先生に「女性が傷つけられるシーンのない作品を書きます」と約束したのであった。
 しかしまあ、なにかの規範を逸脱しないとポルノグラフィーにならないような気がして、うーんでもなあ、ただの不倫ものとかつまらんしな、とかいろいろ考えて、息子と母親の近親相姦にした。
 これが娘と父親だと途端に暴力的な感じになるけど、逆ならまだええかなと。もちろんおたがい完全に同意しているという設定。
 ふつうの恋人や夫婦がふつうに愛し合う話はポルノにはならんような気がするよね。
 いやもちろん、このへんが素人の考え方で、これがもしちゃんとしたこのジャンルの作家さんなら、それも立派に作品になるんだと思うんだけど。
 で、書いたのよ。書き出して自分で書けちゃうことにびっくりした。もちろんペンネームで出すつもりだったことも大きいと思うけど、そもそもこのジャンルにそれほどの興味もないし、その方向での欲望は皆無だし、ほんとに書けるかなと思ったんですが、なんか個々のディテールから構築されたエピソードをつないで、それをさらに場面に織り上げていって、それをさらにさらにまとめてストーリーにして…という、ミクロなものをマクロなものにまとめあげていく作業がとても楽しかった。
 高校生の主人公と、若いシングルの母親がふたりで暮らしている。なぜか、わりと裕福な暮らしをしている。
 あるとき、ヤクザがオーナーをしている違法地下クラブ(笑)で、母親がステージ上でいろいろそういうことをして金を稼いでいることが発覚する。
 これは別に母親としては同意して、仕事としてやってるんだけど、息子はそれを見て傷つくわけです。このへん簡単に書くのが難しいけど。
 主人公はナイフを持って、単身でその地下クラブに忍び込む。このクラブはけっこう、薄暗く怪しくも煌びやかで昭和のゴージャスな感じの描写。彼はスキンヘッドの巨漢とステージ上でそういうことをしている母親を見つけ、壇上に飛び乗って男を刺し殺す。
 ヤクザと警察の両方から追われることになった二人は、なんとか大阪港まで逃げてきたが、そこでこの両方から囲まれてしまう。真夜中、嵐が近づく。
 暴風雨のなか、盗んだクルーザーに乗って二人は沖合へと逃げる。しかしそこにも海上保安庁やヤクザの船が待ち構えている。
 雨、風、そして大波。クルーザーの電気系統が故障し、真っ暗な沖合の海上で立ち往生する。迫り来る警察とヤクザの船。サーチライトと拡声器とサイレン。そこで、ヤクザが船から発砲したおかげで、警察の船がそちらに集中する。その隙にできた短い時間で、激しく揺れる真っ暗なクルーザーの操縦室で、二人は結ばれる。
 だいたいこういう大まかなストーリーを考えて、その合間にクラスメートの女子とのいろんな出来事とか、ほかにもそういう方面のエピソードをちりばめて書いていって、100枚ぐらいまでなったときに、ぽこっと龍谷大学に就職が決まったのである。
 そしたらもう、大学という意味わからん組織の意味わからん仕事に慣れるのに精いっぱいで、そしてまた、就職したということは社会学者として生きていくということで、それなら腹をくくってちゃんと調査して論文と本を大量に書かないといけないと思って、小説のほうはやめてしまったのだ。
 それから『同化と他者化』という私の最初の本を出版するための準備にほとんどの時間を費やすことになり、そういうことがいろいろと重なって、いつのまにか自分がそういう小説を途中まで書いたということすら完全に忘れてしまっていた。
 あれがどうなったかというと、えーと、たぶんまだウチのどこかにある。実は私はオールドMacのコレクターでもあって、家じゅうにSE30やらColorClassic2やらLC475やらPowerBook2400cやらPowerBook5300やらPerforma5320やら初代ボンダイブルーiMacやらが20台ほどあるのだが、たぶんそのうちのどれかにまだ保存されていると思う……俺が死んだらこれぜんぶ物理的に破壊してくださいね……
 ということをいろいろ詳しく思い出しているうちに、あれもっかい続き書いたろかなと思ってるんですが、さすがに本名はいろいろ仕事上マズいかもなのでペンネームになると思いますが、どこか書かせてくれる出版社いませんか。
 なぜかついったで「床で寝てた」で検索するのが好きで、たまに見てる。
 俺もうっかり床で寝たい。いや、寝てるけど。いまだと寒いからソファでいつも寝てます。
 でもなんか、うっかり床で寝ちゃって、あー寝ちゃったもうこんな時間、体バッキバキやんけシャワー入ろ、それより腹減ったな、っていうことがもうない。
 忙しいから、ということよりもむしろ、なんかそもそもそういう「うっかり」がほとんどなくなったような気がする。
 ソファで寝るときも、疲れたからちょっとだけ横になろう、よし起きて仕事だ、そんな感じ。せわしない。
 いやまあ、みんなもゆとりや余裕があって床に寝てるんじゃないだろうけど。でもなんか羨ましくて、いつも検索して、床でうっかり寝ちゃったひとを見るたびに、ああ俺も床でうっかり寝たいなと思う。
 さて仕事。
 こないだ起きたらひどいめまいで、ベッドから起き上がれない。びっくりした。
 これまでいちどもめまいなんかなったことないんだけど、最近たまーになるようになって、こないだ散歩中に地面が大きく揺れまくって、歩けなくなってその場にしゃがみこんでしばらく休んでた、ということもあった。
 こないだのんはこれまででいちばんひどかった。なんかその前の夜から、いまから考えたら調子悪かったんだろうと思うけど、ささいなことでイライラしたりしてた。で、朝起きて、ふつうに起き上がったら、世界中がゆっくりと大きく大きく揺れていた。トイレにも行けなかった。
 なんとか頑張って起き上がって、リビングの椅子に座ったんだけど、猛烈なめまいと頭痛と吐き気でどうしようもない。
 午後の診察時間になるのを待って、近所の耳鼻科にいった。
 耳鼻科っていつも思うけど、子どもが多くて面白いよね。そこはアレルギー外来なんかもやってるとこで、よけい子どもが多い。
 待合室に小さな子ども用のスペースがある。そこに2歳ぐらいの男の子がいた。
 若いお母さんが、もうひとりの、もうすこし大きな男の子を連れている。お兄ちゃんのほうの診察に来たみたいで、待ってるあいだ、弟のほうを子どもスペースで遊ばせている。
 年子ぐらいの男の子ふたりかー、大変やろなと思って見てた。
 そのうちお兄ちゃんのほうの診察の順番が来たので、お母さんは弟のほうも一緒に連れて診察室に行こうとしてるんだけど、この子が子どもスペースからまったく動こうとしない。
 お母さん、優しく「ほらもう行かないと。もうママ行っちゃうよー、○○くん(お兄ちゃんのほう)と一緒に、お医者さんのお部屋に行っちゃうよー」というと、置いてかれると思った子どもはめっちゃ泣き出した。
 「ほらー。な。だから、一緒に行こうな、な。靴はいて。行くでー」
 と優しく言うと、その子はガン無視して遊びだす。
 お母さんはまた「ほらもう行かないと。もうママ行っちゃうよー、○○くん(お兄ちゃんのほう)と一緒に、お医者さんのお部屋に行っちゃうよー」と言うと、また置いてかれると思って、めっちゃ泣きだす。
 もっかい「ほらー。な。だから、一緒に行こうな、な。靴はいて。行くでー」って言うと、穏やかな表情になってガン無視して当然のように遊びを続行する。
 このターンを5回ぐらい繰り返してた。しかし育児って大変やな…理屈とか理由とか正当性とか妥当性とかが一切通用しないんだな…。
 ・お母さんと一緒についていくために遊びをやめる
 ・遊びを続けるためにお母さんと離れる
 どちらか一方を選ばないといけない状況になっている。ふつうはここで、私たちはどちらかを選択することになる。
 どちらも選択しないのである。
 これは新しい。
 使えるのではないか。
 ・めんどくさい書類を書き、そのかわり予算を支出してもらう
 ・書類書くのめんどくさい。予算は支出してもらわなくて結構
 ふつうはどちらか選ばないといけない。
 そうか。
 どちらも選ばないという手があったか。
 ダメかな。
 最後はおとなしく靴をはいて、お兄ちゃんとお母さんと一緒に3人で診察室に入っていった。
 で、めまいですが、いちおうMRIも撮ったんだけど、何ともない、という所見だった。むしろ「きれいな脳」って言われた。この歳になると微小脳梗塞の跡がたくさんあるひとも多いらしい。それがまったくないねんて。
 まあ、過労とストレスですね、と言われた。
 しかし仕事っていうのはアレだよな、過労になったりストレスを感じたりしないものは仕事じゃないよな。
 仕事っていうのは、それは過労とストレスだよ。
 考え方おかしいかな。
 いま「微笑脳梗塞」って変換されましたけども。
 「あのひとずっとにこにこ笑ってると思ったけど、脳梗塞だったみたいね」
 めっちゃ怖いやろそれ。
 いま思いだしたけど、おさい先生が学生のとき、いまでもそうだけどすごい酒に弱くて、サークルの合宿で悪酔いして横になってたとき、友だちが缶ジュースを買ってきてくれたらしい。
 ミルクセーキの。
 これは辛い。
 関係ないですが、おさい先生の先生は野口道彦先生といって、部落問題の社会学の第一人者で、この分野を切り開いた方。ほんとうに何でも知ってる。現場のことも知り尽くしている。
 でも、ある日、ゼミに遅刻してきたときに、
 「目覚まし時計が壊れてました」
 という言い訳をしたらしい。
 これも本人に許可を得ずに書いてます。
 すごい。
 もし俺なら、本当に目覚まし時計が壊れていても、「はぁ? うそやろ?」と思われるに決まってるので、嘘でもいいから何か別の言い訳を考えてしまうだろう。
 目覚まし時計が壊れてたせいで遅刻するひとは実在するのだ。
 下手すると食パンを口にくわえたまま曲がり角でぶつかり合う女子高生と転校生も実在するかもしれない。
 こないだ、梅田の茶屋町のホテル阪急インターナショナルの2階のカフェでお茶してたんですよ。あそこ、吹き抜けの上になってて、コーヒー飲みながら1階のレストランを見下ろせるんだけど、それが好きでよく行く。
 下は「ナイトアンドデイ」っていう、ビュッフェ専門のレストラン。
 広くてきれいなレストランで、金色の照明がテーブルや食器やグラスに反射してきらきらしてる。
 そのなかを、たくさんのお客さんが、皿やトレーを持って、それぞれ自分のテーブルとずらりと並んだおいしそうな食べ物とのあいだをいったりきたりしてる。
 なんかとても幸せそうな、おいしそうな、舞踏会を見てるみたいな気分になる。
 こないだもまたそれを見下ろしながらお茶を飲んでいたら、あきらかにまわりから浮いてる4人組がいた。若い女の子で、みんなすらりと背が高く、顔がとてもとても小さくて、地味だけど上品な、仕立ての良さそうな服を着ている。ふたりはロングで、ふたりはショートカットだ。
 この4人がきゃーきゃー言いながら、楽しそうに、笑いあって、ときおりお互いハグとかしながら、テーブルと食べ物のあいだをいったりきたりしている。
 まわりのお客さんたちも、遠慮がちに、みんなその4人組を見てた。
 どうも隣の梅田芸術劇場(シアター・ドラマシティ)に出演中の、宝塚の女優さんらしい。
 ほんとうにそこだけ舞踏会みたいになっていた。

絵・齋藤直子

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 はじめまして。2021年2月1日よりウェブマガジン「考える人」の編集長をつとめることになりました、金寿煥と申します。いつもサイトにお立ち寄りいただきありがとうございます。
「考える人」との縁は、2002年の雑誌創刊まで遡ります。その前年、入社以来所属していた写真週刊誌が休刊となり、社内における進路があやふやとなっていた私は、2002年1月に部署異動を命じられ、創刊スタッフとして「考える人」の編集に携わることになりました。とはいえ、まだまだ駆け出しの入社3年目。「考える」どころか、右も左もわかりません。慌ただしく立ち働く諸先輩方の邪魔にならぬよう、ただただ気配を殺していました。
どうして自分が「考える人」なんだろう―。
手持ち無沙汰であった以上に、居心地の悪さを感じたのは、「考える人」というその“屋号”です。口はばったいというか、柄じゃないというか。どう見ても「1勝9敗」で名前負け。そんな自分にはたして何ができるというのだろうか―手を動かす前に、そんなことばかり考えていたように記憶しています。
それから19年が経ち、何の因果か編集長に就任。それなりに経験を積んだとはいえ、まだまだ「考える人」という四文字に重みを感じる自分がいます。
それだけ大きな“屋号”なのでしょう。この19年でどれだけ時代が変化しても、創刊時に標榜した「"Plain living, high thinking"(シンプルな暮らし、自分の頭で考える力)」という編集理念は色褪せないどころか、ますますその必要性を増しているように感じています。相手にとって不足なし。胸を借りるつもりで、その任にあたりたいと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

「考える人」編集長
金寿煥

著者プロフィール

岸政彦

1967年生まれ。社会学者。著書に『同化と他者化─戦後沖縄の本土就職者たち』『街の人生』『断片的なものの社会学』(紀伊國屋じんぶん大賞2016受賞)『愛と欲望の雑談』(雨宮まみとの共著)『質的社会調査の方法─他者の合理性の理解社会学』(石岡丈昇、丸山里美との共著)『ビニール傘』(第156回芥川賞候補作)『図書室』など。最新刊は『リリアン』(2/25発売)。

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